Bitter Taste~清四郎と過去の女?~

「やっぱ映画はアクションかSFだよなぁ!」

出来立てほやほやの最新型メガシアターから出て来た悠理は、隣に立つ恋人へ最高の笑顔を惜しげなく見せた。
彼の背丈を見上げるとなると、わりと苦労するのだが、それでもさっきまでの感動を伝えたくて仕方なかったのだ。
黒髪の恋人はそんな悠理を微笑ましく見つめる。

交際して半年。
デートはほぼ毎日で、映画も両手の指の数ほど鑑賞していた。
悠理にとって映画とはドキドキハラハラ、それにワクワクを含んだ、とにかく刺激的な作品のみ認められる。
逆に清四郎は心に訴えかけるもの、もしくは歴史的事実を上手く描いたものを好み、当然ながら、二人の価値観は大きく違っていた。

基本、悠理の好みに合わせ、自分の好きな作品は一人で観に行くことが多くなっている清四郎。
昔は隣家の幼なじみを連れ、出掛けることも多かったが、さすがに恋人が出来た今となってはそれも無神経だと思い、遠慮している。

もちろん三人は旧知の仲。
そんな遠慮は必要ないのかもしれないが、清四郎としては僅かな諍いすら生み出したくない為、出来るだけ女性と二人きりにならないようにしていた。
無論、可憐とも距離をあけている。

 

「あー・・・腹減ったぁ。」

ここぞというタイミングで伸びをした恋人に、用意されている答えは一つ。
美味しくてボリュームのあるレストランの名だ。

「表参道にうまいビストロがありますよ。」

「ビストロ?」

「今の時期、おまえの好きなロブスターなんかも用意されてるんじゃないですか?」

「行く行く!あっ、居た!タクシー!!」

素通りしそうになった空車を掴まえ、悠理はすかさず乗り込んだ。
相変わらずの素早さ。
感心する清四郎もまた後に続く。

「表参道の“ピポット”という店へ。……ええ、その交差点で結構です。」

混み合う時間帯だったが、運転手のおかげで20分も経たぬ内に目的のビストロへと辿り着いた。
こぢんまりとした店は予約客でいっぱい。
どうやら30分ほど待たなくてはならないらしい。

外のベンチに腰掛け、ぶーたれる恋人を宥めるのも彼の役目だ。悠理がポケットから飴玉を取り出したのを優しく見つめていると───

「まさか…………菊正宗君?」

まるでテレビから抜け出したような、清楚系女子アナテイストの女が、清四郎に声をかけてきた。
年は20代半ばといったとこだろう。
もしかするともう少し上かもしれない。
パステルピンクのワンピースと剥き出しの肩。
真っ白で柔らかそうな腕には、華奢なゴールドのブレスレットが光る。
整った顔立ちにバラ色のチークを乗せ、唇は同系色のグロスに濡れていた。
見るからにモテ系の女である。

「あぁ………城崎さんですか。ご無沙汰ですね。」

大学生になったばかりの清四郎がご無沙汰というのだから、なかなかに古い付き合いなのだろう。
悠理はピクッと耳をそばだてた。
腹はグウグウ鳴っている。
頭の中はロブスター料理でいっぱいだったはずなのに、なにやら不穏な空気が漂い始めているせいか、見逃せない。

────女の第六感

そんなものが育ちつつある悠理は、注意深く二人の関係を探り始めた。

─────囲碁関係じゃないよなぁ?となると、ESPなんちゃら?年も離れてるし、それがしっくりくるかも。

「デート中だったのね。ごめんなさい、呼び止めて。」

「いえ………お変わりありませんか?」

「ええ。でも見ての通り、少し老けたでしょ?」

「はは。そのお年で“老けた”という言葉はおかしいですよ。」

「菊正宗君は男っぷりがあがったわね。あ、そうそう、主人も久々に会いたいと言ってたわ。」

───なんと、既婚者!それも家族ぐるみの付き合いなのか?

