※注:清四郎とゆかり中心の回顧シーン
着信があったのは、午後十一時を過ぎたところ。
当時、風呂上がりだった僕はその名を見て、心がざわついた。
“城崎ゆかり”───
彼女は普段、電話をかけてこない。
いつも、「今夜、三人で夕食でもいかが?」
といった簡潔なメールを送ってくるだけだ。
僕が城崎夫妻と交流があることは両親も知っていて、「素敵なご夫婦だし、仲良くしてもらいなさい」と、いつも手土産付きでにこやかに送り出してくれていた。
知り合ってからかれこれ三ヶ月。
僕はすっかり友人の“顔”をしながら、彼らの家に出入りしていた。
城崎医師は父が認めるだけあって、非常に頭が切れる男だった。
たった十六かそこらの子供相手に、真剣に話を合わせてくれるのだから、尊敬に値する人物だ。
外科医として海外経験を積み、更なる飛躍を望む彼の豊富な知識は、これからの僕にとって非常に役立つ。
何せその頃の僕は医者になるのも悪くないと思っていたし、父もそれを当たり前だと感じていただろうから。
僕は長男であり、菊正宗病院を継げるだけの才能もつ、恵まれた人間だった。
両親は望むもの全てを与えてくれたし、かといって無理矢理押しつけるようなこともなかった。
医学の道は険しく、深い。
そのハードルを乗り越えてみるのも悪くないなと思いながらも、時々すごく詰まらないレールに見えた。
それでもまだ未熟だった僕は色んなことを吸収する為、ありきたりの日常の中で足掻いていたのだ。
世界の広さを知らぬまま、将来について葛藤する夜も多かった。
城崎医師の家では、若い妻が出迎え、美味しいお菓子や料理を振る舞ってくれる。
聞けば大学を卒業してすぐ結婚を決めた彼女は、昔パティシエになりたかったと言う。
腕前はなかなかのもので、それについては夫も認めざるを得なかった。
いつも仲良さげな夫婦。
そこに横たわる問題など、その時の僕は想像もしていない。
「遅いけど、かけ直してみるかな。」
そう思い、手に取った携帯電話。
しかし10コールを過ぎても出ないため、仕方なく終話する。
大した用事ではないのだろう。
もしかするとミスかもしれない。
いつもなら電源を落とすのだが、何故かその夜はそのままにして布団に潜り込んだ。
次の朝。
────夕べは電話してごめんなさい。アップルパイをたくさん焼いたので、放課後にでも取りに来てくれる?
───アップルパイ
さほど甘いものが好きではない僕を、呼び出すための口実がそれなのか。
姉貴やおふくろは喜ぶだろうから、頂くことは躊躇しないが。
しかしその時、何かの予感はあった。
無論、彼女の思惑に気付く年頃ではない。
僕は初恋すら未経験の十六歳で、女の複雑な感情など理解出来るはずもなかったのだから。
・
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学園では悠理が5教科全てで赤点を採り、仲間たちに散々からかわれていた。
無論、僕は呆れ返っていたがいつものこと。
心底勉強に向かない頭だ。
脳みそも筋肉で出来ているのかもしれない。
一度詳しく調べる必要があるな。
そんな風に、友人である彼女を小馬鹿にしていたのも懐かしい記憶だ。
「あら、清四郎?紅茶飲んでかないの?」
放課後、手に入れた部室で、思い思いに過ごすのが僕らの日常で・・・・・・
いつもなら美味しいお菓子と共に最上級の紅茶を啜っているのだが、この日は“城崎ゆかり”に呼び出されていた為、野梨子を悠理に任せ、早々に下校した。
アップルパイを貰えるのなら、何かお返しが必要だ。
そう思い、可憐が気に入っているというメーカーの紅茶セットを手土産とする。
彼女が気に入ると良いのだが───
妙に気遣う自分がおかしかった。
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慣れた大通りを歩いていると、不意に飛び込んできたのは信じがたい光景で・・・何度も目を瞬かせ、確かめた。
僕の視力はその頃2.0だったし、見間違えることは無い。
交差点で停止していた黒い高級セダンの中に、城崎医師と見知らぬ女性が仲良さげに談笑している。
それだけならただの知人と言い切れただろうが、あいにく僕の目は彼らの不貞行為を余すとこなく捉えてしまった。
