前編

清四郎と悠理は皆が言う通り、お釈迦様と孫悟空の関係なのだろう。
ともすれば暴走し、トラブルを引き起こす彼女を、彼は先読みして制する。

そんな日々を送ってきた二人は、意外にも強い繋がりを築いている。

目と目
肌と肌
直感対直感。

見事なコンビネーションで他の四人を牽引し、難事件を解決してきたわけだ。
そうなるともう、互いの存在価値を認めざるを得なくなる。

━━━━もしかして、僕たちはすごく相性がいいのか?

━━━━清四郎と一緒だと、なんか楽しい。

多少の欠点に目を瞑りさえすれば、決して悪くない相手だ。
彼らをよく知る者からすれば、“多少なんかじゃない”と非難するかもしれないが。

ともあれ、色気もくそも無かった二人の関係にようやく終止符が打たれた。

────まるで夢のような現実。
全てを見通す全知全能の神もさすがに想定しなかったろう。

彼らは恋人同士になった。
見ているだけで胸焼けのするような、甘いカップルに。



高校最後の冬休みを目前にし、清四郎と悠理は双方納得の上、関係を公表した。
それを聞いた仲間四人は絶句し、顎が外れた。
決してオーバーな表現などではない。
頬を染め、仲良く手を繋ぎ、互いを見つめ合う二人の姿など正直言って気持ち悪いだけだ。

現実とは思えない事態にとてもじゃないがついて行けない四人。
彼らは絶句したまま約五分間を立ち尽くした。

「ま………まぁ、悪くねぇよな。うん。」

口火を切ったのは勇気ある魅録だ。
当たり障りのない感想だったが、明らかに目は泳いでいる。

「そ、そうですわね……お互いが良いのなら………ええ………少々不気味ですけど。」

追随したのは野梨子。
声は震え、動揺を隠せていない。

「あんたたち………冗談じゃないのよね?」

「………僕、なんか悪い夢を見てるみたいだ。」

可憐と美童は抱き合い、現実から逃避しようとしたが無駄だった。

悠理の頬は赤く、それを見つめる清四郎の瞳は見たことがないほど優しかったからだ。

─────こんなあり得ない現実は夢であって欲しい!!

以前の婚約騒動の時は、まったくもって恋愛感情の無かった二人。
だからこそ、からかいつつも応援できたのに。
こんな事態は大誤算である。

友人たちの率直な感想はともかくとして、剣菱・菊正宗両家は大いに喜んだ。
三日三晩のどんちゃん騒ぎに乗じ、早速式の日取りについて盛り上がる。
相思相愛の二人に障壁など見あたらない。
周りが勝手に物事を進めてくれる為、後は雛壇に座るだけで良かった。

反面、学園は阿鼻叫喚の地獄絵図。
悠理の下駄箱には軟弱な男子生徒達からの強力なクレームが届き、清四郎の下駄箱には悠理信者の暴言や妄言の書かれた負の手紙が、わんさか入るようになった。

だがこの二人、そんな些細な事など気に留めるような神経の持ち主ではない。
磁石のようにくっついたまま、美童顔負けの熱愛ぶりを発揮し、周りの苛立ちをはねのけた。

学園きっての秀才とトップクラスの問題児は、今や押しも押されぬビッグカップル。
教師たちはもちろん蚊帳の外で、どれほど騒ぎになろうとも注意できない。

それもそのはず。
剣菱家の事情を知る大人達は、世界一の保護者、百合子を敵に回す勇気など一ミリたりともないからだ。

沈黙は金なり────

彼らは賢かった。

「あの二人は絶対にそんな関係になるとは思いませんでしたのに!」

「きっと大丈夫ですわ!婚約騒動の時も直ぐに破棄されましたし………」

「でも………見た感じ、すごくラブラブですわよ?」

「…………悠理様を大切にしてくださるのなら…………私、応援しますわ。」

否定する感情は当然のこと。
しかし悠理の熱烈なファン達はハンカチを噛みしめながら、そう納得した。
もちろん心の中は暴風雨である。
出来ることなら夢であって欲しいと願う。

