※中学生たちの後押しで覚悟を決めた悠理
「あ~、あたし、そろそろバージンとおさらばしたーーい!」
「うっそ、美由紀ったら“未だ”だったの?」
「ね?驚くでしょ?付き合って三週間も経つのにあいつ、手ぇ出して来ないんだよ?ほんっと情けないんだから!」
「じゃあさ、こっちから押し倒しちゃえば?」
「え~?あたしから?」
「そう!たっくん、きっと驚くわよ~。」
喉の奥が見えるほどの大口で大好きなオムライスを食べようとしていた悠理は、パタリとその手を止め、恐る恐る隣の席を覗き見た。
どう見ても、どう考えても、中学生にしか見えない二人の少女。
しかし話す内容は大人顔負け。
過激極まりない。
─────うひゃぁ!最近のガキはすげぇな。
ハタチを過ぎて暫く経つが、未だ恋人との進展がない自分を振り返り、思わず溜め息を吐く。
この年まで恋愛経験ゼロ。
一生、縁がないと思っていた男女交際。
しかしお子ちゃまだった彼女も齢20にして、ようやく恋人が出来たのだ。
お相手はなんと!
冷静沈着、眉目秀麗、博学広才━━━ありとあらゆる賛辞を惜しみ無く浴び、その余りある才能をいかんなく発揮する男、菊正宗清四郎、その人である。
しかし彼もまた、長年、違った意味で恋愛に興味が持てなかった。
女性に割く時間があるのなら、自分の趣味や研究に費やしたい。
そんな圧倒的価値観で生活してきたからだ。
刺激的かつトラブルメーカーな友人たち。
その中でも悠理は特別で、いつも何かしら新しい世界を見せてくれる。
無論、危険は付き物。
だがチャレンジ精神旺盛な彼にはもってこいの話。
恋とはまた違った価値観が揺さぶられる、とても貴重な友人だったのだ。
そう、今までは─────
この世に生まれて20年余り。
初恋すら経験の無い彼らだが、運命の女神は何の気まぐれか、この二人を弓矢の標的にしてしまったようだ。
そしてキューピッドの矢は見事、ブサリとそれぞれの心臓に突き刺さった。
二ヶ月前───ある嵐の日のこと。
横殴りの雨が降る中、大学構内で名輪を待ちわびていた悠理。
夜は万作と焼肉に行く予定だったので、自ずと胸は弾む。
しかしそこへ清四郎がいつもの澄ました顔でやってきて、悠理に声をかけた。
「おや、お迎え待ちですか?」
「うん、すげー雨だから遅れてるみたい。清四郎も帰るんなら送ってくよ。」
「それは助かりますね。」
あちこちの教授と顔馴染みの男は、どの学部棟にでも我が物顔で出没する為、悠理は彼がこの講堂に居ることに、何の違和感も感じなかった。
紺色の麻ジャケットとコットン地の白いスラックス。
いつもと変わりない、隙のない出で立ちだ。
大きな窓の外、雷鳴が鳴り響き、ガラスを震わせる。
その圧倒的なパワーに思わず身震いした悠理は、習慣的に清四郎の袖を掴んでしまった。
━━━怖いときはこの男の側に居れば安全!
