sequel

ヨーロッパ随一のホテル『Fida Malika』は、アラブの王族が自分たちの為に建てた豪華絢爛な宿泊施設だった。
長期に渡るバケーションを、彼らは親族や臣下、友人達を引き連れやってくる。
遣うお金も桁外れ。
周辺の街は活気に包まれ、店の主人は懐の潤いを手放しで喜ぶのが常だった。

大勢の美人妻達がメインストリートを練り歩く様も一見の価値があり、各国のマスコミがこぞって取材するのも習慣である。
当然、その頃になると周囲の安ホテルはほぼ満室。
予算に融通の利く取材クルー達に押さえられた高級ホテルもまた、予約で一杯となった。

その中でこの『Fida Malika』だけは、限られた人間しか出入り出来ない為、平穏が保たれる。
ようするに本物のVIPしか予約を受け付けないのである。
一見さんお断りの紹介制。
そのハードルはなかなかに高い。

そんな豪華ホテルにて、一人の青年が視線を集めていた。
彼の美しい髪や瞳、そして長い手足に相応しい高級なスーツ。
それら全てがロビーのソファに腰掛ける女性達の目を奪っていた。
いや………もしかすると男だって惑わされているかもしれない。
洗練された着こなしや醸し出す色気は性別問わず惹きつけてしまう。
理屈など必要としないものだ。

オーダーメイドのシックなコートをホテルマンに預けた彼は、腕時計に一度目をやると、どこか嬉しそうに口元を緩めた。
そして彼の目と同じ、深いグレーのネクタイをきちんと整える。
たったそれだけで、特別な人と待ち合わせしていることが明白に読み取れ、観客はより一層注視した。

一体どんな美女と待ち合わせなのだろう?

好奇心は逸る。

そこへ────

「サシャ!」

「悠理!」

まるで妖精のような軽やかなる足取りで、彼女は現れた。
日本人離れした薄茶色の髪は空気を纏い、歩く度にふわりと揺れる。
ほっそりとした首には大粒の宝石をあしらったチョーカータイプのネックレス。
と同様に腕には、これまた派手なブレスレットが飾られていた。
どちらも目を剥くような値段であることに違いない。

シフォン素材の真っ赤なワンピースはスレンダーな肢体をゆったりと包み、長く健康的な美脚を露わにしている。
昔よりずっと柔らかな曲線を描く身体。
履き慣れないルブタンのハイヒールも、最近では何とか様になってきていた。

真珠色をしたシルクのショールは鎖骨を隠すように巻かれていて、この上なく上品かつ洗練されたファッションとなっている。
誰が見ても上流階級の令嬢にしか見えないだろう。
事実、彼女は社交界でも指折りのセレブで、派手な母親と共に繰り出せば、意図せずとも皆の視線を集めた。
もちろん、彼女たちを知らぬ者はその世界に存在しない。

「悪い。遅れた。」

「たった数分だよ。それに待つのも楽しみの一つだ。」

見目麗しい男女を羨ましく眺める者、悔しそうに見つめる者、二手に分かれたが、それにしてもこの場で彼らほど雰囲気漂うカップルはいないはずだ。
“サシャ”───と呼ばれた男は、彼女の腰を優しく支えながらフロントへと向かった。

「ケンビシ様、ようこそ、我がホテルへ。お部屋はご用意出来ております。」

「サンキュ。」

「言付かった品は全て揃えておりますが、何か足りない場合は直ぐにお申し付けください。」

「O.K.───助かったよ。」

カードタイプのルームキーを受け取ったのはサシャで、悠理は彼の前を悠然と歩く。
醸し出される女王の如き風格。流れる髪からは太陽の香りがした。

最上階のプレジデンシャルスイートは、特別な者にしか開放されない部屋だ。
王族、貴族、国賓などなど。
その存在すら知らされていない者も多い。

部屋の前では初老ほどのバトラーが出迎え、サシャの鍵を受け取ると恭しく扉を開けた。

「何か御用がございましたら、私になんなりとお申し付けください。」

そう言って深々と頭を下げ、彼は消えていった。
控えの間で待機し、どんな要望にも応えるのが彼の役目だった。

悠理が部屋へ入るなり、目に飛び込んできたのは数多くの薔薇達。
畳二畳分はあろうか、大きなダイニングテーブルの上には色とりどりのスイーツやフィンガーフードが所狭しと並べられていた。
ワインクーラーにはシャンパンやフレッシュジュースが窮屈そうに冷やされている。
どれも見たことのないラベルが貼ってあり、それはホテルご自慢のマスターソムリエが自信を持って選んだ品だった。

