後編

宣戦布告───

僕たちは静かに闘いの火蓋を切ったわけだが…………。
同じ屋根の下で暮らす彼に、先へとリードされそうで不安………というのが心からの本音だった。
だが、今のところ悠理のサシャに対する思いは古馴染みのそれ。
時間と距離が離れていた分、幼い頃の印象が強いようで、彼が望むような色恋に発展しそうもない。
ま、これもまた僕の願望であるが。

それでも一日、また一日と………悠理の様子が変化してゆく。
最初は皆に冷やかされる毎日にうんざりとしていたが、日が経つにつれ、切なげな溜息をこぼす様になった。
まるで年相応の女性のように、しっとりとした溜息を────

「悠理。」

「ん?」

「何か困ったことがあるのなら………どうぞ。」

「困ったこと?……………別に、ないけど。」

「それにしては、やけに溜息が重いじゃないですか。」

目の前に置かれた可憐手作りのガトーショコラを半分も残し、手を止めている。
化け物じみた食欲すら減退させるほどの悩み。
もちろん彼の事に違いない。

「───サシャのことでしょう?」

「ん~、まあな。別に大したことじゃないんだけど。」

照れる、というよりは心底困った顔をする彼女に安堵しつつも、話を掘り下げたくて仕方ない僕。

「求婚されましたよね。おまえの中で何か変化でも?もしや………その気になったり?」

「ば、馬鹿やろー!んなわけねーだろ!」

図星を指された時の反応はいつも通り激しい。些細な変化ですら、僕の目は誤魔化せない。

「彼、ハンサムですしね。悠理も悪い気はしないでしょう?」

ジリジリと本心を漁る自分は、なんと醜い姿なのか。
素直にもなれない。
告白も出来ない。
ただこうしてにじり寄るように、真実を暴くだけ。

「ハンサム?…………ああ、そっか。あいつハンサムだから母ちゃんが喜んでんだな。」

「おばさんが、どうしたんです?」

「………………いつも通りだよ。一人で盛り上がって、一人で結婚式の予定立て始めてる。サシャが悪いんだい!あんなこと、父ちゃん達の前で公言するから………」

それは聞き捨てならないな。
あの人を本気にさせたら、全てが光の速度で進行してしまう。
僕の時と同じ────剣菱夫妻は常識という範疇におさまる人達ではないのだから。