そんな刷り込みは高校時代から引き継がれている。
しかし彼は避雷針でも何でもない。
自然の猛威から逃げられるはずもないのだが。
「うひゃあ!すっげぇ、雷だな。」
皺になるほど強く握りしめた手を、清四郎は何故かそっと包み込んだ。
その大きな掌で。
「悠理。」
「な、なに?」
「僕と恋愛、しませんか?」
ピカ!!ドドーーーーン
閃光は講堂内を隙間なく照らし、地響きの様な振動が床を這う。
「――――え?なんて?」
清四郎を見上げ、そう聞き直した時、再び雷鳴が二人の会話を邪魔した。
稲光に映し出される互いの顔。
清四郎の言葉が、開閉する口の形によって伝えられる。
『おまえと恋がしたい。』
閃き落ちる青い稲妻。
それに照らされる男の真顔は美しかった。
空気を切り裂く轟音に窓ガラスがビリビリと鳴り、鼓膜を揺する。
現実離れした状況におかれ、悠理の思考はどこか麻痺してしまったのだろう。
気が付けばこくり、と頷いていた。
それはあまりにも静かな衝動で、まさに神の悪戯という表現が相応しい。
天の雷(いかずち)と共に恋の火蓋が、今、この瞬間、切って落とされたのだ。
・
・
・
それから嵐は去り、時は経つ。
いつもと変わらぬ日常は、あの嵐が夢であったかのように感じさせる。
けれど───
彼は確かに『恋がしたい』と告げた。
だがその日の帰り道、車の中の二人はいつも通り他愛の無い話をし、いつも通りに別れた。
耳の中で繰り返される告白。
彼は確かに告げたのだ。
恋がしたいと。
彼女に面と向かって。
━━━━━恋。
可憐が、美童が、魅録が、そして野梨子までもが経験しているそれを、悠理と清四郎だけはしたことがなかった。
恋が甘く切ないものであること、思い通りにならない厄介なものであることくらい、彼らを見ていたら否が応でも理解できる。
悠理は恋に縛られるより、自由に遊ぶことを選んできた。無論、そんな標的がいなかっただけかもしれないが。
そして清四郎もまた、恋に溺れるなんて非生産的なことの出来ない男であった。
二人は“他”と違うことを充分自覚していたが、それについて何の後ろめたさも感じなかった。
恋よりも、愛よりも、心浮き立つ楽しいことは世の中にたんと転がっている。
そう信じ、日々新鮮に生きることを望んだのだ。
「恋って、どんな風にするんだ?」
嵐の日から一週間。
悠理は恐る恐る尋ねてみた。
清四郎は読んでいた本からそっと視線を外し、穏やかに笑う。
「さぁ?僕にもわかりません。でもこうして二人で居る時間を増やしていけば、何処かに辿り着くやもしれませんよ。」
彼にしては珍しく曖昧な返答だったが、悠理は従順にその言葉に従った。
さらに一週間が経つ頃、二人は海外へと出掛けた。
多忙な清四郎に合わせ、二泊三日の香港旅行。
いつも通り大いにはしゃぎ、大いに食べた。
しかしながら、予約した部屋は寝室が三つもあるプレジデンシャルスイート。
当然、二人は別々に眠った。
そんな清く正しい交際が今までずっと続いて来ている。
二ヶ月という、長いのか短いのかも分からない期間。
二人はデートと称し、色んな場所に出掛けたが、手を繋ぐことは愚か、キスすることも無かった。
━━━これじゃ、友達のままじゃんか。
そんな不安を感じ、一旦リセットした方が良いのかもしれないな、と思い始めた矢先、先程の過激な会話を耳にしたのだ。
見た目はともかく、相手は中学生。
自分と比べ、よほど大人びた感覚を持っている。
悠理は持っていたスプーンを置き、彼女たちの席にそっと腰を近付けた。
自分自身、こんな行動に出るとは思ってもみない。
まさかまさかの悩み相談。
それも経験したことのない類の悩み。
野梨子にも、ましてや可憐にすら、一言も告げてはいない赤裸々な話だ。
自分より五個も若い少女たちへ打ち明ける決心をした悠理は、前のめりに声をかけた。
「あのさ!!」
彼女たちは最初訝しげに見上げていたが、その真剣な様子に圧され、席を譲る。
「“恋した”って感覚はどうやったらわかるんだ?」
「「え??」」
唐突な質問に目をパチクリさせていた二人は、顔を見合わせ失笑した。
「ちょっとぉ、おねぇさん、その年で恋したこと無いの?」
「わ、悪かったな。」
「勿体ないよーー!せっかく美人なのに。」
どんな関連性があるのかは分からないが、やたらと外見を褒められる。
人よりもマシな容姿である自覚はもちろんあるが、悠理はそれが一般受けしないことも重々承知していた。
────幽霊なんかに好かれても仕方ないしな。
慌てて恋人が居ることを伝えてみると・・・
「なーんだ。ちゃんと居るんだね。でもさ、彼氏だって嬉しいんじゃないの?」
「へ?」
「おねぇさんほどの美人だったら、男って絶対自慢したくなるでしょ?」
「そうそう。自慢するよね。わざとらしくイチャついたりしてさ?」
「自慢?あいつは普段からあたいのこと、バカにしてるぞ?」
「えーー!!愛されてないーー!」
━━━━━‘愛されてない’
そのフレーズは悠理に衝撃を与えた。
恋するって事は、好きになるって意味だよな?