「菊正宗君にはもっと良い人がいるはずだ!」

「女なんて相手にしないと思ってたのに!!」←謎

「せめて白鹿さんだったらなぁ。」

「でも、あんな生徒会長も悪くないかも。なんか、すごくかわいいし。」

「……………確かに。思春期の少年みたいに見えるね。」

清四郎のちょっとおかしな信奉者達もまた、泣く泣く現実を飲み込む。
相手が悠理であることを不満に思いつつも、清四郎の幸せそうな顔を見れば、それが正しいと信じるしかないからだ。
せめて相手が白鹿野梨子であるなら───彼らもすんなり諦めることが出来たろうに。
世の中、そう上手くいかないものである。



「せーしろー、腹減った!飯食いにいこーよ!」

「あぁ、それなら姉貴が奢ってくれるそうですよ。まったくもって珍しい。明日は雹(ひょう)が降るやもしれませんな。」

「え、和子姉ちゃん?まじ?なんか用でもあった?」

「この間から、悠理に会いたいとうるさいんです。」

「ふーん。奢りなら喜んで!」

清四郎の姉は、医大でもトップクラスの成績をおさめた優秀な人材である。
後々は菊正宗病院を引っ張ってゆく凄腕の心臓外科医となるだろう。
経営を弟に任せる───と口で言ってはいるが、実際は全てを掌握したくて仕方ない野心ある人間なのだ。

そしてそんな彼女は悠理の実家が大好きだった。
資産だけでなく、その奇天烈な家族全てを。
清四郎が悠理と交際を始めたと聞いた時、誰よりも拍手喝采で喜んだのは和子だ。

「もう、さっさと結婚しちゃいなさい!今度破談になったら怒るわよ!」

次こそは剣菱の後ろ盾を現実のものにしたい───彼女は心から願う。
病院はもちろん安泰だし、何よりもあの夫婦が側に居ることで、想像もつかないような面白事件が特等席で見物出来るのだ。
弟を人身御供にしてでも、彼らとの深い繋がりを持ちたかった和子は、飛び込んできた幸運を今度こそ掴んで離さないと胸に誓った。

その為に必要なもの。
────それが既成事実である。

今回の食事はただの懇親会などではない。

どう見繕ってもピュアな交際をしている二人を、何とかして先に押し進めたい。
そしてその結果をもとに、話をまとめあげ、とっとと結婚させたい。
多少強引な手を使ってもこの際構わない。

和子はそう企んでいた。
目的のために手段を選ばぬ性格は、清四郎だけではなかったのだ。



「あ~、旨かった!ここのフレンチ最高!」

「よかったわ、気に入ってくれて。さ、紅茶もデザートもすごく美味しいのよ。どんどん食べて?」

高級ホテルの最上階。
そこは予約二ヶ月待ちが当たり前のレストランで、芸能人や政治家がお忍びで使うことも多かった。
父のコネを使い予約した其処で、和子はご機嫌な悠理をスマートにもてなす。
清四郎はそんな姉にいつにない奇妙さを感じ取っていた。
彼女の性格上、財布を出すときはそれなりの見返りを求めていると知っているからだ。

しかしどれほど注意深く観察していても、隠された“何か”は読みとれず、清四郎は満足そうな恋人の笑顔にほっこりさせられるしかなかった。
悠理の笑顔は何にも勝るご馳走だ。

「あら、いけない。車の中にちょっとしたプレゼントがあるのを忘れていたわ。取ってきてくれる?清四郎。」

「僕がですか?」

「いいでしょ?ほら、鍵。小さな紙袋なの。後部座席にあるからね。」

「やれやれ。人使いが荒いですな。」

文句を言っても勝てるわけがなく、清四郎は不承不承立ち上がった。
レストランは最上階でも、ホテルの駐車場は地下二階にある。
それまで二人きりにして大丈夫だろうか?
余計なことを吹き込んだりしないだろうか?
不安が募る。

