サシャ───
彼は驚くべき事に僕たちより二個も年上だった。
ケンブリッジを飛び級、なおかつ首席で卒業した後、叔父が潰しかけていた事業を引き継ぎ、たった一年半で年商10億にまで押し上げた実績を持つ。
母国ロシアからヨーロッパ、そして今はアメリカにまで手を広げていて、今回はどうやら日本にも拠点を置くらしい。
もちろん、剣菱財閥とタッグを組んで───
彼は幼い頃、日本贔屓の祖母と共に鎌倉で生活をしていた。
剣菱家と接点を持ったのもその頃だ。
悠理とは年に一、二度会う程度だったが、年が近かった所為か直ぐに打ち解け、仲良くなった。
『ユーリ』
ロシア人にとって、それは馴染みある名。
幼かったサシャも余計親しみが増したに違いない。
二人の距離が近付くスピードは容易に想像できた。
悠理から、“彼”が剣菱邸に一ヶ月ほど滞在すると聞かされたのは、ゴールデンウイークが明けてすぐの頃だった。
あいつは「五年ぶりくらいかなぁ?気のいい奴だよ!」と嬉しそうに告げたが、僕は胸騒ぎしか感じない。
あの時の彼は、悠理の本当の笑顔を引き出していて、なおかつ対等な関係でもあったのだ。
その絆は、もしかすると想像より太いものかもしれない───と、不安になる。
「ねぇねぇ、その彼、テレビで観たわよ。ほんと飛び抜けてハンサム!まさかあんたと友達だったなんて、びっくりだわ。」
「確かに。僕といい勝負だよね。もちろん僕の方がちょっと上さ。」
可憐と美童の言うとおり、顔面偏差値で言えば75ほどはあるだろう。
ネットでも世界のイケメン独身男トップ10に選ばれるほどだし、何よりも血筋が素晴らしい。
古くまで遡れば、かの“ハプスブルク家”とも縁があったという。
そんな貴公子サシャは、悠理に会いたくて仕方ないとメールで意気込んでいた。
それは果たして、旧友としてなのか?
それとも───
パチン!
「ライバル登場、ですわね。」
「え?」
野梨子の家に新しい碁盤が入ったため、我先にと試しているのだが、さすが………良い音がする。
樹齢400年ほどの本榧だ。
悪かろうはずもない。
「あら、そこでいいんですの?」
僕が置いた場所はどう見ても負けコース。
嬉しそうな顔をする野梨子は、さっさと次の石を滑らせた。
「心が乱れてますわね。それとも余所事を考えていたのかしら?」
「…………“ライバル”とはどういう意味です?」
一瞬にして先行きが悪くなったゲームを、僕は必死で立て直そうとした。
しかし致命的な一手を覆すことは相当に難しい。
………五勝八敗か。どうも調子が出ないな。
「あら、とぼけて。解っているはずですわ。恋のライバルになるかもしれない相手が、悠理と同じ屋根の下で暮らすことに、気持ちが落ち着かないんでしょう?どうみても清四郎に勝ち目はありませんし。」
「何故、僕に勝ち目がないんです?」
当然のように言われた一言が癪に障った僕は、野梨子の術中にまんまとはまってしまった。
クスクスと罪無く笑う幼なじみが、姉と同じ類の人間であることをすっかり忘れていた。
「ほんと………清四郎は悠理のこととなると、素顔を垣間見せますわね。貴方のそんな顔を本人にも見せてやりたいものですわ。」
“してやったり”と碁石を摘まみながら微笑む野梨子。
次の手も容赦がない。
大和撫子も裏を返せばこんなものだ。
「………そんなにも判りやすく顔に出ていましたかね?」
「少なくとも私にはバレバレでしたわ。」
「そう、なんですか。」
自分でも計りかねる気持ちをどうやって察したのだろう。
女性の勘というものは本当に侮れないものだな、と小さく溜息を吐く。
「悠理も年頃ですもの。これから殿方に見初められることだってたくさんあるんじゃないかしら?ぼやぼやしていられませんわよ?」
普段、野生猿のような振る舞いをする彼女にそんな男が現れる可能性は少ないが、それでも今回の伏兵のような存在が他にも居ないとは限らない。
野梨子の言葉を胸に刻み、僕はようやく“次の手”を置いた。
「────参った。勝機が見出せない。」
「では───私の勝ちですわ。」
確信めいた石の置き方に、明らかな敗北が広がる。
そんな中でもゲームに負けた悔しさより、悠理についての不安が僕の胸を大きく占めていた。
彼女と恋愛が、どれほど結びつかないかを解っていても、だ。
「早く手を打たないと………鳶(トンビ)に浚われてしまいますわよ?」
碁石を片づけながら爽やかに笑う野梨子に、結局は、「何とかしますよ」、そんな弱気な答えしか返せない自分をつくづく不甲斐ないと思った。
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その夜────
親父の病院へ書類を持ってくるよう呼び出され、ついでにマッサージまで頼まれてしまい、時計の針はとうとう21時を回っていた。