「うんうん!いい感じ♪」

「これはこれは…………圧巻だ。」

「記念日だもん。パアッとやんなきゃ!」

うず高く積み上げられた新鮮なフルーツから葡萄を一粒摘まみ取った悠理は、ヒラヒラと泳ぐように窓際へと辿り着いた。
眼下には煌めく街灯。
オレンジ色の灯りに彩られた古い街並みは、いつ見ても美しい。
歴史ある街ならではのノスタルジーがそこには存在するのだ。

葡萄の甘さに口元をほころばせていると、悠理の背後へサシャがそっと近付く。
上品と思わせたワンピースは後ろを向けば大胆なデザインで………
大きく開いた背中には野暮な下着など見当たらず、男の欲望を瞬く間に燃え上がらせた。

「今日はまた───特別綺麗だね。」

「わ、こら!…………触んなよ。」

「少しくらいいいじゃないか。僕にもご褒美が欲しいよ。」

甘えた声でサシャが強請る。
しかし悠理は呆れ顔で突っぱねた。

「あのなぁ。おまえ、恋人居るだろ!?」

「ん?どの女のこと?僕の恋人は永遠に君だけのつもりなんだけど…………」

「ち、ちょっと!ストップ!あたい、背中弱いんだから……」

「みたいだね。…………特にこの窪みが駄目っぽい。」

「何で解る!?………ってか触んなってば……もぉ。」

悠理の拒絶など意に介さず、彼の美しく端正な指が浮き出た背骨をしっとりと確かめる。
それは官能を引き出す為の明確な愛撫。
女慣れした男の高等テクニックだ。

「綺麗だ……肌が輝いているね。」

滑るように弧を描く指先が悠理を暴こうと働きかける。

粟立つ肌。
走る戦慄。

こんな行為を誰にも許してはいない。
一人の男を除いては───

それなのに、触れられただけで体の奥底に火が点ってしまう。
痺れるように腰が疼き、刻み込まれた快感が甦ろうとする。
記憶とは恐ろしい。
こんなにも簡単に煽られてしまうのはスケベなパートナーの罪。
そして彼女がすっかり“女”へと成長した証でもあった。

「なんて敏感なんだろう。彼に開発されたんだね。正直、悔しいよ。」

「止めろ………ってば………サシャ!」

彼は強引に腰を抱き寄せ、うなじを探る。
柔らかな後ろ髪を優しく掻き上げて。
細く白い首には豪華なジュエリーがあり、まるで防壁のように強く輝いていた。

────所有物の証だな。

サシャは皮肉げに嗤う。
あの嫉妬深い男の意志をそこはかとなく感じたからだ。

熱い吐息が吹きかけられるうなじ。
焦れったい場所に優しく、そして情熱的に。
身を捩りながらも押しつけられた硬い胸板を背中に感じてしまい、悠理の胸は否応なしに高まっていった。

流されそうになる。
こんな風に触れられたら、頭の中に靄がかかってしまう。

悠理の呼吸が乱れる。
サシャは確かにテクニシャンだが、それだけではない。
彼は悠理を愛している。
昔も今も、強く深く、欲している。
その真っ直ぐな感情を、彼女は無碍に出来ないのだ。
昔も、今も──

────だが

これは恋人ではない。
この男は恋のトライアングルから五年も前に離脱した敗北者だ。
悠理が心を決め、その身を明け渡した男ではない。

「…………僕は今でも君が欲しくてたまらない。他の女なんかじゃ絶対に埋められないんだ。」

歯ぎしりする勢いで呟くサシャ。
告白はいつも熱っぽく、直接的だった。
五年前のあの時も、彼は毎晩、悠理を請うた。
惜しみない愛を飽きることなく告げた。
それなのに、報われることはなかった。
彼の中に大きな傷が残ったのは言うまでもない。

背中に熱い唇を這わせながら、サシャは上等な生地の中へ指を忍ばせようとした。
もちろん目指す場所は一つである。

「待てって!こら!やめっ………殴るぞ!?」

「たとえ殴られても、ヒールで踏みつけられても………君が欲しい。悠理の体を僕の色に塗り替えたい。」

「あ、あほ!………ダチに戻ったんじゃなかったのかよ!」

「あんな約束に効力があるとでも?だいたいこんな日に遅れてくる清四郎が悪いんだ。」

フンと鼻を鳴らし言い放つ。
責任転嫁もいいところ。
悠理はとうとう力づくで窓に押しつけられ、サシャの本気を全身に痛いほど感じた。

「良い香りだね。香水までつけるようになったの?それとも君自身のフェロモンかな?」

「馬鹿なこと言ってないで、どけってば!」

「知ってる?このままの体勢でも繋がれるってこと。ほんの少し………脚を開いてくれたら、僕は悠理を感じることが出来るんだけどな。」

それは昔のサシャからは考えられないほど、’らしくない’台詞だった。
悠理の中の思い出の彼は、ちょっと気弱で優しい少年のままだ。
遠い異国から来た、少し孤独な少年。
慣れない土地での祖母と二人きりの生活は、想像よりずっと寂しいものだったに違いない。
しかし悠理はそんな彼が好きだった。
さほど多くない友人の中でも、サシャはとても利口で、悠理に巣くう退屈の虫を取り除いてくれた。
初めは強引に誘った遊びも、いつの間にか上達し、良きライバルとなってくれた。
別れの日は号泣したし、必ずまた会おうと固く約束したのだ。