悠理は慌ててさっきまでの予想を掻き消した。

「そうですね。──機会があればまた。」

あまり乗り気でないのか、清四郎は明確な約束を取り付けることはしなかった。

濁した言葉と、早く立ち去って欲しいと願っている雰囲気。

となると、余計に気になってしまう。

そこなかとない色気が漂う後ろ姿を見送ったあと、悠理のじっとりとした視線に気付いた清四郎は、「なんです?」とバツが悪そうに咳払いした。

「………おまえ、あの女とナニかあったろ?」

「ナニ、とは?」

「………ナニって、ナニだろ?」

「分かりませんね。」

「嘘吐け!」

にじり寄り、襟首を掴む。
不信感露わな悠理の勢いはもう止められない。

「何もありません。何も…………」

清四郎は目を反らした。
目を反らすということは疚しいことがある証拠。
いつものポーカーフェイスも崩れているし、何より、頬が少し赤い。

「今、正直に言えば…………後から蒸し返したりしない。だから吐けよ!」

「何もありませんってば。しつこいですね。」

若干、イラッとし始めた清四郎に、怒りのマグマは更に盛り上がる。
清四郎に絡みついたあの女の視線が、言葉が、不愉快で仕方なかった。

「……………あたいに、嘘吐くのか?」

「嘘なんて………吐いてません。」

「じゃ、何なんだよ、あの空気!!あたいが馬鹿だからって、誤魔化せると思ってんの?」

映画の余韻も、ロブスターへの期待も吹き飛んで、悠理は恋人を詰った。
自分で醜いと分かっていても、やめられないのが女の嫉妬だ。

「悠理………」

伏せがちに視線を彷徨わせる清四郎は、よほどの迷いがあるのだろう。
なかなか口を開かない。
もちろんそこに悠理への思い遣りも含まれているのだろうが、それだけではない何かを感じ取り、悠理は不満に思った。

「知って、どうするんです?」

「え?」

「気が晴れるんですか?」

「それは────」

「僕と彼女は二年ぶりに再会しました。この二年間、思い出したことも、連絡を取り合ったことも、一度だってありません。」

それは疑いようのない真実なのだろう。
清四郎の凛とした瞳が、ようやく悠理を真っ直ぐに見つめていたのだから。

「昔、高等部に入学した頃、知り合った人ですよ。……………確かにほんの少し、惚れてました。」

「え?…………………清四郎が?」

それは岩をぶつけられるよりも大きなショックだった。
悠理の視界は真っ暗になる。

恋とは縁遠い男だと信じていただけに、そのあまりにも意外な事実は、彼女の余りある自信を打ち砕いてしまったのかもしれない。
彼の生涯たった一つの恋は、自分だけに向けらたものだと疑いもしなかったのだから。

「とはいえ、既に他人のモノになっていた彼女に一体何が出来るっていうんです?」

頭に響く不協和音。
自嘲気味にぼやく清四郎が嘘を言っているはずがない。
隠されていた過去を知ることが、こんなにも辛いだなんて、想像もしていなかった。

「でも………あの女…………おまえのこと…………」

さっき感じたあの視線は、清四郎を特別視しているものだ。
それは間違いない。

「どうしようもないことって、世の中にはあるんじゃないですか?それに僕は彼女をきっぱりと忘れ、おまえとこうしている。今だって未練なんかありませんよ。」

「…………未練……………みれん………」

言葉の一文字一文字が胸にナイフを突き立てていく。
経験したことのない激しい痛みと苦しみが悠理を襲い、苛んでいた。

「………何故聞いたんです?おまえがそんな風になるだろうと思ったから、言いたくなかったのに…………」

「あ、あたい…………別に…………なんとも………」

しかし清四郎の哀しげな顔を認識した時、自分の頬を濁流のような涙がこぼれ落ちていると気付いた。
泣きたいわけじゃなかった。
しかし、感情の荒波は遠慮なく押し寄せてくる。
口悔しくて、口惜しくて、灼けつくような怒りが胸を覆う。
憎悪に置き換えられそうなほどの怒りが。

それでも───悠理は清四郎を愛していた。憎むことなど出来やしない。

 

「やだ…………せぇしろ。……………やだ……………あたいだけを好きじゃなきゃ、やだ…………」

「…………馬鹿ですね。今はもう、おまえだけですよ。」

抹消したい過去。
それは砂嵐のように悠理の思考をあやふやなものにさせる。
どうしても消せないのなら、清四郎を記憶喪失にさせてでも奪ってしまいたい。
そんな仄かな初恋など、闇の業火に投げ捨て、葬り去ってしまいたい。

ショックを受ける悠理を清四郎は抱きしめた。
公衆の面前であろうと関係なかった。

言いたくなかった過去は、もしかすると言いたかった現実なのかもしれない。

ひねくれた自分。

打算とエゴにまみれた自分。

悠理の衝撃を目の当たりにして、暗い喜びにうち震える自分が、そこには確実に居たのだから。

悠理が嫉妬し、清四郎の心を独占したいと思えば思うほど、二人の未来がわかたれることはない。
呪縛にも似た関係。
それこそが清四郎の願いでもあり、欲望でもあった。

彼女への想いは、今となれば思春期の過ちだったのかもしれない。だが、悠理への愛はそんなものとは比べものにならないほど大きくて深い。
固執しているのは自分のほうだ。
こんなにも惚れたからには、どんな手を使っても逃さない。
プライドに賭けて────否、命を賭けて。

「うっうっ……ぜぇし…………ろ………」

とうとう子供のように泣き出した悠理を、清四郎は満たされた心で強く抱き締めた。

“城崎ゆかり”───と二度と会うことはないだろう。
彼女の伴侶が、菊正宗病院の有名な外科医だったことはもはや過去。
全ては過ぎ去ったことだ。

霞のように消えていく青春の苦いヒトコマ。
今、清四郎の目に映るのは、この先の輝かしい未来だけだ。

「悠理………夕食はホテルのルームサービスでいいでしょう?」

その問いかけに返事こそなかったが、清四郎は泣き耽る恋人の肩を抱き、50メートル先にあるタクシー乗り場へと足を踏み出した。