後ろ髪引かれる思いで立ち去る弟の、広い背中を見送った和子は、ジャケットのポケットからさりげなく小さな包み紙を取り出す。
デザートに夢中になっている悠理は全く気付いていない。
相手が相手だ。
警戒心など抱くはずもないのだが。

和子はその包みを皿の陰で開き、そっと紅茶の中に溶け込ませた。
まるで砂糖のようにさらさらと消えてしまう怪しげな粉。
もちろん悠理は何も気づかぬまま、紅茶を美味しそうに飲み干す。

ゴクリゴクリ

その無警戒な様子にほくそ笑む和子。
企み人は期待に胸を湧かせた。

もうおわかりであろう。
白い粉の正体は………媚薬。
昔、清四郎が使用した『催淫剤』であった。

弟の薬棚に多くの薬物が並んでいることなど百も承知の姉。
薬学に精通している彼が、どんなものに興味を持つのか、少し考えればわかることである。
もちろん弟が作るモノの安全性には自信を持っているし、彼女自身きちんと調べ上げた上で使用する事を決めたのだが────
果たして効き目はいかほどだろうか。

和子は慎重に悠理の様子を観察し始めた。

「悠理ちゃん。もう一つケーキ食べない?」

「わーい!食う食う!」

ウェイターを呼びつけている間に、今度は残りの薬を清四郎の珈琲に溶かし込む。
これで全てが完了した。
後は………不肖の弟が戻ってくるのを待つだけ。


五分後───

「なんか…………熱い。」

思いの外、効き目の早い薬だ。
これは弟を褒めるべきか?

和子は顔色一つ変えず、ひそかに清四郎を讃えた。

「あら大変。風邪でもひいたかしら?」

「なんか目眩がする………じょ………」

「大丈夫?悠理ちゃん。」

そこへタイミング良く戻ってきた清四郎が、悠理の様子に目を見開き、駆け寄る。

「どうしました?」

「彼女、具合悪そうなの。風邪でもひいちゃったかしら。」

「風邪?」

額に手を当てると、僅かながらも火照りを感じ、微熱と言われればそうかもしれないと思い至る。

「さっきまであれほど元気だったのに……」

「ほんとねぇ。あ、そうだわ。帰りにうちに寄ってもらったら?あんたが作る風邪薬、わりと効くでしょう?」

「“わりと”、じゃありません。確実に効くんです。」

手にしたプレゼントらしき紙袋を机に置いた清四郎は、やたらと悠理を気遣う姉に不信感を抱いた。

どうも変だ。
姉貴のキャラではない。

彼の第六感がそう囁く。

そんな遣り取りの中、スマートな黒服のウェイターが追加のケーキを目の前に並べると、悠理の意識はまたもや食欲へと傾いた。

直ぐにでもがっつきたい。
けれど、ドクドクと胸を打つこの症状が気になって仕方ない。
汗ばむ手と目頭の熱さ。
心なしか喉も渇く。

悠理は銀色のフォークを持ったまま、それをテーブルの上に彷徨わせた。

「ねぇ、清四郎。申し訳ないんだけど、実は私、彼から呼び出されちゃって───。だから後のことはお願いして良いかしら?あ、そうそう。お会計は済ませておいたからね。」

「…………解りましたよ。さっさと行って下さい。」

「悠理ちゃん、プレゼントは後からのお楽しみにね。じゃ、お大事に~。」

和子はにっこり笑うと、その場を優雅に立ち去った。
最新のブランドファッションに身を包むその背中に、どうも黒い羽が見えるようで清四郎は落ち着かない。
しかしそれ以上に恋人の変調が気になって仕方なかった。