なのに五年前、悠理は彼を選ばなかった。
友人としてのサシャに未来を描けなかった。
選んだのは、側にいていつも守ってくれた一人の男。
意地悪だったはずの彼に心揺さぶられ、気が付けば恋に落ちていた。
それは不思議な事だったけれど、落ちてみればとても自然に感じ、何故今まで想いに気付かなかったのだろうと思う。
悠理の喜怒哀楽を容易にコントロール出来る男。
彼に知らされた苦しいまでの恋心は、悠理にとって何よりも貴重に思えたのだ。

久々の再会にエスカレートするサシャは、叶わなかった想いを全身でぶつけてくる。
こうして二人きりで話すのは約三年ぶり。
各国で開かれるパーティでは何度も顔を突き合わせていたのだが、まるでボディーガードのような黒髪の男がそれ以上の接近を決して許さなかった。

「ねぇ………一度くらい、いいだろう?。僕の本気を君に知って欲しいんだ。」

興奮したシンボルを腰に感じ、悠理はとうとう堪忍袋の緒を切った。
このままでは洒落にならない。
雰囲気に流されている場合ではないのだ。

「1000%無い!!どけっ!!」

「うわっ!!!」

ぴったりくっついていたはずの身体が、乱暴に引き剥がされる。
もちろん悠理の手によってではない。
遅れてやってきた夫の仕業だ。

「全く!躾の悪い犬ですな。人の物に手を出すなと親に教えられませんでしたか?………あぁ、なるほど。お国柄、そういった事は当たり前なんですね。」

「清四郎!」

いつにも増してスーツ姿に気合いが感じられる。
立ち上る怒りと共に。

フルオーダーのそれは彼の逞しい身体をエレガントに包み込んでいた。
すだれていたはずの前髪はオールバックとなり、凛々しい眉を露出させている。
元々整った顔の持ち主だ。
今は大人の色気が伴い、特にパーティへと出向く夫は最高に格好良く、悠理の心をざわつかせた。
思わずベッドへ押し倒したくなるほどセクシーな男。
この世で一番、悠理を満たす男である。

「やぁ………遅かったじゃないか。相変わらず腹黒そうな顔をしてるね。」

「貴方ほどじゃありませんよ。」

吐き捨てるように睨み付ける。

「………悠理、すまない。こんなにも遅れるつもりじゃなかったんだ。飛行機のトラブルでね。まさか彼と部屋で二人きりだなんて、思ってもみなかった。」

清四郎の腕から解放され、サシャはジャケットについた皺を忌々しそうに伸ばした。
敵意剥きだしはお互い様。
清四郎も態度を改めることはない。

「やれやれ。」

サシャは本気で落胆していた。
五年前に決着はついたはずなのに───
悠理を目の前にすれば、どうしても衝動的になってしまう。
たとえ人妻になっても、彼から奪い取ってやりたいと願ってしまう。
サシャにとって悠理はそれほどまでに焦がれた女だったのだ。

「もう少し、僕に敬意をはらってほしいな。結婚三年目のパーティにこのホテルを使いたいから、口をきいてくれって頼んだのは君だろう?」

「ええ…………頼んだことを深く後悔しましたよ。」

「フン。呆れるほど嫉妬深い男だな。こんな美しい妻を独り占めするなんて───いつか神罰が下るぞ。」

「あいにく仏教徒でして………。それに妻にはいつも真摯でありたいんです。」

二人が交わす熱い火花は五年前から変わらない。
ライバル関係になってからというもの、悠理を巡って彼らは何度も衝突した。
普段は理性的なはずの男達が野性的な瞳をギラギラ燃やす様は、悠理だけでなく周りの人間をも不思議がらせる。
一体、剣菱悠理にどれほどの魅力があるのか、と。
色気よりも食い気。
暴れん坊の称号を得たじゃじゃ馬を、極上の男達が本気で口説くその姿に、可憐をはじめ、世の女達はさぞや忌々しく思っていたことだろう。

