本編

※Rテイストなお話


 

────ただ、感触を確かめる為の行為だった。

それ以上の感情を持ち合わせていたわけじゃない。

あくまで探求心のなせる、突発的行動。

その時はそう信じていたはずなのに………

 

 

「悠理、ほら!生クリームついてるわよ!」

高校最後─────恐らくはこれが最後となるであろう勉強会に、五人が我が家へと集まる。
悠理は、今更取り返しようもない数学の猛特訓に励み、前日の夕方から泊まり込んでいた。
こうして面倒をみると約束した日が、遙か遠い昔のように感じる。

彼女は最後ぐらい良い点数を採ろうと、珍しく頑張りを見せていた為、僕もあたたかな気持ちでそれに付き合っていたのだが───

日付が変わるかどうか、といった頃。
先に風呂を済ませた僕は息抜きのジュースを片手に客間へと戻る。

「悠理?」

静かな和室。
彼女は座布団を重ね、その上ですっかり寝入っていた。
夕方からほぼぶっ通しで問題を解いていたのだから、疲れるのも無理はない。

「風邪引きますよ。」

パジャマ姿に着替えた悠理は、これ以上起きている気はなかったと見える。
力尽きた様子で熟睡していた。

「…………仕方ありませんな。」

座卓にジュースを置き、隣室に敷かれた布団まで運んでやろう、と彼女の首の後ろに腕を差し入れた瞬間、うっすらと開いた唇が、「せ………しろ……」と僕の名を呼んだ気がした。

眠っていれば恐ろしく美人な悠理。
整ったパーツ一つ一つがこの上なく魅惑的に見えるから不思議だ。
その中でも乱暴な言葉を紡ぐ桃色の唇は、濡れたように光っていて男心をそそる。
リップクリームすら塗っていない、柔らかそうな粘膜の感触を、思わず自分の唇で確かめたくなった。

 

そして────

気付けば、行動に移していたのだ。
重ね合わせた唇と唇。
触れるだけでなくしっかりと塞ぎ、ほんの少し、舌で味わう。
それは桃を剥いた後のような瑞々しさ。
甘い、と錯覚を起こすような、そんな感覚が瞬時に与えられ、胸がどくり、高鳴った。

ハッとして直ぐに身を引くも、起きる気配は見当たらない。
己の衝動的な行動に少なからずショックを受けた僕は、当初の予定通り彼女を抱え、隣室の布団まで運んだ。

いつもと変わらぬ我が家の布団なのに、何故だろう。妙な艶めかしさを感じてしまう。
頭を振り、掛け布団を上げ、悠理を横たわらせた時、その中に自らも忍び込みたくなる欲求が生まれ、ほとほと困った。

何を考えているんだ────

あれほキスじゃない。
ただの……………ただの一方的な何か。
恐らくは犯罪行為に近い代物だ。

唇が記憶した罪を、僕は拭い去るよう手で強く擦った。
悠理への罪悪感がこみ上げてきたのはその時が初めてだった。

この唇に触れた男はきっと自分だけだろう。
好いた男でもない友人の僕に、こんなことされるだなんて、彼女は露ほども想像していないはずだ。

安心しきった寝顔。
それを裏切るような行為。

己の所業を深く反省しつつ、足早に客間を立ち去るが、自室に戻っても一度覚えた感触は消えようとしない。

柔らかく、温かく、まるで磁石のようにぴったりと吸い寄せられる唇。
粗雑な悠理とはまるで別物のように繊細な………それ。

欲情したわけじゃない。
ただ驚かされただけだ。
あの珍獣が持つ意外な魅力に、確信させられただけだ。
悠理はまごうことなき女だと───解らされただけだ。

 

「ね、このケーキ美味しいでしょ?銀座にオープンした、オーストリア出身の有名パティシエが作ったザッハトルテなの!」

「上品な味わいですわ。」

「ま、確かにうめぇな。」

「可憐は情報通だよねぇ。今度ビアンカちゃんを誘ってみようっと。」

それぞれが満足する中、僕の目は悠理の口元を凝視していた。
ホイップしたての生クリームが大量についたその唇。
すでに彼女の甘さを知っている身としては、生クリームごと味わいたい気分が生まれる。

────何を考えているんだ。あれは一時的な気の迷い。二度目などあるわけがないんだ。

後ろめたさに加え、残念な気持ちが僕を包む。

二度目───

再び悠理の寝顔を見た時、果たしてその衝動を抑えきれる自信はあるのか?

