闇を舞う火花。
焚き火がゆっくり、消えかけようとしていた。
亥の刻を過ぎたあたりだろうか。
雨は小降りに落ち着いているが、夜の冷え込みはなかなかに厳しい。
唯一の暖に頼りながら、互いの身の上話に興じた二人は、徐々に薄暗くなる岩壁をうとうとと眺めていた。
まともな食事も摂らず話していたのだ。
濡れた身体は、旅の疲れを倍増させる。
さすがの美丈夫も睡魔には逆らえず、瞼を落としていった。
狐の娘もまた同様に強い眠気を感じていたが、火を絶やしては流石に肌寒く、辺りを見回し燃料になる枝葉を探していた。
が、しかし、それらしき物は既に燃やし尽くした為、見当たらない。
かといってこのまま寝込むと、朝方の冷気が体に堪えるだろう。
先はまだ長い。
体調を崩す要因は取り除きたいところだ。
最後の手段とばかりに両手を宙に翳した悠理は、何やら妖しげな呪文と共に狐火を出現させた。
オレンジ色の炎が瞬く間に岩穴を暖める。
それは小さいながらも数多く生まれ、濡れたまま干していた着物もみるみる内に乾き始めた。
悠理はホッと胸を撫で下ろす。
明日の朝には無事、着慣れた衣装に袖を通す事が出来るはずだ。
他の女人よりも背丈があるとはいえ、やはり男物の着物は身に余る。
長旅には不都合だった。
しかし、問題はそれとは別にある。
狐火は非常に便利な妖力だが、体力と精神力が根刮ぎ奪われる。
妖狐としてはまだまだ半人前の悠理。
その上、比較的難易度の高い技だ。
疲れに加え、眠気までもが邪魔をしてくる。
「腹も減ってるし、あんま保たないだろうな。」
荷物を枕に横たわる男は精力漲る若人で、一晩ぐっすり眠ればきっと体力も回復することだろう。
それに、着物の上からでも分かる逞しい肩幅や太腿は、相当鍛えているに違いなかった。
「村の男共とはぜんぜん違うよな…………」
父狐は恰幅のよい部類だが既に老人であり、一般的な若い妖狐は皆、細身で軟弱。
力仕事は不得手で、その代わり妖術に長けている。
人間を欺き、時に困らせ、悪戯をする。
かといって暴力的な事を嫌う為、大きなトラブルにはならない。
それでも化かされた方にとっては、大いに不愉快である。
捕らえられ、毛皮にされた同胞もちらほら居た。
それはさておき、悠理もそろそろ十八になる。
年頃の娘は村を出て、伴侶を見つけなくてはならない。
相手が人間だろうと妖しであろうと、構わなかった。
種の存続が優先されるのだ。
跡取りとして大事に育てられた兄狐は今年三十路になろうというのに、未だ独身。
妖力は上手く操るが、いかんせん雄としての魅力に欠け、未だこれといった相手が見つかっていない様子だ。
孫が欲しい母は半ば諦めモード。
こうなれば娘の悠理に期待しよう、と普段からこうして遠出させ、出来るだけ多くの雄と出会う機会を増やしてくれていた。
だが悠理のお眼鏡に適う男はそうそう居ない。
逞しく、強く、そして高い稼ぎを生み出す相手でないと、大食らいの自分を養うことはまず不可能だろう。
────こいつ、わりと良い男だよな。
狐の娘と知っても、さほど驚きもせず、旅を共にしようと誘ってきた男。
人間の男はそのほとんどが悠理の正体を知ると、恐れ戦き、兎の如く逃げ出す。
もしくは物の怪同様に扱い、捕らえようと発奮し、縄を振り回すのだ。
今回そのどちらでもない対応をしてくれた清四郎に、悠理は不思議な居心地と安堵感を抱いていた。
もしかすると、こういう男となら一生を添い遂げても楽しいのかもしれない。
だが、これらの妄想は彼女の一方的な願望────。
聞いたところによると、彼は帝の寵愛を受ける忠臣の一人。
政治的影響力のある次期右大臣の地位が約束されていた。
その上、直系でないにしろ、彼は帝の義弟に当たり、親が決めた許嫁まで存在すると言う。
恐らくはどこぞの姫君であろう。
狐の一族とは比ぶべくもない。
「………ま、いいや。」
さほど強い結婚願望を持っているわけではない為、悠理は諦めも早かった。
もちろん母親が見ていたら、目くじらを立て怒ること間違いなかったろうが。
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力を温存すべく、一つずつ減らした狐火は、最後、燃え尽きた焚き火の灰へと落とされた。
このくらいなら、眠りについていても朝方まで保つはずだ。
ようやく横たわり目を閉じた悠理に、静かな雨音だけが耳に落ちてくる。
────明日から、どんな旅路になるんだろうな。ちょっと楽しみ。
浮き立つ心の所為か自ずと口元が緩む悠理は、借りた着物を脱ぐと、そっと化身を解き、金色の狐へと姿を戻した。
────ふふ、この方が暖かいや。
もぞもぞと動きながら、清四郎の近くに身を落ち着ける。
仲間以外の雄と寄り添って寝たことは、生まれてから一度もない。
幼い頃は雄雌関係無く、山小屋で夜を明かしたり、冬の寒さから身を寄せ合って眠ったりもした。