好き=愛情なわけで………
”僕と恋愛、しませんか?”
不確かな誘い文句に「おまえが好きだから」というフレーズはどこを探しても見あたらない。
…………なら、清四郎もまだ、あたいのことを好きじゃないのか?
それなのに一体何故、交際を申し込んできたんだろう。
恋愛経験ゼロの悠理にとって、これはかなりの難題。
女の子達は『拙い事を言ったのか』と不安げな表情で見つめてくるが、頭の中はモヤモヤしっぱなしだ。
「そっか…………あたい、好きって言われてないから………愛されてるわけじゃないんだよな。」
「「え!?」」
話の見えない独り言に少女達はたじろぎ始めた。
更に悠理の両目から大粒の涙が零れ始めた為、なおのこと焦りが募る。
「ち、ちょっと、お姉さん、泣かないでよー!」
「そうと決まったわけじゃないじゃん!相手だって好きだから交際申し込んできたんでしょー?」
なんで悲しいんだろう。
清四郎に好きって言われてないから?
それって悲しいことなのか?
こんなにも胸が痛くなることなのか?
恋………って、恋するって………お互いの気持ちが釣り合わなきゃダメなのは何となく分かるけど、『恋愛、しませんか?』ってどういう告白なんだよ!
あたい、わかんないよ!
混乱する悠理の側で、二人もまた混乱していた。
しかしここは何か前向きな意見を言おうと、頭を捻り出す。
「お、お姉さんはどうして彼氏とつき合おうと思ったの?」
「…………え?」
「そうそう!嫌な相手なら付き合わないよね?」
「それは…………」
────どうしてだろう?
あの日のことを思い出すが、明確な答えは見つからない。
ただ、雷鳴轟く中、清四郎の顔に釘付けとなり、気付けば頷いていただけなのだ。
「…………わかんない。」
分かんないけど………あの時の清四郎はすごく真剣で………すごく………綺麗な目をしていた。
あの綺麗な目に吸い込まれそうになった時、この目で自分だけを見つめていて欲しいと思ったのだ。
「………あたいだけを見つめていて欲しい。………これって、どんな気持ちなんだろ?」
「えー?好きな人にはそう思って欲しいの当たり前だよ!」
「よそ見なんかされたら泣いちゃうよねぇー!」
「お姉さんって、その人の事が大好きなんだよ、絶対。」
「好きだから気になるんじゃん!」
矢継ぎ早に答える二人の少女もまた、必死だった。
年上を泣かせたとあっちゃ、気が引ける。
大好き?
清四郎を?
そりゃ………嫌いじゃないけど………嫌いなところもいっぱいあるけど………
どっちが多いかっていえば…………
「もしかして………恋、してんの?あたい………」
「間違いなく。」
「してるしてる。」
後押しされるように断言されると納得してしまう単純さ。
悠理はほうっと息を吐き、何度も噛みしめるように「そうか」と呟いた。
与えられた小さな答え────
後はもう、清四郎の気持ちを確認するだけのこと。
「サンキュ!」
晴れやかに立ち上がった悠理の笑顔を、思春期まっただ中の二人はまるで自分のことのように嬉しく思った。