そう。
これは感情よりも衝動だった。
あの心地よい感触をもう一度味わいたいという、直接的な欲望。

馬鹿馬鹿しい。
そんなこと、許されるわけがない。
もし、あの時、悠理が目を覚ましていたら、その美しい瞳には嫌悪が浮かび、罵倒の言葉を浴びせられただろう。
誤魔化すことも出来なくはないが、悠理が今のような距離を許すことはなくなる。

僕の隣…………
髪と吐息が触れあう、この近接した距離を。

 

「ん~!ココわかんない!」

「どれ?」

指さされた問題に視線を移し、頭の中の妖しい空気を散らす。
夕べから数学漬けの彼女は、簡単な問題ならほぼ正解を叩き出すようになっていて、応用のみで躓く程度にまでレベルアップしていた。

「あぁ、それは………」

公式だけでは解けない。
少し見方を変えて別確度からのアタックを教えてやると、ようやく納得したのか、いそいそと鉛筆を走らせた。

気の遠くなるような馬鹿───

それでも悠理は時々、ハッとするような閃きを見せる。
勉学ではなく、発想をもってして僕たちを驚かせる事があるのだ。

─────あの父親を持つ娘だ。さもありなん。

不意に、鉛筆の後ろを噛み始めた悠理は、何を思ったのか、人差し指で辿々しく下唇をなぞった。

それはあくまで何気ない仕草だった。幼稚性すら感じさせるほどの。

そんな他愛ない横顔に不思議と色気を感じた僕は、慌てて視線を逸らす。
こんな至近距離で意識させられると、どうしても夕べの記憶がよみがえり、罪悪感に支配されてしまうからだ。

「清四郎、悠理の調子は如何?」

お茶のおかわりを作りながら、野梨子が尋ねてくる。
いつもより頑張りを見せる劣等生が不思議で仕方ないらしい。
僕は疚しい気持ちを隠しながら、努めて冷静に答えた。

「あ………あぁ、悪くはないが、やはり引っかかるポイントが何箇所かありますな。」

「あまり詰め込みすぎるのもどうかと思いますわよ。」

「確かに。───とはいえ、基礎問題さえクリアすれば、およそ半分は見込めるでしょう。」

「え、半分!?あたい、数学で50点も採れるのか?」

鉛筆を止め、キラキラと目を輝かせる悠理。一桁台を叩き出す日常が当たり前な彼女にとって、それは思いもかけない予想だったのだろう。

「付け焼き刃でも何でも、わりと正解率は上がってきていますよ。えらいえらい………」

といつものように頭を撫でれば、ポッと赤みを帯びる頬。

───ん?何だ、この見慣れぬ反応は。

悠理が照れている?
なぜ?
僕が褒めたからか?
それとも…………気安く触れたから?
………まさか、ね。

らしくない反応をされると戸惑うのはこちらだ。
まるで女の表情。
そんな顔を見せられたら、何か……そう、何か別の感情が生まれてしまいそうになるじゃないか。

撫でる手をそのまま、置かれた湯呑みへと下ろし、茶を啜っていると、妙な緊張感が僕たちの隙間を埋めてゆく。

不意に舞い降りてくる納得の二文字。

────あぁ。この反応・・・もしかして、気付いていたな。

チラっと見上げてくる顔は、どうやら夕べの事を意識しているらしい。
狸寝入りとは恐れ入った。
今の今まで知らぬ振りをしていたくせに。

悠理の視線は責めるようなものではない為、より居たたまれぬ状況に、僕は置かれている。

くそ。
あれは何の意味もない口付けだったと暴露したら、こいつは傷つくだろうか?
男の気紛れを理解できる頭とは思えないし、僕自身、あの衝動は捉えかねている。

視線から逃げるよう注がれたばかりの茶を啜り、平静さを装うと、悠理もまた問題に目を落とし、平然と鉛筆を走らせ始めた。

妙な気分だ───

結局、何の解決策も得ぬまま、僕たちはその日を終えた。



それから一週間が過ぎ、無事テスト期間をクリアした六人は、疲れ切った体を癒そうと近場の温泉宿泊施設へ足を運んだ。
満天の星空を望む岩風呂から、本格的な食事処まで。
週末ともなれば都心から訪れるカップルで賑わう。