さすがにこの年になると、そういう機会は減ってきたものの決してゼロではない。
かといって、そこに密な関係があるわけでもないのだが。
────なんか、こいつって、不思議なんだよな。落ち着くっていうか、気持ちが凪ぐっていうか。
うつらうつら………夜が更けてゆく。
悠理は震えることなく、幸せな気分で深い眠りに誘われていった。
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次の日。
打って変わって、晴れ間が広がる良い天気だった。
絶好の旅日和だ。
鳥の囀りが木霊する中、爽やかに目覚めた清四郎は、寄り添う金色の獣に目を奪われていた。
「なんと………見事な毛並みだ。」
────人間としても狐としても、絶対的な美しさは変わらないのだな。
そっと尻尾を撫で、その触り心地に肌を震わす。
柔らかく、そして適度な温もりを持つ毛並み。
思わず頬擦りしたくなったが、女性に対してさすがに失礼かと思い、欲望を堪えた。
狐火は小さく、小さくなっていた。
清四郎はおもむろに立ち上がると、乾いた着物を見つめ、その能力に感心する。
────なるほど。噂通り、これがかの有名な狐火か。なかなか便利なものですな。
一頻り感心した後、尻尾を巻いたままぐっすりと眠る狐の娘へ、男は優しく声をかけた。
「悠理、そろそろ起きてください。」
一声かけても微動だにせぬ。
清四郎は膝を折り、耳元でもう一度呼びかける。
「悠理、朝ですよ。」
すると重たそうな瞼が開き、透明な茶褐色の瞳が見え始める。
そしてまるで夢の様にゆっくりと人間へ変化していくその姿は……………当然、一糸纏わぬ裸体だった。
まさかの事態に清四郎は焦り、慌てて着物を差し出す。
「コホン…………ほら、これを着て。」
目を逸らし、咳払いで誤魔化そうとしたものの、彼の双眼は美しい造形をしっかり記憶させてしまった。
細い首から伸びる二本の腕と、小さく可憐な二つの膨らみ。
細くなだらかな腰は、今まで出会ったどの女人よりも扇情的に感じた。
足の付け根にある淡い翳りは、彼女がまだ成熟した女ではない証拠。
思わず触れたくなるほど、柔らかそうな被毛だ。
引き締まった両の脚は無防備に投げ出され、決して色気を振りまいているわけではないのに、清四郎は欲情する自分をはっきりと感じ取ってしまう。
裸体の女など何人も見てきた。
しかし悠理はそれら全てを凌駕するほど美しかったのだ。
喉を、熱いものが流れ落ちてゆく。
────ここのところ、女性と交わりを持たなかったとは故、これは………
強固な理性を持つ清四郎はたじろいだ。
旅を誘ったのは自分。
このままでは欲望に負けてしまうかもしれない。
狐の娘に手を出すなど、由々しき事態である。
そんな清四郎の様子に気付かない悠理は、寝ぼけ眼で男の顔を見上げる。
彼女は裸体であることを一切恥じらうことなく、ぐんと背伸びし、眠気を振り払った。
仲間と雑魚寝する時、互いに衣など着けない。
狐なのだから当然だ。
異性に肌を晒すことに僅かな抵抗もないのはその所為。
無論、雄の欲情を誘う術も知っている。
経験したことはないが、そういうまぐわいを目にしたことも多々あった。
一般的な狐は真冬になれば繁殖を行うが、長く人間に化けている者は特に盛りの時期を持たず、季節に関係なく交わる。
父も母も、そして従兄たちも・・・・。
半人半妖な彼らに自然の摂理は関係無かった。
「おはよ、清四郎。雨止んだみたいだな。」
渡された着物をさらりと羽織り、悠理は岩穴に差し込む光を嬉しそうに眺めた。
その姿に焼けるような焦燥を感じる清四郎。
自ら旅に誘ったとはいえ、慰み者が欲しいわけでは決してなかった。
話し相手となってくれればそれだけで充分だったのに───────「は、早く出発しましょう。どこかで朝飯を食べなくては身体ももちませんし。」
「うん!あたい、すっごく腹減ってたんだ!」
屈託のない、まるで子供のような笑顔を見せる娘は、目映いほどの光を纏っている。
清四郎は困惑していた。
あと数日、彼女と共に居て、我慢がきくだろうか。
忍耐が求められる旅など想定外だぞ。
しかし別れがたい存在であることは、夕べの語らいで身に染みている。
悠理はとても話し上手で、どの話題も冒険に満ち、楽しいものだったからだ。
────さて、どうしたものかな。
抗いがたい魅力を感じ始めた清四郎は、悠理の無垢な瞳からそっと目を逸らす。
真正面から対峙すればするほど、彼女に嵌まっていくだろう自分を抑えられる自信がなかった。
遊び相手にはしたくないというジレンマ。
かといって縁を結ぶことはさすがに躊躇われる。
相手は妖狐だ────距離を考えろ、清四郎。
しかし瞼に浮かんでくるのは、彼女の美しすぎる裸体ばかり。
この先の苦行のような旅路を予想し、彼の溜息は深く長く、岩穴に散った。
悠理と出会ったこと自体、けして後悔はしていないのだが───────