狐の婿取り~第三話~

「さぁ!寄ってらっしゃい!うちの焼き栗は最高だよ!」

その日。
約半日歩いて到着した宿場町では、辺りから甘い香りが漂っていた。
まだ日も高く、賑わいを見せる街道。
並ぶ店の軒先では、芋や栗と共に、キジを焼く芳ばしい香りが食欲をそそる。

「腹減ったなぁ~。」

この時代、女性が旅することは決して一般的ではない。
悠理は当然目立っていて、大きな菅笠(清四郎が貸し与えた)を被り、顔のほとんどが見えない状態でも、その華奢で優雅な身体のラインは、行き交う旅人たちの目を引いた。

清四郎は出来るだけ歩幅を合わせ、夫婦のように寄り添いながら歩く。
若い女に目を付ける悪漢など、どこにでもいるものだ。
特に彼女は美しく、顔が見えなくとも十分に魅力的である。
道中の余計なトラブルは、出来るだけ避けたかった。

「さて………昼時も過ぎましたし、少し休みますか。あの店なんてどうです?珍しく麺物を提供しているようですよ。」

「行く行く!!」

傘越しに笑顔を見せる悠理は、お預けを食らっていた犬のように目を輝かせる。
清四郎は、あまりにも素直な反応を見せる彼女に半ば呆れつつも、温かな感情を覚えた。

いくら狐とはいえ、年頃の娘だ。
自分の周りに存在する、艶やかでしとやかな姫たちとは随分と違う。

物珍しさの中に、それだけではない思いが生まれつつあったが、清四郎はそれに気付かぬ振りをし、視線を外した。

彼女はあくまで旅の道連れ。
慰み者として扱うことも、ましてや特別な関係を築くこともいけない。
二人が住む世界は、あまりにも違い過ぎるのだから。

自制という名の鍵を強くかけ、先を急ぐ。
彼もまた、空腹のため何か食べたくて仕方なかったのだ。
先ほどから腹がぐぅぐぅと鳴っていた。

しかし────

店に入った途端、食欲が失せるほどの食べっぷりを見せつけられ、清四郎はポカンと大口を開く。
目の前には空の器が山と詰まれているものの、悠理は更に五杯目の雑穀麺を追加。
その上で、鮎や山鳥を焼く厨房にも絶えず視線を注いでいた。

「んまい!ほら、清四郎も食えよ!」

「…………はぁ。」

申し訳程度に山芋の煮物を突き出され、彼は渋々箸を延ばす。
異次元へと繋がっているかのような胃袋は、見る者の食欲を確実に減退させた。

しかしどこか小気味良い。
不思議な感覚だった。


「ふぁあーー!食った食った!」

計十二杯の麺物。
五杯の雑炊。
鮎、ヤマメ、山鳥、ウズラなどの皿を平らげ、悠理はようやく人心地ついたように息を吐き出した。

清四郎はもはや言葉もない。
出された水を啜り、見事なまでに肉をそぎ落とされた骨をまじまじと見つめる。
野犬ですらここまで綺麗には食べられないだろう。

あ、そうか。
彼女は狐だった───
と、忘れかけていた現実を思い出す。

そんな彼の戸惑いに気付いたのか、先ほどよりも肌艶の良くなった悠理は、にっこりと微笑み、清四郎を上目遣いで見上げた。

「へへ………驚いた?」

「え、ええ。まあ…………」

「普段はここまでじゃないんだけどね。あたい、結構食う性質(たち)なんだ。母ちゃんにもよく文句言われる。“おまえの所為でどれだけ苦労させられたか”………って。」

「でしょうね。」

即答した後、清四郎は取り繕うような咳払いを見せ、それでも穏やかな口調で切り出した。

「まあ、健康的で良いと思いますよ。」

────蔵がいくつあっても足りないだろうけど。

そんな感想を喉の奥に封じ込めて。

「ほんと?良かった………軽蔑されちゃうかと思った。」

頬を染め、僅かな恥じらいを見せる彼女はとても愛らしい。
どんな男でもイチコロだ。

彼女の心配をよそに、清四郎は軽蔑などしていなかった。
むしろ感心すらしている。
人前で、それも男の前で、ここまで開けっぴろげに食事をする女人は見たことがない。
皆、扇の向こうでおちょぼ口を隠し、二、三口食べたらもう満足、といった姫ばかりだ。
無論、それが是とされる世の中。
特に彼が住む貴族社会では、“慎ましやかなこと”こそが美とされるのだから、当然である。

