scarlet of darkness~本編~

夜な夜な、黒いマントを翻し現れる一人の紳士。
この国の王である’マンサーク’の娘‘ユーリ’は、茜色の空を眺めながら、ひたすら彼を待ちわびていた。

名も知らぬ男と出会ったのは、もう二週間も前のこと。
今日と同じような夕焼けの下、一陣の風の如く現れた男に、彼女は腰が抜けるほど驚かされてしまう。

「な、な、なんだ!?おまえ!」

ユーリは紛れもなく、この国唯一の『姫』であるのだが、乱暴な言葉遣いと隠しきれない粗暴さで、とてもじゃないが上流階級の女性には見えない。
その上、男顔負けの旺盛な食欲。
一日五食食べてもまだ足りない、尋常ならざる胃袋の持ち主でもあった。
そんな見た目だけは美しい、ちょっと残念な彼女を国民たちは、『ありゃ、嫁には行けねぇな。』と絶望視していたが、一国の姫たるもの、縁談など本気になればどこにでも転がっているのだ。

男と出会ったその日。
母、ユリコの猛烈なプッシュが功を奏したのか、隣国の王子がユーリを一目拝顔したいと白い馬に乗り、遠路遙々城へとやって来た。
ビドウ王子は長い金髪と青い目の持ち主で、女ならば誰もがうっとりするほどの美しい顔立ちをしている。
そんな分かりやすいハンサムが大好物のユリコは、どんな手段を使ってでも娘を結婚させなくてはと奮起した。
しかしユーリの王子に対する第一印象は「見た目だけのへなちょこ」だったし、ビドウの方も「エレガンスさの欠片もない姫だ。」と、消極的な感想を抱いてしまう。

どちらかといえば、母であるユリコ妃の方がよほど妖艶な色気がある。
女に不自由していない彼は、恋に長けた大人の女性にこそ、プレイボーイとしての実力を試したくなるタイプだったのだ。

それはさておき━━━━
互いに興味が無いと判断したユーリは、歓迎ムードたっぷりのパーティーを抜け出し、ベランダでひんやりした空気を吸い込んでいた。
料理は一通り胃袋に収めたし、王子が持参した美味しいワインも身体を適度に火照らせてくれた。
見合いや縁談には一分の興味もないが、こうしたパーティは大好きなユーリ。
今日のあの料理は旨かったな、と反芻しながら、燃えるような夕焼けをぼんやりと眺めていた。
空は次第に禍々しいほどの赤へと変化していく。
不吉な予兆を感じさせるその景色に、ユーリはぶるりと身を震わせた。
瞬間、ざぁっと風が吹き抜け、気付けば目の前が真っ黒に染まっていた。
否、真っ黒の男が視界を遮るよう、立っていた。
あまりにも唐突のことでユーリは背を仰け反らせた後、腰を抜かしてしまう。

「な、な、なんだ!?おまえ!」

ここは堅牢な造りの城。
頑丈すぎる門には見張りも大勢いる。
何よりも姫である自分の前に、誰の案内もなく現れるなんて事、あってはならないことだった。
しかし彼━━━そう、黒髪の男は夕陽を映し込んだ瞳で、腰を抜かしたままのユーリを真正面から射抜くように見つめる。
強い魔力を感じさせるその瞳は冷たく、ぞっとするほど美しい。
整った形の唇は紅を差したかのように赤く見えた。

━━━こんな美しさは初めてだ。

ユーリは瞬きも忘れ、そう思った。
彼はまさしく闇世界の住人。
二人の間には明確な境界線が横たわっている。

しかし、いつの間に魅せられたのだろう。
意識が微睡み始めたユーリは、次に気付いた時、男の逞しい腕の中にすっぽりと収まっていた。
異性の、それも人間ですらない魔物の腕になど本来ならば居られるはずがない。
ユーリは本能的に抜け出そうとするが、黒いマントで覆われたそこはまるで別次元のように自分の意思が反映されず、どれほど焦っても身動ぐことすら出来なかった。

「無駄ですよ。」

思ったよりも透き通った、しかし男性特有の低い声。
男は困り果てた女の耳元でそう囁いた。

━━━━━なんで?

目だけで訴えるユーリの口は閉じられたまま。
いつしか言葉を発することも出来なくなっていた。

「姫、貴女は僕の食料に選ばれたのです。これから1ヶ月の間毎夜、こうして身を捧げてください。」

そう言い終わるや否や、ユーリの首元に鋭い熱が走った。
それは痛みではなく、今までの記憶にないほどの熱さ。

━━なんだ!?あたい、何されてんの!?

艶のある髪が頬を撫でた時、ようやく男の牙が首に食い込んでいると理解出来る。
ズズッっと啜るような音と共に、淡い血の香りが辺りに漂う。
ユーリの視界はくらり、目眩に揺れた。
ただでさえ微睡んだ意識。
それは眠りに入る前の心地好さにもどこか似ている。

 

「想像より遥かに…………極上だ。」

男の感極まった呟きすら夢現の世界に木霊し、ユーリはとうとう意識を手放してしまった。

目覚めた時、そこは見慣れた自室のベッド。
ドレス姿のまま横たわったユーリには、きちんと肌掛けが被せられていた。
クラクラした頭でゆっくり起き上がると、一枚のメッセージカードが手に触れる。

━━━明日も貴女を味わいたい。

几帳面さを感じさせる達筆な字。
記憶の中の男を思い出す。

濡れ鴉のような艶のある黒髪と赤い瞳。
整った顔立ちからは、大人の男が纏う色気を感じた。
高い背丈と逞しい身体。
マントの中での抱擁は、首筋よりも熱く身を焦がす。

「・・・・・何考えてんだ、あたい。あいつは、あいつは…………吸血鬼じゃないか!」

そう。
近隣諸国にまで伝わる吸血一族の噂。
うら若き乙女の血を啜りながら、千年もの時を生き永らえる特殊な生態。
だがユーリはその噂を聞いたとき、胸が弾んだ事を覚えていた。

━━━千年も生きることが出来たら、世界中の美味しいもの全部食べられるかも!?

愚かな彼女のベクトルは常に‘食’へと傾いている。
しかし残念なことに、吸血一族の主食は‘フレッシュな血液’で、ユーリにとってそれは到底我慢出来ない現実だった。

牙を立てられた箇所にそっと触れてみる。
小さな瘡蓋が二つ感じられ、あれが夢でないことを告げていた。

ユーリはベッドから立ち上がると、ガラス戸を開け放ちベランダに立つ。
すっかり日は沈み、代わりに大きな赤い月が見下ろしている。

あの男は、どうやってあの場所に辿り着いたのか?
噂通り、コウモリの姿になって?
それとももっと特殊な力が備わっているのだろうか?

湧き出る興味は尽きない。
少しくらい血が吸われても、痛みすら感じないわけだから、特に嫌悪感を抱く必要もなかった。

━━━1ヶ月・・か。

ユーリはフツフツと膨張し続ける好奇心を胸に、浮かぶ月を見上げる。
退屈を嫌う姫にとってこれは何よりのご褒美。
明晩、必ず自分の元を訪れるであろう男への質問を頭に思い浮かべ、彼女はにまにまと頬を緩めた。

愚かなユーリはまだ知る由もない。

この出会いが、安穏とした生活を覆す大きな一歩であることを。
そして━━━━
人生を賭けた激しい恋の入り口に立たされてしまったことを……年の割りに幼い姫は、欠片すら想像出来なかったのである。