彼は…………
あの真面目そうな彼は、隣に座る女性の耳を甘噛みし、器用にも飾られていたピアスを口に咥えたのだ。
おどける彼に女は喜び、褒美とばかりにキスをする。
どう考えても深い男女のそれ。
妻を裏切る行為だった。
僕は立ち尽くした。
夫婦仲の良い二人にこんな翳りが存在したなんて、想像もしていなかった。
手に汗が滲む中、どんな道を辿って彼らのマンションに到着したか、記憶にない。
出迎えてくれた“城崎ゆかり”の笑顔を、まともに見ることも出来なかったように思う。
「ここの紅茶、美味しいのよね!すごく嬉しい。早速淹れてもいいかしら。」
はしゃぎ気味の彼女に促されソファに座ったものの、どうも収まりが悪い。
僕は時計を見た後、「あまり時間がないんです。」と告げたが、彼女の耳に届いたかは定かでなかった。
アップルパイの甘い香りとダージリンの芳香。
落ち着くはずの空間が全て虚構に映り、チェストに飾られた結婚当時の写真もモノクロに見えてくる。
「主人は三日ほど韓国出張らしいのよ。急に決まったから食べてくれる人居なくって。」
貴女のご主人は────今頃
言えるはずもない現実が喉を苦くさせる。
差し出された薫り高き紅茶も然り。
可憐が淹れる、罪無き味が恋しかった。
「夕べは………電話しちゃってごめんね。」
「いえ………何か、ありましたか?」
向かいのソファではなく、僕の隣に腰をかける彼女。
それが一つ目の違和感。
いつものポジションを変える理由は?
だが話の先が気になった僕は、そのまま紅茶を啜っていた。
「久々の飲み会だったの。ほら、私いつも引きこもってばかりでしょ?友達が心配してくれたみたい。」
「大学時代の?」
「ええ。ほんと………皆イキイキしていて、羨ましかった。」
彼女は自分の足首を見つめ、ふっと溜息を吐く。
まるでそこに足枷があるかのような、苦渋に満ちた表情を浮かべながら。
「調子に乗って遊んでたら、距離感間違えちゃって───襲われそうになったの。」
「───え?」
「もちろん無事よ。逃げ切ったわ。私、こう見えても足は速いから。」
得意げに胸を張るが、彼女の顔から苦悶は消えない。
何故だろう。
心が締め付けられた。
「…………その時ね。気付いたんだ。」
「気付いた?」
「うん。………私はただ夜遊びがしたかったわけじゃないって。私は、私はね。…………貴方と遊びたかったんだって。」
“貴方”?
───僕のことか?
途端に漂い始める妖しげな色香。
距離が近い分、鼻腔に届く香りも強烈だ。
僕は信じられない思いで彼女を見つめた。
さっきまでの苦悶は見当たらず、そこには誘うような瞳が瞬いているだけ。
「……………何を言っているか、解ってます?」
「解ってるよ。私は人妻で、貴方は高校生で………二人が結ばれる可能性は万が一にも無いってことくらい。」
言葉にすればそれは陳腐過ぎる話。
あまりにも現実的でなく、頭が痛んだ。
「…………なら、どうして…………」
「言いたかったの。貴方に私を意識させたかったの。触れ合えなくていい!結ばれなくていい。ただ…………私は貴方を………」
「止してください!!」
僕は声を荒げた。
馬鹿馬鹿しい。
こんなのはあまりにも馬鹿馬鹿しい展開だ。
全てに裏切られた気分だった。
お菓子作りの上手な若き人妻も、
父が認める優秀な外科医も、
本当はこの世に存在しないのではないかとすら思った。
彼の不貞行為が脳裏を巡る。
もしあの時───あんな場面に遭遇しなかったら、きっともっと強く彼女を拒否したに違いない。
だが目の前で肩を細める女性を、僕は哀れに感じてしまった。
何も知らぬ罪無き人妻。
いつもあたたかい笑顔で出迎えてくれる優しき人が、苦しんでいる様は見たくなかった。
「…………もう、会わない方がいいですね。」
「どうして?」
「僕は…………非生産的な事はしたくありません。」
台詞とは裏腹に、ソファから腰が立たない。
動け、動けと思いながらも、目は隣に座る彼女の足首を見つめ続けた。
「菊正宗くん………」
近付いてくる甘い香りはアップルパイよりも濃厚で────
予想通りに塞がれた唇から漂う同じ芳香に、目眩を感じる。
絡み始める舌が互いのもどかしさを伝え、それ以上何も出来ないと分かっているが故に、激しく求め合った。
情けないほど燃え滾る。
心が?
