私と彼は、親同士が仲良しだったこともあり、年頃になると、当然のように縁談を勧められた。
年は離れていたけれど、彼は優秀な外科医。
私はその時、大学三年生だった。
菊正宗総合病院は日本でもトップと言われていて、そこに勤められることは、医者としてステイタスでもある。
彼と交際している時、誰もが私を羨み、少しでもお近づきになりたいと擦り寄ってきた。
医者、それも外科医というレッテルは、思いのほか効力があるのだなと気付いたのもその頃だ。
彼は忙しく、数少ないデートも五時間が限度。
直ぐに病院からの呼び出しベルが鳴り、慌ててタクシーを呼ぶ。
旅行など、結婚するまで一度もしたことがない。
それでも私は漠然と彼との未来を受け入れていたし、両親が喜ぶのならそれに越したことはないと考えていた。
人並みの容姿、ずば抜けた知能。
会話はあまり弾まないけれど、それでも優しい人格は顔に滲み出ている。
結婚することに否はなかった。
そして大学卒業と同時に式を挙げ、子供が欲しいと願う彼の言葉通り、基礎体温をつける毎日が続いた。
友人たちは皆、外で働き、若者らしい楽しみを追う。
私は家の中におさまり、家事に勤しむ。
お酒を嗜む程度にまで減らした私は、必然的に飲み会へ参加することも少なくなっていった。
そうする内に何かしらの不満が募っていたのかもしれない。
若くして結婚を決めたことで、青春を奪われたような、そんな気になっていた。
自分で決断したことなのに、ジレンマが襲う。
私が彼、“菊正宗清四郎”と出会ったのはその頃だ。
夏のある日、主人に届け物があり病院を訪れたのだが、立ち眩みがして小さなカフェスペースのテーブルにうつ伏せていた私を、彼は目敏く見つけた。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声は、落ち着いたトーンで耳に飛び込んでくる。
ゆっくり顔を持ち上げれば、驚くほど端正な顔立ちの青年………けして少年ではなかった。
学生服らしきシャツは皺一つなくて、第一ボタンまできっちり、そして紺色の蝶ネクタイが結ばれていた。
すぐに、かの有名な聖プレジデント学園の制服だと判る。
「誰か、呼びましょうか?」
「あ………いいの。少し目眩がしただけだから。外の暑さにやられたのかな。」
無理矢理起きあがろうとして、またしても目の前が揺らぐ。
「貧血かもしれない。看護師を呼んできます。」
そう言った彼は颯爽と立ち去り、ほんの数十秒でベテランらしき看護師を連れ帰った。
「大丈夫ですか?意識は?診察されます?」
大声で尋ねてくるその女性は、私の脈を取りながら体温計を腕に挟みこんだ。
強引な動作だったが、むしろ安心感がこみあげる。
「内科の荻原先生を。」
「………そうね。先生なら手が空いてるかも。」
学生らしき彼の助言に、ベテラン看護師は深く頷いた。
────どういうことだろう?
私は全く予想もつかぬまま、彼らに導かれ、診察室へと連れ行かれた。
“萩原医師”は優しそうな初老の先生で安堵する。
それを見届けた後、「ではお大事に。」と告げ、診療室から出て行く彼。
年の割に大きなその背中が目に焼き付いた。
診察の結果、妊娠初期だったことが判明した私。
しかし残念なことに、その五日後、自宅で流れてしまった。
暫くの間、通院を余儀なくされ、ついで色んな検査を勧められるがままにこなす。
心配性の主人は「次がある。それまでしっかり体調を整えてくれ。」と慰めのような、落胆のような言葉を私にかけた。
子供なんて───ぜんぜん欲しくない。
隠していた本音が喉の奥からこみ上げそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。
もちろん、流産によるショックはなかった。
主人へ事の経緯を話した時、あの青年が天才外科医と名高い院長の息子であることを知った。
なるほど…………すべてが合致する。
彼もまた優秀な学生らしく、いずれはこの病院を継ぐ者として期待されていた。
「キクマサムネ、セイシロウ君、か。」
たった一度きりと思っていた交流はその後、意外と長く、そして親密なものへとなってゆく。