「良いわよねぇ。あんたは次から次へと良い話が舞い込んでくる環境で。色気もくそもないクセに。」

イギリス直送の紅茶を差し出した可憐が、不満げな顔でぼやいた。
玉の輿相手としてもってこいの人物を悠理に奪われた事で、最近ひどくご機嫌斜めである。

「あたいが望んだんじゃないやい!」

「ふん!」

彼女にとってこの上なく羨ましい状況なのだ。
多少の毒も見逃してやらなくては。

それぞれが自分たちの趣味に没頭する中、再び二人だけで対峙し、悠理へ尋ねる。

「サシャは………好みではないんですか?」

「別に。好みじゃない。」

「ふむ。しかし───わりと強そうですよ?」

「……………おまえよりは弱いと思う。」

「そりゃ当然です。」

僕は生半可な鍛え方をしていないし、長年積み重ねて来た修行も鬼のそれだ。
だてに人間国宝の一番弟子を名乗ってはいない。

「あいつさ………毎晩、告白してくるんだ。夜飯食った後とか、寝る前とか………」

「毎晩?…………それは……………」

羨ましい。
実に、羨ましい。
僕には到底出来ない芸当だ。

彼とて、無理矢理どうこうするつもりはないだろうが、油断は禁物。
いくら悠理が一般的な男より強いとはいえ、そういう方面のかわし方など、全く知らないのだから。

「困るんだよ。だってあたい、こんなの初めてだからさ。ぶっ飛ばして終わり!ってわけじゃないし、別にサシャが…………嫌いなわけでもないし。」

悠理にとって恋愛は、遙か遠い次元の問題で、男からの求愛などむしろ迷惑でしかないのだろう。
相手が誰であれ、困惑するだけだ。
もちろんこの僕であっても。

それでもここを突破しなくては、先に光が見えない。
彼よりも早く意識してもらわなくては。
男として───。

「………では、気分転換にパアッと夜遊びでもしますか。」

「夜遊び!?するする!」

「僕と二人で。」

「え?………清四郎と?」

「ご不満かな?」

不思議な面持ちで小首を傾げ、悠理は返答に戸惑った。
二人きりで遊ぶなんて滅多に無いことだから、その戸惑いも理解できる。

「別に…………不満じゃないけど。」

「よかった。」

心底ホッとしている僕に、一ミリも気付かない悠理。
毎夜愛を告げる彼へ、恐怖や焦りを感じていることなど…………ちっとも。

「では、今夜七時、表参道の●◎で待ってます。」

「オーケー。」

一歩踏み出す勇気────僕にはそれが必要だった。



「おっす‥…!」

「珍しく時間通りですね。」

その店は、姉貴行きつけのちょっと洒落たダイニングバーだった。
一歩中に入れば、アマゾンの奥地を思わせるような緑が生い茂り、軽快な音楽が耳に飛び込んでくる。
本物の岩を使った壁一面には涼しげな人工滝が流れ落ちていて、大都会ながらもどこかオアシスを感じる事が出来た。
悠理が気に入るだろう───そう思って選んだのだ。

「へぇ!わりと良い雰囲気。せぇしろちゃん、やるねぇ。」

「気に入って頂けて、よかった。」

案内された半個室のテーブルは、味のあるレインツリーで出来ている。
長時間居座れるよう、木のベンチ椅子にはしっかりとファブリッククッションが縫いつけられていた。
姉貴が誰と楽しんでいるのかまでは知らないが、確かに居心地の良い店である。

「「乾杯!」」

まずは喉を爽やかに潤すビールで。
ジョッキを握った悠理は軽快に飲み干した。

「ぷはぁーー!ビール最高!!」

「相変わらず、いい飲みっぷりですな。」

「ビールはこうやって一気飲みした方が、旨いんだよ。」

「確かに。」

晴れやかな笑顔。
欲望を満たした時の悠理はとても良い表情を見せる。
この屈託の無い笑顔を、サシャはどんな気持ちで眺めているのだろう。

恋した女の笑顔は、毎夜男の欲望を煽ってもおかしくはない。
彼が手を出さないで居るのは紳士というだけでなく、悠理の心を手に入れたいからだ。
心を通じ合わせる悦びに満たされたいからだ。
その気持ちはよく解る。
恋とはそういうもの。
僕もようやくそれが理解できた。

ブランクがあっても、サシャは全く動じることなく悠理への愛を告げた。
あまつさえプロポーズまで。
称賛に値する勇気だ。
その点、僕は彼に遅れをとっている。
未だ、彼女への言葉を選んでいる。
こんなにも近くにいるのに。
情けない話、ただただ臆病風に吹かれているのだ。

 

「どれにしよっかなぁー♪」

ウキウキした声。
メニューを眺めながら上目遣いしてくる意味も、長年の付き合いからよくわかる。

「好きなだけ注文しなさい。」

「ほんと?やった!」

彼女に遠慮など似合わない。
食欲は軽く常人の5倍………いや10倍か?
ゾッとするほど注文を、若きウェイターはたじろぎながらも伝票に書き留めた。
普通の男ならどん引きするだろうが、これが彼女のいつものスタンス。
僕にとって何の驚きもない。

「ここさ、肉メニュー豊富だよな!」

「オーナーが牛一頭買うらしいですよ。渋谷に焼肉店を二店舗経営しているみたいで………」

「うはーっ!今度そこ行きたい!」

「じゃ、来週にでも予約しておきますか。」

「うん!!」

“デート”…………と、僕の中で勝手に変換しているだけだが、悠理との二人きりの時間は少しでも多いに越したことがない。
何せサシャは同じ屋根の下で暮らしているのだ。毎夜迫り、愛を告げている。
油断している暇など微塵も無かった。

多くの皿が敷き詰められたテーブルは圧巻だ。
そしてそれが瞬く間に消えていく光景も。

「このステーキ、うんまい♡何枚でもいけそう。」

僕がようやく半分食べた時点で、悠理は二枚目を完食していた。
さすがと言うべきか…………。

「ほら、サラダもバランスよく食いなさい。」

「わあってるって!」

保護者、もしくは飼い主───
どちらにせよ、与えられた称号は『恋人』ではない。
色恋に発展しない理由も、なんとなくこういう事なんだろうな。

一通り平らげた数々の皿をうんざりと見つめるも、悠理の満足げな笑顔はやはり可愛い。
全く悪意のない純粋な笑顔。
時に愚かではあるが、根本的な性質は人々に好かれるよう出来ている。
僕とは本質が違う────