「貴女は………見ていてとても気持ちの良い女性ですね。」

「え?」

思わず本音が零れたが、清四郎はそれを撤回することなく、悠理を見つめた。

「私は正直、興味本位で貴女を旅の共に誘いました。退屈しのぎになればいいと思って、ね。」

「あぁ、そだよな。それはあたいも同じ。一人旅って寂しくなるもん。」

「今は心の底から、貴女と知り合って良かったと思います。とても…………そう、とても………惹かれる。」

「惹かれる?」

視線は絡まり、意味ありげな光を宿す黒い瞳に囚われる。
悠理は反射的に口を閉じ、頬を林檎のように染めた。

清四郎の顔はほんの少しだけ苦しげに見え、しかしそこに冗談や嘘は隠されておらず、むしろ……胸が高鳴るような真摯な想いが秘められているようで、茶化すことも出来ない。

「…………あ、会ったばっかじゃん。」

目を逸らし、悠理は呟いた。
だが清四郎の手は彼女のものに重ねられ、またしても見つめ合う羽目となる。

「…………そうですね。出会ったばかりです。私としても想いを告げるつもりはなかった。けれど…………」

重なるだけでなく絡めてくる指が、悠理をドキドキさせる。
恐れと緊張。
しかしそれ以上の歓びがそこにはあった。

「感情に歯止めなど利かないようだ。」

「あっ!」

引き寄せられた手に清四郎の唇が触れる。
それは一瞬の出来事で、忙しく働く店の者も気付いてはいまい。

「少し早いですが…………宿へ行きましょうか。」

反応出来ないまま促され、席を立つ。
悠理の頭は混乱していたが、決して拒否したいわけではなかった。

心はざわめく。
果たして彼の言葉を信じていいものか。
だが、たとえ一時の気紛れだとしても、後悔するようなことはないだろう。

獣に後悔など似合わない。
求めているのは彼だけではないのだから。

食べた以上の銅貨を置き、二人は店を後にする。
彼の袖に隠れた手はもちろん、強く繋がれたまま。緊張に汗ばむ掌は、それでも離れることはなかった。

たどり着いた宿はその界隈で一番の老舗。
清四郎は女将にまたしても多くの銅貨を渡し、人払いするよう頼んだ。

そのお陰もあってか、案内された部屋は離れにある一番広い座敷で…………
障子戸からは山紅葉の美しい景色が望めた。
空気が澄んでいる。
夕べの雨がそうさせているのだろう。

 

荷物を置いてすぐ、清四郎は背後から悠理を抱きしめた。
身を固くしてしまうのも、彼女にはこのような経験が乏しいため。
厚い胸板が背中越しに伝わり、体温が上がる。

「…………怖い?」

無意識に震えていたのだろう。
清四郎は優しく尋ねてきた。

「こ、怖いような、怖くないような。」

「…………狐はどんな風に交わるんです?」

それは心を解すための、冗談めいた問いかけだったのかもしれない。
しかし脳裏に思い出される仲間たちの営みは、余計に緊張を煽ってしまったようだ。

「し、知らない。」

「………嘘はいけませんよ?」

長い髪がかきあげられ、その項へと唇が這う。
手際よく解かれた帯は畳へと落ち、薄い着物の襟元から清四郎の大きな手が滑り込んだ。

慣れた仕草。
彼の経験値が窺える。

「綺麗な肌だ…………ずっと触れたかった。」

裸を見られること自体は恥ずかしくも何ともない悠理だが、こうした接触は流石に初めてで、自ずと汗ばんでしまう。
小さな胸は柔らかく揉み解され、その尖りが爪で引っかかれた時、全身に言いようのない甘い痺れが突き抜けた。

「ひゃ……あん!」

夕暮れ時の空はまさしく茜色。
しかし悠理の顔はそれ以上に赤かった。

流されるようなこの行為は、もしかすると何も生み出さないのかもしれない。
けれど男の情熱を無視出来るほど悠理は彼が嫌いでなかったし、むしろ好意すら抱いているため、逃げる気は毛頭無かった。

この旅だけの、刹那的な関係でもいい。
きっと───後悔なんかしない。

「せ……ぇしろぅ………」

か細く呼んでみる。

「もっと………名を。貴女に呼ばれると………血が滾る。」

震えていた肌は更なる熱を帯び、着物が全て取り払われ、畳に横たえられた後も、もはやおそれを抱くことは無かった。

「清四郎………」

「狐の姫…………なんと愛らしい声で呼ぶのです。」

清四郎の瞳が情熱を孕む。

嵐のような口付けも、
波のような愛撫も、
そして灼けつくような交合も、
全てが初めてなのに、悠理はその全部に溺れた。

夢のような、でも決して夢などではない甘い痛みが、身体を貫く。

「は………ぁ…………」

「ずっと…………こうしていたい。幾日も……………旅の終わりなど忘れて………ずっと…………」

汗にまみれ、譫言のように呟く清四郎は、三度(みたび)悠理の身体を貪った。

先ほど食べた獣肉がそうさせるのか。
欲望が尽きることはない。

貴族の身でありながら、狐の娘に心奪われるなど、あってはならぬこと。

自分には責務がある。
幼き頃から共に過ごしてきた愛らしい姫を娶るという約束事が…………。

しかし────

「せぇ……しろ?」

潤んだ瞳で見上げてくるこの娘を手放したくはない。

全てが規格外。
全てが新鮮で愛おしい。

柔らかく吸いつく肌も、
濡れた唇も、
絡みつく長い手足も………
清四郎を捕らえて離さない。

「………悠理。可愛い人だ………」

夜の気配が忍び寄る部屋で、二人はいつまでも睦み合う。

それはまさしく獣のような交わり。
位も、立場も、種族すら捨て去って、ただの雄と雌として互いを貪った。

 

果てのない時が流れ───

身体の奥深くに辿り着く熱き迸りは、悠理に身ごもったことを告げる。
本能的に分かるのだ。
欲しいと望んだ雄の子種が着床したことを。
もちろんこの先、それを彼に告げることはない。恐らくは旅と共にこの関係は終わるだろう。
彼には戻るべき場所があるし、自分が伴侶に選ばれる可能性は露ほどもないのだから。

だからこそ今は、今だけは、こうして運命に決められた番のように触れ合っていたい。

胸に走る痛みは破瓜よりも強く、
頬を伝う涙は、決して悦びだけではない複雑な想いが宿っていた。

夜は更け、どこからか早生まれの鈴虫が鳴く。
そのもの悲しい鳴き声は、悠理の心を少しだけ癒した。

彼らが真に結ばれる日は、まだ先のこと。
道行きは、波乱の中にある。