その日も比較的多くの客で混雑していたが、六十間際の施設長が、“悠理(剣菱の令嬢)”の存在を耳にするや否や、来月にオープンを控えた“離れ”へと案内してくれ、貸し切り露天風呂をたった六人で堪能することができた。
まったくもって有り難い話だ。

 

「ぷはぁーー!ビール最高!!」

「おいおい、ピッチはえぇな。」

浴衣でのんびり。
用意された山海の幸を頂く。
貸し切りの離れはどれだけ騒いでも、他の客に迷惑をかけないところが利点だ。

どんちゃん騒ぎを丸々二時間。
温泉の効能によるものか、はたまた飲み過ぎた酒の所為か。
野梨子と可憐は電池が切れたように隣の部屋で寝てしまった。
美童は海外の恋人との定期連絡で部屋から消え、残ったのは魅録と僕、そして大虎の悠理だけ。
持ち込んだサキイカとチー鱈を広げ、日本酒をあおる。

「冬休みはどーする?日本脱出すんならそろそろチケットとらねぇと。」

「そうですね……。今度こそ落ち着いた旅がしたいものです。」

「高校最後なんだし、パアッと豪遊しよーよ!」

ご多分に漏れず、彼女の意見は強引に押し進められることだろう。
こちらが黙っていれば、冒険家よろしく、南極大陸を目指す!とでも言い出しかねない。

「そういえばつい先日、ミセスエールから聞きかじったんですが、アイスランドの大自然も悪くないらしいですよ?間欠泉やオーロラ観光。とにかく壮大な景色を観るなら是非に、と勧められました。」

「アイスランド………アイスランド………あ!それなら先週、うちの母ちゃんが魅録ん家の母ちゃんとブルーラグーン何とかのエステに行ってたぞ。泥が美肌に効果的なんだってさ!」

「そういや、やたらと羊毛のセーターが家に並んでた時期があったな………あれ、土産だったのか。」

「可憐は喜んで飛びつくでしょうな。………魅録、早速ですが、ホテルとチケットが取れるか調べてもらえませんか?」

行動が早い彼はものの数分でそれらをスマホで調べ上げ、僕たちに提示してくれた。

「ふむ…………どうします?悠理。」

「行く!羊とかトナカイとか、それに珍しいキツネも居るんだ!行くに決まってる!」

「なら、決まりですな。」

こうして極寒の地は何とか回避出来た。
この提案ならばあとの三人も頷いてくれることだろう。


「わり………俺、そろそろ落ちるわ。ねみぃ。」

「あたいも…………寝る………」

戻ってきた美童と共に限界を迎えた三人は、その場に布団を転がし、呆気なく眠ってしまった。
やれやれ、後片づけするのは僕だけか。

とはいえ、こちらもそろそろ眠気が襲ってきている。
散らばったおちょうしやグラスを簡単に片づけ、座卓を押しやると、そこに布団を敷き、横になった。
こういう時、浴衣は有り難いな。
すぐに眠りへと誘われる。

そうだ。明日は朝風呂をもらうとしよう。
ここのお湯はわりと好みだ。
最近痛めた筋肉も解れることだろう。

そんな算段をしていると、優しい睡魔が意識を奪っていった。

 

 

 

 

………………………………チュ

────────ん?

 

僕は基本熟睡するタイプで、一度寝ると滅多に目覚めない。
睡眠はきっかり六時間。
旅先でも、よほどイレギュラーな事態が起きない限りは、ほぼそれを守っている。

しかしこの感触だけは、眠りの泉に沈む僕の意識を颯爽と呼び覚ました。
一度記憶した、この柔らかな感触だけは………

「ゆう……り?」

うっすら目を開けば、想定した通りの人物がハッとしたように固まっている。

…………やられたらやり返す、僕と同じタイプか?

ぼんやりする頭でそんな事を考えていると、彼女の顔がじわじわと赤くなっていった。

「どうせなら…………もう少し………」

完全に覚醒しないままそう強請れば、迷った様子の彼女は更に顔を赤くしながらも、しっとりとした唇を押し当ててくる。

あの時感じたよりもずっと甘く───
そして柔らかい。

そう思った瞬間、本能に突き動かされた僕は布団から腕を出し、彼女の身体を強引に抱き寄せ、中へと引きずり込んだ。
体勢を変え、悠理の上に乗り上げると、抵抗出来ないよう全身で押さえつける。

驚きに目を見開くも、もう遅い。
気楽な気持ちで男を夜這いするとどうなるか教えてやらねばなるまい。

教育的指導も兼ね、多少乱暴ながらも唇を押しつけ貪ると、悠理は凝固したまま微かに震え始めた。
抱きしめた華奢な身体は熱を帯び、その柔らかさは男の情動を充分に煽ってくる。
本気で暴れようとしないのは───部屋の端で眠る魅録達に知られたくないから?