私はまだ23才の小娘で、彼は中学を卒業したばかりの、若葉のような青年だった。
再会は一ヶ月後のこと。
場所は病院でなく、とある商業施設の一角だった。
夫へのささやかなプレゼントを探していた私は、ふと良い色のネクタイに目を留める。
しかし普段、白衣の下はTシャツオンリー。
たまの寄り合いに着けていくだけにしては高価なものだった。
迷っていると、横からスッと手が伸びてきて、そのネクタイは私の視界からあっさりと消えた。
「あ、それ………!」
「え?」
まさかそれが彼だなんて思いもせず、キッと睨むよう見上げてしまう。
「何か?」
「貴方………えっと、菊正宗清四郎君、よね?」
「…………あぁ!もしかしてあの時の?」
記憶していてくれたことに微かな喜びを感じ、私は深々と頭を下げた。
年齢差はおよそ七つ。
それなのに彼の肩は私の目線にあって、すごく男っぽさを感じる。
最近の高校生って、発育がいいのね。
けして小柄ではない私ですら驚くほど、均整のとれた身体つきをしていて、私服もこれまた大学生以上にお洒落だった。
「私、城崎ゆかりといいます。あの時は本当にありがとう。すごく御礼がしたかったの。」
「御礼なんて……別に。しかし何故、僕の名を?」
夫について話すのは少々気まずかった。
何故か────
それはきっと、私の中で何かが芽生えようとしていたからだ。
「なるほど…………そうだったんですか。城崎先生は素晴らしい外科医だとうかがっています。病院の評判を底上げしてくれたと、父も喜んでいましたし。」
子供らしからぬ言葉遣いは、彼の外見に似合っていた。
どう教育されれば、こんな風に隙のない青年に成長するのだろう。
私は自分の過去と見比べ、溜息を吐きたくなった。
「主人は貴方のお父様を心から尊敬してるみたい。先生にはとてもお世話になったって、毎晩のように言ってるわ。」
こんな話を高校生としていることに違和感が擡げる。
私もつい最近まで、『学生』という名札を着けていたはずなのに、今はもう、遠い場所にまでやってきた気がする。
彼はにっこりと頷き、そして手にしていたネクタイを私に譲った。
「どうぞ。プレゼントか何かでしょう?」
「………いいのよ。貴方こそ………必要なんじゃ。」
「昔お世話になった方へ少し。でもこのイメージじゃなかったので、違う物を探します。」
そう言って会釈した彼の腕を掴んだのは、衝動的なものではなかった。
もう一度会いたい────
あの日、病院で彼の背中を見てこみ上げた感情が、ただ単に甦ってきただけのこと。
「あの、お茶、奢らせてくれないかな?それと、プレゼント選び、私にも手伝わせて?」
「しかし…………」
「大丈夫。怖いお姉さんじゃないから。捕って喰ったりしません。」
そう。そんなつもりはなかった。
飽き飽きした日常に振りかけるスパイスを、ほんの少し求めていただけ。
彼はとても理性的で、見た目も清潔で、まだ子供だということが、私を安心させてくれる。
「では、ご相伴に預かります。」
「堅苦しいから敬語は止してね。」
「…………努力、します。」
彼の困ったような顔が、とても爽やかに見えた。
遠くに置いてきた何かを思い出させる、ほんのり温かな表情。
一歩踏み出すことに少しの罪悪感はあったけれど、私はただ寂しさを拭いたかっただけなのだ。
罪を犯そうとしたわけじゃない。
彼と過ごすほんの僅かな時間で、失われた青春を取り戻したかったに過ぎない。
その日のティータイムはとても楽しく、有意義なものとなった。
彼は高校生とは思えぬ豊富な知識と話術に長け、時間はあっという間に過ぎ去っていった。
帰り際、再びの約束はもちろんしない。
連絡先も交換しない。
それでも私はまた会えると分かっていた。
彼が通う聖プレジデント学園は主人の母校。
尊敬する院長の息子を我が家へと招き入れることに、夫が反対するはずもない。
むしろ、より交流を深めたく思うだろう。
それから二週間後。
彼は私の家にやってきた。
珍しくテンションの高い主人と共に。
二人が話す内容はほとんどが医学について。
特に主人が三年ほど勤務していたドイツでの経験を語り始めると、まだ高校生の彼は興味深く相槌をうっていた。
