清四郎視点

キス───

初めてのキスは中学一年の夏。
姉貴の友人が自宅を訪れ、たまたま二人きりになった時、不意に奪われた。
リップクリームの安っぽい香りが鼻をつく。
まだ完全とは言えない、それでも女っぽさを表している柔らかな身体。
唇もそれに準じて柔らかく───
しかし強引なほど強く押しつけられた粘膜に、性的な魅力はあまり感じなかった。

興味がないわけではなかったので、ろくな抵抗もせずに居たが、正直、こんなものかというのが僕の感想。
特にしたいわけじゃない。
心が高揚するほどの何かを得られたわけではなかったから。
とはいえ、一度経験するとそれなりの上達を求めてしまうのも当然のことで───

その女性とはその後も何度か繰り返し、深いキスまで試した。
流石にセックスを求められた時はきっぱりと断ったが………
女の口は軽い。
姉貴にバレたら一生奴隷確定だ。
そんなのはあり得ない。

二年に上がり、思春期特有の欲求を抱いた時、初めて女性が持つフェロモンとやらに興味が湧いた。
もちろん、野梨子からは清々しいほど感じない。
姉貴は時々男と遊んでいたし、それなりの匂いはキャッチした。
時々ではあるが、街を歩いていてドキッとするほど好みの香りに出会うこともあった。
反面、胸やけするほど嫌な匂いの時も。

いろいろな研究を重ねてきた中で、化粧品や香水については特に興味を深めた。
人に合った香りは、ともすれば吉凶を左右する。
専門的な話なので割愛するが、姉にまぶした試作品の香水は余計な男を引きつける結果となり、すぐに中止する羽目となった。
なかなかに難しい分野だ。

あれは二年の夏だったか。
温室プールをポンと寄付した剣菱財閥会長。
その娘である彼女は泳ぎが得意と触れ回っていたが、確かに水を得た魚の如く 、自由に伸び伸びと泳いでいた。

クロール
バタフライ
平泳ぎ

何でもござれの万能ぶり。
体育の授業の半分は泳ぎのレッスンとなっていたが、授業以外でも放課後の空き時間を使い、ひ弱そうな生徒達を集め、猛特訓していたことを思い出す。

それが今ある水泳部の礎となったわけだが、あのスパルタぶりで、よくもまあ部員が逃げなかったものだ。

喧嘩の強い剣菱悠理は、少年のように未発達な身体を晒している。
まさか、女の匂いに誘われ集まったわけではあるまい。

十中八九、脅し。
もしくは買収。
それなりに楽しくやっているなら問題はないだろう。

僕はふとその時、彼女は孤独を嫌うタイプなのだと知った。

寂しがり屋のご令嬢。
結局は孤独なのだ。
彼女を取り巻く特殊な環境がそうさせるのかもしれないが、それも仕方ないこと。

この学園に通う生徒は大なり小なり同じ想いを抱えている。彼女だけが特別ではない。

あの日は特に暑かった。
体育の授業は二クラス合同で行われ、泳げない野梨子はもちろん見学。ずる休みだ。

「水に入らなくとも生きていけますわ。」と強がっていたけれど、本当は羨ましかったに違いない。
海を眺め、砂浜に城を作っていただけの幼少時代。
青い世界の美しさをきっとその目で味わいたかったはず。
素直になれないプライドの高さも、大和撫子ならではのものかもしれない。

 

飛び込み禁止と散々忠告されたにも関わらず、剣菱悠理はプールサイドから思いっきり跳ね、水の中に飛び込んだ。
そして、まるでイルカのような優雅さで50mを一気に泳ぎ切る。

「剣菱さん!危険ですよ!」

若い女教師の金切り声にも耳を貸さず、再びドボン。
自由な娘を揶揄する輩と、憧れの眼差しで見つめる信奉者たち。
彼女ほど………この学園を必要としている人間はいないのかもしれないな。

ピー!

50mを二往復する合図が鳴り、順番の回ってきた僕はそっと水に足を浸けた。
多少の塩素臭さは仕方がない。
鼻を閉じればいいだけの話だ。

横一列、七人で泳ぎ始める。

タイムを競うわけではないが、それでも自然と競走する形にはなるだろう。

だが僕は本気を出さず、ほどほどのスピードで泳ぎ始めていた。

目立つ必要はない。今のところ。

 

だがそれでもトップを維持していると分かり、あまりの手応えのなさに不満を感じた僕は、隣に剣菱悠理が居れば良いのにな、と思った。
彼女の泳ぎは相当なもので、今競えば割といい闘いになると思うのだが───

そんな風に感じる自分は、やはり好戦的な性格なのかもしれない。

和尚にも時々指摘される。決して褒めているのではなく───

 