そんな理想が服を着たような彼らに挟まれる悠理は、慣れた様子で夫の腕にしがみつくと、いつものキスを頬に仕掛けた。
怒りの炎に水を差す、優しくて甘いキスを。

「…………あたいも、おまえしか見えてないぞ?」

「悠理…………」

「せっかくパリで作ったドレスなのに、褒めてくんないの?」

「ふ。おまえは裸が一番綺麗ですけどね。でも…………良く似合ってますよ。」

唐突に出来上がった夫婦仲を見せつけられ、サシャはあからさまに視線を逸らした。
解りきっている結末。
それでも悠理を欲する衝動には逆らえない。
グッと握りしめた拳は痛みを帯びるほど硬かった。

何度諦めようとしただろう。
世界トップクラスの美女とも付き合った。
悠理に少し似た日本人と深い関係になったこともある。

しかしいつも瞼に浮かぶのは、幼い日の彼女。
強引に掴み取られた手。
差別も何もない、あけすけな笑顔。
慣れない土地でどれほど救われたかわからない。

たとえ想いを募らせたとて、剣菱財閥の令嬢をもらい受けるには、自分の手で帝国を築き上げなくてはならないと思った。
それなりの地位に立ち、恥ずかしくない姿で正々堂々と求婚する。
だからこそ我武者羅になったのだ。

だが思いの外ビジネスは面白く、夢中になっていると色んな女が近付いてきた。
金、容姿、権力。
もしくは子種を求めて。
贅沢や利害関係を要求する女達を眺めながら、当然のごとく、心は凍てついてゆく。
やはり彼女じゃないと、自分は幸せになれない────再びそう確信した。


月に一度、もしくは三ヶ月に一度のメールのやり取りには彼女の近況が綴られていた。
個性的な仲間達の前に次々に起こるトラブルは、読んでいてハラハラさせられたが、どれほどシリアスな状況でも、大胆に事件を解決する六人を心底すごいと感じた。

そして何よりも────
彼女の報告に”恋愛”が見当たらない事を、毎回安堵した。
まだ悪い虫は付いていない。
まだ彼女は恋に目覚めていない。

サシャは次に会う時、プロポーズしようと覚悟する。
意識させる自信はあったのだ。
共有した思い出を持つ二人だから。
どれだけ長い時間をかけてもいい。
花嫁としての悠理を必ず手に入れてみせる、と心に誓っていた。

しかし・・・・・

驚いたことに何の前触れもなく、婚約発表が成された。
世界に配信された金屏風に並ぶ二人。
相手は彼女の仲間の一人で、リーダー的存在の男だった。

どうしよう。
手遅れだったのか。
どうして何も教えてくれなかったんだ?

それから暫くの間、連絡は途絶え、サシャは自分の立ち位置が如何に脆いものであるかを知った。

そして・・・・ニケ月後。
彼女からの報告は胸を撫で下ろす内容だった。

『あぶねーあぶねー!結婚なんてまっぴらごめんだい!』

どのような顔でこのメールを打っていたのか、瞼に浮かぶ。
可愛くて、正直者で、清々しいまでに真っ直ぐな悠理。
彼女のような女性はサシャの周りには一人として存在しない。
だからこそ・・・・・悠理を愛したのだ。

それなのに───────

「僕の妻に軽々しく触れた罰は受けてもらいますよ?」

黒髪の男は不敵に嗤う。

「清四郎・・・・もういいじゃんか。」
「よくありませんね。おまえももっと危機感を持て。普段から口が酸っぱくなるほど言ってるでしょう?」

彼女の肩に、そして腰に、堂々と触れて良い男は世界に一人だと言わんばかり。
そんな男の胸の中で、悠理はまるで借りてきた猫のように愛らしく収まる。

「────OK。これ以上何がお望みかな?」
「ロシア貴族の血を持つ貴方だからこそ出来る話ですよ。なーに、そんな難しい事じゃありません。ロシアの僻地に隠された油田について知りたいだけです。」

サラリとえげつない提案をしてくる男にサシャは顔を顰めた。

「多くの敵を作るぞ?」
「望むところです。」

二人はライバルである。
しかしビジネスの世界では良きパートナーでもあった。
愛しい女を巡り、繰り広げられるラブトライアングルに決着はまだ見えないけれど・・・・
今のところ、悠理の気持ちは清四郎だけのもの。

「なぁ?そろそろあいつらも来るんじゃないか?」
「ええ、良い頃合いです。」
「悠理、こんな腹黒い男、いつでも捨てて僕のところにおいで?」
「────まだ言いますか?」

結婚3周年のこの日。
久々に揃った仲間達の前で、二人は最高に幸せな報告を皆に届けた。

「あたい、母ちゃんになるんだ!!」

サシャの落ち込み方はマリアナ海溝よりも深かったという。