本編

※中学生の二人(仲良くなる前)


 

外は鉛色の空。
空気もどこか澱んでいて、ちっとも気が晴れない。
放課後、先公から渡された数学の問題集はチンプンカンプン。

“今まで何を勉強してきたんだ?”

そんな今更な質問に無言で睨みつけてやった。
音楽の臨時講師とデキてるくせに。
偉そうに言いやがって。

居残り勉強なんて、ふざけてる。
一枚、一枚、解読不能な数式が羅列され、いっそのこと全部破り去ってしまいたくなる。

こんなの、あいつなら………涼しい顔して説いちゃうんだろうな。
万年トップのあの男────菊正宗清四郎。

定期試験ではほぼ満点を叩き出す、化け物じみた頭と、とても中学生には見えない落ち着いたルックスには、何故か男共のファンが多いと言う。
いつの間に伸びたのか、身長はゆうに175cmオーバー。
同じクラスになって初めて気付いた数々の変化に、あたいは正直戸惑うしかなかった。

隣にはこけしみたいな髪型の幼なじみが居て、相変わらず目の敵にしてくるけど、副委員長の座を取りっぱぐれてからは、ほんのちょっと大人しい。
そうなると、こっちも喧嘩をふっかけるわけにはいかなくなって、なんとなーく不完全燃焼だったりする。

ま。このあたいが副委員長だなんて、お笑い草もいいとこだけどな。
魅録に伝えたら、腹を抱えて大笑いされた。

 

「はぁ~・・・いつ、終わるんだよ、これ。」

放り投げたシャーペンが、机を虚しく転がる。
どうせ出来やしないのに。
嫌がらせか?あの野郎(先公)。

「おや、もしかして居残りですか?」

問題集を閉じた辺りで、ヤツが教室へと入ってくる。
その手には明日配る予定のアンケート用紙が山とあった。

「………なんだ。帰ってなかったのか。」

「僕も一仕事押しつけられてね。誤字が見つかったからって、手作業で修正する羽目になったんだよ。」

「うち、金持ち学校のくせに、そんなとこケチだよな。」

「資源は大切に───確か今年のスローガンだったね。」

菊正宗は自分の机に向かわず、何故かあたいの隣に座った。

「どれ?………数学の問題集、それも中一ですか。」

「ば、馬鹿にしてんだろ、どーせ。」

「小学校の問題でないだけマシですよ。君の学力からすると、ね。」

盛大なイヤミは癪に障ったが、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
一刻も早くこれを仕上げて、とっととディスコへ行く準備をしたいんだから。

「なぁ、頼む。手伝って?」

猫なで声で手を合わせる。

「…………ふむ。見返りは?」

「見返りぃ?何だよ、金とんのか?」

「お金なんて要りませんよ。今、剣菱さんが失って困るものをください。」

「困る………もの?」

困るものって、何だ?
鞄や教科書なんてどうでもいい。
靴はさすがに困るけど、最悪上履きのまま帰りゃいいわけだし。
他に持ってるもの………
ん~、財布、ディスコの割引チケット、ガム、キャンディ、後は………

「ま、ま、まさか………パンツとか言わねーだろーな?」

「…………変態おやじですか、僕は。」

「違うのか………。だったら何だよ。何が欲しいんだ?」

苛ついて消しゴムを床に飛ばせば、菊正宗が立ち上がりそれを拾い上げてくれた。

背、高いな。
腰の位置も………

間近で見れば、余計に感じてしまう自分との差。

昔は弱虫でちっちゃかったくせに。
白鹿の方がおっきく見えたくらいなんだぞ?

「分からない?」

「だから分かんないって…………」

見上げた瞬間、ヤツの顔が降りてくる。
サラサラの前髪と、高い鼻。

ぶつかる!!
って思ったのにそれは巧くかわされ、ほんの少し、風が掠めるような感触が、唇に残った。

─────え?なんだ?

目を瞬かせていると、菊正宗の顔がそっと離れる。

「…………見返りはこれで充分。」

「な、なに?」

「さ。こんな問題集、十分で仕上げますよ。」

そう言って席に着くやいなや、転がっていたあたいのシャーペンを手に取り、サラサラと問題を解き始めた。

涼しげな横顔。
襟元からほんの少し見える、喉仏。

菊正宗清四郎が今、あたいに何をしたのか───
だけどそんなことよりずっと、目の前にある横顔に“男”を感じる。

ヤバい───
こいつ、マジでかっこいいんじゃん。

今までずっと、周りが騒ぐ意味がわかっていなかった。ヤツがモテる理由を。

これっぽっちも思い当たらなかったんだ。
軟弱で、弱虫で、女に庇われて凹んでるようなイメージしかなかったから。

今更だけど、顔が火照ってくる。

さっきのって───キス?
それとも未遂?
よくわかんない。

 

「はい。終わり。」

宣言より早く出来上がった問題集をあたいに押しつけ、菊正宗は自分の仕事に取り掛かった。
それもまた恐ろしく速いスピードでこなしてゆく。

「あ、あんがと。」

答えは返って来なかったけれど、あたいは荷物を手にし、その問題集を職員室へ持って行った。
くそ先公は目を丸くして驚いてたけど、そんなのどーだっていい。
今は、一人で教室にいるあの男が気になって仕方なかった。

どうしよう。
手伝うつもりじゃなかったけど。

どうしよう。
あいつと二人きりで………どうなるんだろう。

来た道を戻れば、廊下にまで聞こえる話し声。
さっきまで居なかったはずの白鹿野梨子が、菊正宗の隣に座っていた。

「誤字だなんて………印刷し直せばいいだけの話でしょう?」

「紙が勿体ないからね。」

「隣のクラスは、先生が刷り直していましたわ。」

「………そうか。」

そんな二人の間に踏み込めなかったのは、きっと顔が真っ赤だったから。

深読みしてしまう、色々と。

「………っ!」

喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、廻れ右をする。風のように廊下を走り抜けると、先公の怒鳴り声が小さく聞こえた。

なんだよ。
何のつもりだよ!菊正宗清四郎!

その日の夜、あたいはディスコに行かなかった。
そして眠る直前まで、菊正宗が握ったシャーペンを、じっと、じっと、馬鹿みたいに見つめていた。