ラスト一本。
他の生徒を大きく引き離した所為で、周りはやたらと静かだ。
水の中なので当然かもしれないが、特に人の声は聞こえなかった。

しかし数秒後。
いきなりの歓声が水を震わせる。
ゆったりと泳ぐ僕の耳へと飛び込んでくる。

『何だ?』

そう思って息継ぎの為、水面に顔を覗かせれば、いつの間にか隣を泳ぐ剣菱悠理の姿が目に入った。

猛烈なスピード。
水を掻く手が恐ろしく速い。
息継ぎも最小限で、みるみる内に距離が離れていく。

あと半分。
そう感じた時、僕の身体もようやく本気を出し始めた。あんな実力を見せられたら、プライドが刺激される。
だが、スパートをかけるタイミングが遅かったらしい。
彼女は悠々とゴールし、プールサイドに颯爽と腰掛けていた。

水上でゴーグルを外した時、目に飛び込んできたのは、上から目線に加え、自信満々の晴れやかな笑顔。

「ふん。わりと速いな、おまえ。」

そんな台詞が彼女の口から飛び出す。

「………そりゃどうも。」

フルで競ったわけでもないのに、どうしてそんなにも後ろめたさがないのか。

剣菱悠理の乱暴な性格を、ここに来て改めて感じる。
確かに隣を泳いで欲しいとは思ったものの、何となく腑に落ちない。

後ろを振り返れば、隣のレーンに居た生徒は途中で目眩を起こし、棄権したらしい。

ふ、ん───
僕の泳ぎを見ていて闘争心に火がついたってわけか。

単純な性格と素早い行動。
これほどまでに活き活きとした人間は、この学園でも数少ない。

僕はプールサイドに立ち上がると、彼女の肩をそっと叩いた。

「次は是非とも400mで勝負したいね。持久力には自信があるんだ。」

一瞬後の不敵な笑み。
獲物を得たように輝く瞳が清々しい。
負ける気はさらさらないとばかりに鼻を鳴らす姿も、不思議と可愛らしく感じる。

そんな時だった。
不意に、塩素の匂いの奥から何か甘いものを感じ取った僕は、思わず目を見開いた。

───なんだ?この香りは。

よく利く鼻で確かめれば、それは剣菱悠理から漂う香り。

フェロモン?まさかね───

雄の本能を揺さぶられるような、甘くて濃密な香り。

胸を鷲掴みにされたような、下半身が疼くような、エロティシズムに彩られた香り。

今まで嗅いだことのない、官能的な………

有り得ないだろう。
この少年のような身体からそんなものが立ちこめるだなんて。

 

彼女の細い首筋を水滴が伝う。
キャップに収められた髪の所為で、輪郭までもがよくわかった。

なるほど───汗。
激しい運動の後の発汗とプールの水が入り混じって、普段は漂うことのない香りが漏れ出ているのか。

「剣菱さん!勝手に飛び込んだペナルティーは受けてもらいますよ!授業の後、一人で後片付けしなさい!」

「ええ!?なんでだよぉ!」

女教師のの怒号にヒラリと身を起こし、不満を喚きながら立ち去っていく彼女。
その後ろ姿に触れたくて思わず伸ばした手を、僕はしばらくの間見つめ続けた。

もう少し嗅ぎたい。
他の誰とも違うその香りを。

そしてもう一度────触れたい。

それからだと思う。
剣菱悠理に目を奪われるようになったのは。
いつしか僕は彼女の動向を探り、活躍を分析するようになっていた。
少々暴れ過ぎな喧嘩にも多少の正義感があるとわかり、より興味が湧く。

惹かれる。
色んな意味で彼女に惹かれる。

野梨子の手前、大っぴらに声をかけることも無かったが、出来れば同じクラスになればいいと思っていた。
そしてその願いが叶った時、色んなものが一気に膨れ上がったのかもしれない。

細い肩に触れたくて、
その大きな瞳に自分を映したくて、

ウズウズする。

キスが特別なことだと解っていたけれど、あの日、教室で二人きりになった時、こみ上げる情動に逆らえなかった。

ほんの一瞬、触れるだけのキス。

彼女は気づいていなかったろう。
僕が制服の下で強い欲望を感じていたことを。

一度触れたことで、歯止めは効かなくなった。

会う度、すれ違う度、触れたくなる衝動。

───ば、ば、馬鹿やろー!あんなもんキスの内に入るか!!!

そんな台詞を吐かれたら、是非とも認識させたくなるじゃないか。
君の初めてのキスの相手は、僕以外にあり得ないということを思い知らせたくなるじゃないか。

強引だったのは素直に認める。
支配的な感情に突き動かされてしまったことも。

僕は見返りじゃない本当のキスを、剣菱悠理と交わしたかった。

なぜ?
何故かなんて解らない。
強いて言うのなら、あの時、彼女が発した甘い香りにコンパスのようなものが狂わされてしまったから。

支配されたのは僕自身だ。
後先を考えず行動するなんてこと、あれが初めてだった。
理性を凌駕する本能に振り回され、彼女を求め、手を伸ばさずには居られない。

だからキスをする。
だからその肌に触れ、ギリギリまで膨れ上がった欲情を鎮めるんだ。

心に芽吹いたモノを見過ごし、答えすら与えない僕は確かに卑怯なのだろう。

解ってる。
本当はとっくに解ってる。

もどかしく狂おしいこの想いを。
恋と呼ばれるこの想いを。

だけど───まだ口には出来ない。

したくない。

恋に溺れるには───少々早すぎると思うから。