 

「んで?」

「………え?」

「なんであたいだけ誘ったんだ?」

四杯目のビールを飲みきって、悠理は唐突に確信を突いてきた。
やはり疑問に思っていたらしい。

「なんか内緒話?」

声をひそめ期待を浮かべるその顔に、僕の秘めた想いなど1ミリだって気付いていないのが解る。
気付いていたなら、さすがに少しくらい動じてもおかしくはない。

「内緒………というか………」

「もしかして事件、とか?」

「いえ…………」

果たしてこれも、“事件”というのだろうか?
どちらにせよ何かしらの返答をせねば。

「………たまにはおまえとサシで飲みたかったんですよ。」

「ふーん。清四郎ちゃん、悩み事でもあんの?」

珍しく僕を気遣う彼女の目が曇る。
その労りに何もかも許されるような気がして、テーブルに置かれた悠理の手を突如として掴んでしまった。
衝動…………いや、この場から逃げられないように。

「え?」

驚く瞳を真っ正面から見据え、頭の中で言葉を選ぶ。
何が良い?どう言い繕う?───いや。

一番伝わりやすい言葉、それはたった一つだ。

「僕はおまえが────」

「悠理。」

肝心な瞬間に、まさかの邪魔者。
それも今一番見たくない顔である。

「…………サシャ?何でここに?」

「当然だろう?いくら日本が安全でも、好きな女性が夜遅くまで出歩いてるのを見逃せるはずがない。それも僕以外の男と────」

チラと見せつけた彼のスマートフォンにはGPS信号が赤く点滅していた。
いつの間にか悠理を監視していたというわけだ。
なかなかに抜け目のない男である。

「夜遅くって…………まだ九時にもなってないし!あたいもう、子供じゃないぞ?」

「もちろん、“子供”だなんて思ってないよ。むしろ子供を出産出来る年齢だ。だからこそ…………悪い虫に気を付けなきゃならない。わかるだろう?」

「悪い虫とは…………僕のこと、ですかね?」

聞き捨てなら無い台詞に立ち上がると、彼もまた戦闘モードで視線を鋭くさせた。

 

「清四郎、きちんと本音で話し合おうか。君は悠理を愛してる………いや、ずっと愛してきたんだろう?だから僕が現れて焦ってる。彼女の信頼の上に胡座を掻いて来たツケが、今頃回ってきたってわけだ。」

不愉快なほど流暢な日本語。
しかし内容は明らかに図星だった。

「ち、ちょっと………待てよ、サシャ!清四郎があたいのこと愛してるだって??何言ってんだよ!んなわけ…………」

「愛されていると解ったらうれしい?悠理。」

「────へ?」

「君の本心はどこにある?………僕の求愛に応えられない理由は何?ここにいる清四郎は君にとってどんな存在?」

「そ、それは……………」

まさか悠理が口ごもるなんて思っても見なかった。
ハッキリキッパリ、『正真正銘、ただの仲間』だと宣言するはずなのに………今、彼女は明らかに躊躇っている。

それは一筋の光。
想定外に訪れた、微かな期待だった。
だから僕は掴んだ手に力を込める。
彼女の心を鷲掴みにするが如く…………

「彼の言う通り、僕は悠理が好きです。もう随分前から………ずっと意識してきました。残念ながら素直になれない性格でしてね。こうなって初めて、行動を起こす事にしたんですよ。」

「清四郎…………何言って………」

「僕はこの男にくれてやるほど親切でも無欲でもありません。おまえの心が欲しい。今すぐにでも!」

すっかり酒の抜けた顔はそれでも赤く、微かに震えていた。
しかし握られた手を振り解いたりはしなかったし、何より彼女は僕を真っ直ぐ見つめていたのだ。

だが、軍配はまだあがらない。
ただほんの少し、僕に有利なような気がして、背中の汗がスッと引いた。

それから数分。
サシャと僕、そして悠理の三人は、周りの人目も気にせず、ただただ対峙し続けた。
他の客達の酒のアテになったことは間違いない。

それでもいい。柔らかな手と戸惑う視線は離さない。

彼女が明確な答えを出すまで、

このラブトライアングルは続く────