それとも身体だったか。
初めてのキスが───こんなにも熱の帯びたものになるとは思いもよらず、僕は冷静な自分を探し出し、観察することにした。
これは恋ではないのかもしれない。
彼女への憐憫に流されているだけかもしれない。
それでも僕の中の雄は従順に反応し、抱きしめた腰の細さに欲情した。
押し倒し、裸が見たい。
彼女の喘ぐ顔を目に焼き付けたい。
だが危険信号は大きく鳴り響いている。
こんなことは冗談でもしてはいけないと分かっている。
無意味な行為。
頭の中でもう一人の自分が「リセットしろ」とがなり立て、僕は奥歯に力をこめ、彼女を引きはがした。
「帰ります。」
「菊正宗君!」
「もう…………連絡しないでください。」
悲痛な声を振り切って、ケーキも持たず扉を開ける。
もう会わない。
彼の家族との縁もこれきりだ。
濡れた唇を手の甲で拭い、足早にエレベーターホールを目指す。
そしてたどり着いた時、あぁ、ここは15階だったなと思い出し、後ろから追いかけてくる彼女の足音を期待した。
愚かな期待。
何の利益も生み出さないはずなのに───
その時、僕の心は確かに、経験したこともないほど激しい衝動に襲われていたのだ。
・
・
・
事実、それから連絡は来なかった。
一度だけ、父の口に城崎医師の名は上ったが、どんな話だったか記憶に無い。
恐らくは曖昧にやり過ごしたのだろう。
たまに思い出していた彼女の唇も、日々の忙しさに流され、消えていく。
あれを恋とは断言出来ないが、かといってそうじゃないとも言い切れない。
────面倒だ
たった一度の記憶に振り回されている暇はなく、それからの僕は仲間達との時間をより一層大事にした。
膨大な興味は尽きることがない。
刺激的かつ個性ある友人との冒険も、そして広がりつつある交友関係も、その頃の僕にとっては欠かせないものだったから。
・
・
「清四郎。悠理ちゃんが来たわよ。」
姉の後ろからピョコンと顔を出す恋人を見て、心が温かくなる。
素直な悠理。
裏表のない天真爛漫な性格や、直情的な行動。
隠し事の出来ない単純さ。
それら全てが、僕の中から強固な猜疑心を取り去ってくれる。
女性という生き物に惑わされないよう自分を律してきた僕が、唯一悠理に対してだけリラックス出来るのだ。
「おっす!」
「ようこそ。」
タタタと駆け寄ってくる身体を今すぐにでも抱き締めたい。
実際、姉貴の目が無ければそうしただろう。
「これ、うちのシェフがアップルパイ焼いてくれたんだ。食う?」
シナモンの香り漂うそのスイーツを、悠理は嬉しそうに手渡してくる。
しかし苦い思い出を振り返っていた僕には、なかなか酷な食べ物だ。
「頂きましょう。紅茶でも淹れますよ。」
「あ、あたいミルクティ!」
「了解。」
城崎ゆかりは何も知らぬまま、今も夫婦生活を続けているらしい。
それはそれで幸せなんだろうと思う。
夫はあの後、別の病院へ移り、見事な手腕を発揮している。
移動した理由は知らない。
知る必要性もなかった。
彼らとの時間は今でもほろ苦さを伴い記憶に留まっているが、もう思い出すことは無いはずだ。
僕の目に映るは、悠理や仲間達との明るく真っ直ぐな未来だけ。
澱みない、晴れ渡る空のような人生だけが、大きく広がっているのだから。