「いやぁ、助かった。10時間オーバーの大手術でな。年々、足腰がきつくなるわい。」
「そろそろ引退しますか?」
「和子が一人前になるまで、そうも言っとられん。おまえはどうせ………医者にはならんのだろう?」
聖プレジデントを選んだ時点で、確かに医者の道は遠退いた。
気持ちも医学には傾いていない。
自分の可能性は、敷かれたレール以外に大きく広がっていると信じたかったから、プレジデントの大学部を選んだのだ。
いや何よりもあいつらと別れたくなかったから───か。
それに………いつかはリベンジしたかった。
“剣菱万作”を超える男になりたかった。
せめて同じレベルにまで立ちたかった。
こてんぱんに負けたままじゃ、菊正宗清四郎の名が廃る。
「すみませんね。親不孝な息子で………」
「別に親不孝とは思わんが…………納得出来る生き方さえ見つけてくれればそれでいい。」
肩を回しながら照れ隠しに背を向ける父親は、この体にどれだけの責任と重圧を抱えてきたのだろう。
大病院を、家族を、そして多くの命を──
『菊正宗修平』という男は長年それらを背負ってきたのだ。
背丈は彼をとうに越えたが、まだまだ未熟な己を思い知る。
とてもじゃないが、自分には出来ない。
その差を痛烈に感じた僕は、珍しいことに、少し甘えたくなったのかもしれない。
だからこそ、ポロリと本音がこぼれた。
「……………僕は、悠理と生きていきたい。あいつと、一生………」
振り返った親父の顔は、鳩が豆鉄砲を喰らったよりもずっと間が抜けていた。
言ったことを後悔するほどに。
「清四郎、おまえ……………」
「な、なんでもありません!」
「……………あの子が好きなのか?」
「……………聞き流してくださいよ。」
恥ずかしくて顔を背けると、親父が嬉しそうに近付いてくる。
───頬を紅潮させて。
「おまえもいっちょ前に恋をするのか………いや、驚いた。」
「…………………。」
肩を抱かれ、頭をワシャワシャと掻きむしられる。
まるで五歳児になったかのような錯覚。
「そうかそうか!確かにあの子ならおまえのような男にピッタリかもしれんな。」
「相性が良いとは………思えませんが?」
「ハッハッハッ!そんなもん後からついてくるわい。とにかく好きならさっさと動け!あんな美人、年頃になるとわんさか男が寄ってくるぞ?」
またそれか────
と呆れたが、確かに悠理は美人だ。
スタイルも、胸を除けば決して悪くはない。
僕が価値を置くのはそれらではないが、普通の男ならまず、彼女の容姿もしくは家柄に惹かれて当然なのだろう。
男の本能を促す勝ち気な目。
あの野性味感じる体を己の自由にする快感。
悦びに喘ぐ姿は、それはもう見応え充分に違いない。
今まで抱かなかったその妄想は、僕の背中を震わせるほど興奮させた。
病院からのタクシーの中でも、悠理の体を何度も反芻してしまう。
水着姿の下を………まるで思春期の少年のように妄想してしまう。
「…………くそ、参ったな。」
余計な煩悩を振り払うため、明日は早朝から寺へ出向くとしよう。
そして人よりもハードな鍛錬をこなそう。
そう決意し、僕は誘うように煌めく夜の街から視線を遠ざけた。
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「おっす!!連れてきたぞい!」
大学部に存在する数多くのサークル。
その一つに『有閑倶楽部』は存在し、しかし活動内容は依然、あやふやなままだった。
悠理が───というか“剣菱万作”が入学時に食堂の全改装(高級フレンチ仕様)を請け負ったおかげで、なんとか学長に認めてもらえたのだ。
財力の使い方が年々雑になるが、僕たちとしては助かっている。
クラブハウスも食堂の近くに配置され、悠理の大学生活は快適かつ非常に恵まれていた。
そこへ連れてこられた青年──サシャはまるでハリウッド俳優のようなカリスマ性を放っていた。
幼い頃の面影はほとんど残っていない。
強いて言うならば、ダークブロンドの髪色だけはそのままだった。
ベージュのジャケットに紺色のスラックスを履き、一枚20万はするだろうシャツのボタンを二つ開け、美しい鎖骨を覗かせている。
可憐の目が瞬時にハートマークへと変わり、色気を増大させた。
「サシャ、こいつらがあたいの仲間。清四郎、魅録、こっちが美童。おかっぱは野梨子で………」
「可憐ですぅ!!」
紹介を待ちきれずに飛び出した彼女はまさしく強者だ。
通常の握手よりもずっと力強く彼の手を握り、媚びる瞳を輝かせた。
「カレン?素敵な響きだ。どうぞよろしく。」
動じることのないその姿は、相当場慣れしていると見える。
彼は優雅な笑みを口元に浮かべ、深いグレーの目を親しげに細めた。