「……んっ………んっ!」

涙目になった悠理を見ながらも、行為は止まらない。
浴衣の上から脚を絡め、腰を揺らし、きわどい部分を擦る。
完全に勃起していると解りながら、そうすることで彼女の秘められた欲情を誘おうとした。

何もかも…………この身体に教えてやりたい。
世界中で僕だけに許された行為だ。
他の男になど任せてたまるか。

これ以上抵抗出来ないと思ったのか、悠理は力を抜き、なすがままの状態で涙をこぼす。

恐れと恥じらい。
いつもの彼女からは感じられない女の香りが漂い、欲望を刺激する。
こんなことはもちろん初めてだ。
離れがたく感じながらも、唇を解放した僕は耳元にひっそり囁いた。

「こうなると………解っていなかったでしょう?」

焦り気味にコクコクと頷く悠理。

「…………どういうつもりで、仕掛けてきたんです?」

「あ、あたい…………その…………」

僕自身解っていない衝動を、彼女が理解しているとは思えない。
軽率で、無知で、愚かな………そこがたまらなく愛おしい少女。

 

────ん?愛おしい?

僕は今、悠理を愛おしいと?
いや、それは………野梨子にも抱いている感情。
悠理だけが特別というわけでは────

しかしこんなにも明らかなパトスを感じたことは過去一度たりともない。

僕は戸惑い、焦った。

このような気紛れをこれから先も僕だけに示してほしいと思う願望。
悠理に触れた唇を他の誰にも触れさせたくないと願う独占欲。

導かれる答えはもう………はっきりとした形を成しているのに、それを信じたくない自分が此処にいる。

「……………おまえのこと……気になって仕方ないんだもん。」

真っ赤な頬に流れる雫は、彼女自身戸惑っている証拠。

酒の所為にしたかったのか?
それとも寝ぼけた振りを?

どちらにせよ、これ以上の腹の探り合いは無意味だ。

「僕は……………いや、僕も……………」

子犬のように情けなく濡れた瞳に唇で優しく触れると、悠理はくすぐったそうに肩を竦めた。

静かな、しかし男二人の寝息が聞こえる中で、彼女との密着を楽しむ自分が居る。
明確な欲情をどう収めようか考えあぐねる自分が居る。

「あの夜、おまえに触れてから………目が離せない。」

内緒話するように告げれば、

「清四郎も?」

と、期待を浮かべる瞳。

あの時、悠理に口付けたのは探求心と溢れ出る好奇心から。
しかし今は違う。
腹の底から生まれる欲望に導かれ、こうして彼女を抱きしめている。

お互い、子供ではない。
だからこれは自然なこと。
流されるように結ばれたとて、おかしくはないはずなのに──

僕は明確な想いを頭の中で構築するため、少しの沈黙を用いた。
告げるべき言葉は、もはや一つしかないと解っている。
それで居て何を躊躇う必要があるというのか。

 

「悠理…………」

「…………何?」

「もう一度、キスを…………」

「……………ぅん。」

触れた瞬間の高揚に、明らかな想いを感じる。

覚悟を決めるなら今しかない。
悠理を、
この世でたった一人の悠理を僕のものとする為、大きな覚悟を背負うのだ。

彼女の後ろに広がる広大な世界を見据えながら。

未来に広がる未知の世界を、待ち望みながら。

 

その夜、僕たちは布団の中で何度もキスをした。
さすがにそれ以上先へは進めなかったが、互いの想いを膨らませ、確固たるものにするに充分な時間を割いた。

夢のような現実。
この先、どのような変化が二人に訪れるのか。

それでも僕は悠理が手放せないと感じた。
もはや好奇心だけでは理屈に合わない。

恋という感情────

もしこれがそうだというのなら、勢いよく飛び込んでみようと思う。

他の女では絶対に想像出来ない未来を、悠理となら永遠に見続ける事が出来そうだから。

そしてそれはきっと

僕を高める何かだと強く信じている───