赤い顔で何とか二個目のケーキを平らげた悠理は、喉の渇きを潤すため、清四郎の前に置かれた程良い温度のコーヒーを一気に飲み干した。
無論、それには媚薬の残りが入っている。
和子も思い至らなかった誤算。
本来なら弟をその気にさせるはずのものなのに。
しかしその誤算により、悠理の症状はまたしても進行していった。

「せ……しろ……………熱い…………」

「悠理?」

高熱か?と思いきや、そうでもない。
清四郎はおもむろに脈を計り、悠理の発汗状態を探る。

─────風邪じゃないな。麻疹でもない。もしかするとこれは………

自分で作った薬の作用くらい即座に思い浮かぶ。
それが媚薬であるなら………尚更のこと。

────まさか、姉貴───?

そこでようやく姉の企みに気付いたものの、悠理はすっかり腰が抜け、テーブルに突っ伏していた。
息がすこぶる荒い。
苦悶に歪む顔も真っ赤だ。

「悠理………!」

「せぇしろぉ………あたい………変だよぉ。」

体を自らの両腕で抱き締め、脚をモジモジさせ始めた悠理は訪れた変化に戸惑いながらも、明らかに欲情していた。

甘い声と濡れた目。
性欲を意識したことなど一度もなかった身体が、今初めての疼きを感じているのだ。

たちまち全身から漂い始めるフェロモンを、
清四郎の優秀な鼻は瞬時に嗅ぎ分けてしまう。
腰に来るほどの甘い香りは普段の悠理からは考えられないものだ。
頭が滾るその匂いに、清四郎の喉は鳴り、背中を一筋の汗が流れ、焦りを帯びる。

────このままでは非常にまずい。

彼の中で危険信号が点滅した。

「………辛いのか?」

「うん。普通の風邪じゃないよ…………これ。」

そりゃそうだ。

大きな手が悠理の顔を包む。
真っ赤な頬は先ほどよりも熱を持ち、苦しそうな呼吸が何度も吐き出される。

「部屋を取りましょう。」

これこそが姉の目的だと解ってはいたが、今はその策にはまるしか悠理を楽にする術を知らない。
もちろん内心腹立たしい限りだ。
人に操られることを何よりも嫌う男は、ギリと奥歯を噛みしめた。
手段を選ばない姉の性格に血の濃さを感じつつも。

清四郎も男だ。
好きな女から漂うフェロモンに逆らえるほど、自制心は強くない。
本能的な香りは抑えつけていた性欲を見事に煽る。
かといって、薬を盛ってまでどうこうしたいなどと思ってもいなかった。
そこまで己のエゴを押しつけたくはない。
恋愛にはプロセスがあり、むしろそれを悠理と楽しみたいという思いの方が強かったのだ。

「部屋?」

「横になりたいでしょう?」

「うん…………それと水、欲しい。炭酸水。」

レストランのチーフマネージャーを呼び出し、急遽一部屋確保してもらう。
具合が悪そうな客に対するプロの行動は流石に早かった。

「医者を呼びましょうか?」

「いえ………それには及びませんよ。」

清四郎は悠理を抱え上げ、エレベーターに乗り込む。
片手間に姉へと電話をかけるが、とんずらした彼女が出るはずもなかった。

熱っぽい体が大人しく腕に抱かれている。
目を瞑ったまま息を荒くする恋人の姿に、高鳴る胸はどうしようもない。
しかしこの状況につけ込むことは清四郎のプライドが許さなかった。
それ見たことかといった、姉の尊大な顔が思い浮かぶ。

「くそ………随分と高くついたじゃないですか。」

胃の中に収まったフレンチの絡繰りに、清四郎は苛立ち、静かに憤慨した。
それでも、こんな状態の悠理を自宅に送り届けることは出来ない。

せめぎ合う理性と本能。

彼は紳士的な自分を見失わないよう、下腹に力をこめ、まっすぐ正面を見据えた。