たったそれだけでも、百戦錬磨の可憐を腰砕けにさせる威力。
そんな強烈な魅力が彼には備わっている。
男嫌いの野梨子すら頬を染めるほどなのだから、よほどである。
悠理くらいだろう、サシャの色気に惑わされていないのは────
「初めまして、菊正宗清四郎と申します。清四郎と呼んでください。」
握手を求め手を差し出せば、僕より二センチほど高い彼は少しだけ目を瞠った。
「セイシロウ?ああ、君が………」
「はい?」
「万作と百合子のお気に入り。」
なんと答えればいいのか解らず、しばらく無言で佇んで居ると、彼は大きな手で握手に応え、「なるほど」と小さく呟いた。
「悠理のお気に入り───でもあったね。」
他の仲間には聞こえない小さな呟き。
毒を孕んだ声とやたら冷たい視線。
間違いない。
これは敵意だ。
痛いほど強く握られた手が緩む頃、可憐の暴走を押し留めていた悠理がサシャの肩を軽く叩いた。
「しっかし、でかくなったな!美童くらいあるんじゃないか?」
「そう、昔はチビだったよね。今は183センチあるよ。」
「ヒュウ!外人ってでかくなるんだなぁ。」
彼女にとって、サシャは昔のままの彼なんだろう。
親しみと懐かしさの入り交じった感情がこちらにまで伝わってくる。
決して変化に戸惑っていないところが悠理らしい。
「日本は久しぶりなんですの?」
「そう。あまりにも忙しくて、ちっともプライベートな時間が持てなかったんだ。」
「東京も変わっちまったよな。よかったら案内するぜ。」
「是非ともよろしく。」
「女の子の紹介なら僕に任せて。30人くらいなら直ぐに集められるよ!」
美童が張り合うように胸を張れば、サシャはクッと笑い、「それには及ばないよ。」と歯切れよく答えた。
そして隣に立つ悠理の肩をおもむろに抱き寄せ、髪の先端に触れる。
それはもう慣れ親しんだ手つきで───
「彼女以上に会いたい女の子は、日本に居ないから。」
「へ?」
美童が呆気にとられるのも無理はない。
当の本人───悠理ですら彼の言葉にポカンと口を開けていた。
「僕は悠理に会いに来たんだ。………プロポーズするために。」
抱き寄せられた華奢な肩が瞬時に強ばる。
僕の拳と同様に。
想定していなかった展開に可憐と魅録は目を見開き、野梨子は頬を紅潮させた。
「さ、サシャ??何言ってんだ!?」
「だからプロポーズだよ。悠理をお嫁さんにしたいんだ。」
「は、はぁ???」
現実とは思えない台詞を聞き、逃げようと足掻く悠理はそれでも彼の腕の中から抜け出せない。
それほどの力を込めて、彼女に触れているのか…………そう判ると、胸の奥底から怒りと不快感がこみ上げてきた。
「失礼。」
僕は彼の長い腕を掴み、さりげなく“とあるツボ”を圧す。
それはどれほど屈強な人間でも、強烈な痛みを感じるツボ。
「………っッ!!」
すんなり緩んだ手から悠理が飛びすさると、彼女は僕の背中に隠れ、いつもの如く防護壁に仕立てた。
「────悠理?」
「あ、あたい………そんなつもりないかんな!だいたい、久々に会っていきなりプロポーズなんて………おかしいだろ?」
上等な仕立てのスーツを着込み、首を傾げるサシャは誰が見てもいい男で───
本来なら頬を染めて一考する価値があると思われる。
しかし悠理には全くその気がない。
それが僕に安堵感を与えた。
彼女が僕の背中に居るという喜びと共に。
「………昔は僕しか理解者は居ない、って感じだったのに…………変わっちゃったんだね。」
置いてけぼりの子猫のように肩を落とすサシャ。
その哀しげな微笑みが相手にどんな効果をもたらすのか、彼は理解した上で浮かべている。
案の定、可憐や野梨子は眉を下げ、同情心露わに肩を寄せ合っていた。
「ち、ちょっと待ってくれるかな?悠理と結婚したいって事は………その………今までずっと好きだったってこと?」
信じられない、といった面持ちの美童が問いかけると、彼は「Да(ダー)」と母国語で答えた。
やはりそうなのか────
嫌な予感は的中したというわけだ。
サシャはあの頃から悠理の信奉者。
彼にとってこの異国の地で出来た、唯一の“友達”だったに違いない。
そしてそこに特別な想いが生まれる事も、決して珍しい話ではないはずだ。
「僕の初恋………必ず実らせてみせるよ。」
それは背中に隠れた悠理に対しての言葉ではなかった。
僕を真っ直ぐに射抜く、強い意志を宿した目。
明らかなるライバル心を燃やし、剣で貫くような反抗心を見せつけてくる。
全て見透かした上での行動に、僕の中の闘争心もまた煽られたように燃え立ち始めた。
────ではこちらも受けて立ちましょう。どちらにせよ、悠理の心を手に入れる男はこの世で一人だけなのだから。
互いの間に揺らめく静かな焔を、当然ながらこの時の悠理は全く気付いていなかった。