私はとっておきの紅茶を注ぎ、焼きたてのクッキーを差し出す。
年の差を感じさせない柔軟な思考。
夫は彼をとても気に入ったらしい。
病院の将来は明るいと手を叩き、喜んでいた。
三人での語らいは時を忘れるほど楽しく、
そんな休日が月に二度ほど繰り返され、私たちは親密になっていった。
といっても、二人だけで会うような事はなく、連絡も簡単なメールのやり取りだけ。
まだまだ他人行儀だった関係が寂しく感じ始めた頃、私は久々に大学時代の友人と飲みに出かけた。
夜の六本木はネオンの洪水。
女友達は濃いめの化粧で出迎えてくれた。
同世代のボーイフレンドと共に。
「その顔、結婚生活に鬱憤が溜まってるんじゃなあい?」
「そんなことないわよ。」
「旦那とは年離れてたでしょ?」
「一回りも離れてないわ。九つよ。」
「医者だもんねぇ。何不自由ない生活送ってるわけだし、文句も言えないか。」
あけすけな物言いは親しい仲だからこそ。
とはいえ、所々に感じるトゲは私を不愉快にさせた。
それでも久々の夜遊び。
とことん楽しみたい。
しこたま飲んで、騒いで、カラオケボックスへと移動することになったあたりから、足下がふらつき始める。
友人もまた呂律が怪しくなり、唯一彼女のボーイフレンドだけがまともだった。
カラオケルームに入った途端、彼女は熟睡。
私も腰が抜けたようにソファへと倒れ込んだ。
「大丈夫?」
「あ、うん…………少し休めば。」
男の気配を隣に感じ、慌ててスカートの裾を整える。
膝上のフレアスカートは久々だったし、普段は滅多に履かない為、気が緩んでいたのだ。
案の定というか、男は息を殺し、その大きな手で私の太股をまさぐり始めた。
「や……やめて……………」
一瞬にして酔いが醒めてゆく。
「人妻って、エロい響きだよなぁ……」
酒臭い息と共に小さな囁きが耳元を掠め、私は悪寒に襲われた。
「や、やめてよ!」
渾身の力で彼を突き飛ばし立ち上がると、私は部屋の扉を開け、背後からの声を無視し、逃げ出した。
その時、机の角に足を引っかけたらしく、ストッキングは無惨にも破れてしまったが、構ってなどいられない。
すれ違うスタッフが異様な面持ちでこちらを見ていたけれど、私はとにかく少しでも遠く、その建物から離れたかったのだ。
夜も更け、それでもまだ人通りは多い。
出来るだけ目立たないよう道の端っこを歩いていると、涙がこぼれてきた。
特に貞操観念が強いわけではない。
潔癖でもない。
それなのに私は、あの男に触れられることを嫌悪した。
吐き気をもよおすほど気持ち悪かった。
多少の羽目を外す為に出かけたこの夜。
旦那を愛しているから───
そんなまともな理由だったらどれほど良かったか。
「私………“誰か”と会いたかったわけじゃない。彼に…………彼だけに会いたかったんだ。」
愕然とした。
まだ高校生の、七つもしたの男の子に会いたいだなんて、血迷ってるとしか思えない。
連絡先は知っている。
メールアドレスだけじゃなく、彼の電話番号も。
私は散々迷った挙げ句、その番号に指を這わせた。
呼び出して────どうするつもりなのか?
衝動のままに動けば、後悔するに決まっている。
三回目のコール音が鳴り終わった時、
「ゆかり?」
耳に馴染んだ声が背後から降り注いだ。
慌てて電話を切る。
「こんな所で何してる?飲み会じゃなかったのか?」
恐る恐る振り返ると、夫は破れたストッキングを見て、険しい顔をした。
「おい、それ。どうしたんだ?」
「の、飲み会は解散したんだけどね。酔っ払い過ぎて、転んじゃったの。格好悪いからタクシーを呼ぼうと思ってたんだけど。」
スラスラと出る嘘を夫は信じ、膝を折り屈み込んだ。
「軽く痣になってるな。歩けるか?」
「………大丈夫。それより仕事だったんじゃないの?」
「ああ………思いのほかオペが早く終わったから、飯食いに来たんだ。」
「そう。………私も何か食べたい。」
「ラーメンでいいか?」
「いいよ。」
夫の腕を掴み、歩き始めると、カバンにしまった携帯電話が震え始める。
相手はもちろん、分かってる。
でも今は出れない。
ごめん────菊正宗君。
私はこの時ようやく、自分が最低な女であることを痛感した。