第六話

野梨子は数多くあるシャンデリアの砕け散る様を冷静に見つめていた。
相手はわりと手慣れたテロリストなのだろう。
一人の死者も出さず、大きな銃声を鳴らし脅すことで、音による恐怖支配を達成していた。

ゴージャスな衣装に身を包んだ多くの客人達は全て上流階級に属する人間だ。
震える女性達を守るように抱く男性達は、まるで騎士のようにテロリストを見据えていた。
紳士たる彼らは恐怖を抱きながらも毅然とした態度を見せる。
そういった教育を幼い頃から受け続けてきたからだ。

そんな中、野梨子もまた、厳しい面持ちで背筋を伸ばしている。
昔なら清四郎の助けを求め、震えていただろう。
仲間達が辿り着く事を願い、身を竦めていたはずだ。
しかし彼女も多くの場数を踏んできた。
子供を二人も産んだ。
怖いという感情は残されているが、怯むようなことは無かった。

相手の男達は10人。
皆、黒地に赤の文字で【Death Advance】と書かれたジャンパーを羽織っている。
それぞれが真っ黒なサングラスをかけているが、どう見てもアラブ系……それも恐らくは中東あたりの人種と予測された。

野梨子の頭に多くの情報が駆け巡る。
ここはニューヨークだ。
テロリスト達にとって、名を挙げるにはもってこいの地。
過去に凄惨なテロが起こった此の地を選ぶ理由は、想像に容易かった。

「生きてこのホテルから出たければ、抵抗しないことだ!我々はその辺にあるただのテロリストではない。信念を持ち、民族の将来を心より憂う、れっきとしたメシア(救世主)なのだから。」

あまりにも恥知らずな台詞に皆の顔が一気に歪んだ。
とんだ救世主も居たもんだ、と溜息を吐く者もいる。
銃を振り回し、人々を捕らえ、恐らくこの先に待っているのは身代金の要求と捕らえられている仲間達の解放だろう。
他と、何がどう違うというのか。
彼らは皆正義を謳うが、真実の正義とは一体何か、解っている者は数少ない。

流血を厭わぬ暴力支配。

野梨子は不機嫌に眉を寄せ、チラリ、可憐のパートナーを見つめた。
整った顔は蒼白しているが、取り乱したりはしていない。
アメリカを代表する実業家『マーク・ブルームバーグ』の体調を気遣うよう、近くに寄り添っていた。

「何が欲しい?…………おまえらの要求を聞かせろ。」

老人は低く嗄れた声でそう尋ねる。
その質問を待っていたとばかり、テロリストのリーダーらしき男は口笛を吹いた。

「話は簡単だ。旧紙幣で2000万アメリカドル用意しろ。それと軍用ヘリをホテルの屋上に一台。パイロットは不要だ。我々が操縦する。」

「2000万ドル…………今直ぐにか?」

「不可能とは言わせない。“マーク・ブルームバーグ”ともあろう人間が、たったそれだけの金を用意出来ないはずはないからな。」

老紳士の口が引き結ばれる。
確かに金を用意することは簡単だが、軍のヘリを動かすには上層部の指示が必要だ。

テロリストには屈しない───

現大統領の方針に逆らうような条件に、果たしてゴーサインが出るだろうか。
とはいえ、ここに集まっている客人たちの中にはハリウッドスターや議員の親族などもいる。
そう簡単に見捨てることなど出来ないと思うが………

「……………わかった。取りあえず連絡させてくれ。」

「リミットは一時間だ。いいか?急かせよ?」

そう言って渡された無骨な衛星電話を、彼は震える手で受け取った。

野梨子は残る49人の人質たちをそっと流し見る。
よくよく見れば遠くに美童の美しい金髪が揺れていて、その側にはかの美しきモデルの恋人が寄り添っていた。
どうやら落ちてきたシャンデリアの破片で顔に微かな傷を負ったらしい。
彼女は悲鳴を押し殺すように泣いていた。

野梨子の胸に怒りの火が灯る。
このような理不尽を黙って見過ごすわけにはいかない。
恐怖を凌駕する正義感。
静かに手を挙げ、一番近くにいるテロリストの視線をこちらへと向けさせた。

「…………なんだ?」

わりと聞き取りやすい英語で尋ねてくる。

「多少ながらも怪我人がいます。手当てをさせてくださいな。」

「けが人?」

辺りをぐるっと見渡した男は、老人や啜り泣く女性の姿を見留め、確かに彼らが痛みを堪えている状態だと理解した。
中には逃げようとして足を挫いた者もいる。

「ふん………何の用意もないが、一体どう手当てするつもりだ?」

「あそこの扉が見えるでしょう?続きの控え室には氷とタオルが置いてあるはずです。それをここに持ってきてくださいませんこと?」

「俺が?」

「私を自由にしてくださるのなら、それでもかまいませんけれど。」

思案を巡らせ、男は目を細める。
どうやらこの女の度胸は本物らしい。
着物姿で真っ直ぐに視線を交わしてくる淑女。
手足が震えている様子は少しも見あたらない。

果たして、日本の女は皆このように毅然としているものなのか。

そんな風に感心しながらも、男は警戒を解くことが出来なかった。

「解った。俺がついていこう。変な行動を起こせば、即座に頭をぶち抜くからな。」

「……結構です。」

僅かに乱れた美しい黒髪はそれでも艶やかに、男の目を誘った。
ほっそりした白いうなじ。
見事な衣装に隠れた華奢な身体。
いつか見た日本映画の女優よりも美しい。

ゴクリ………

野蛮な男は隣の仲間に事情を耳打ちすると、野梨子の腕を掴み、そそくさとホールの角へ向かっていった。
そこには壁と同系色の目立たぬ扉があり、開けば15畳ほどの空間が広がっている。
主にスタッフの準備室となっているわけだが、今日は予備のワインや花、そしてシャンパングラスがずらり並べられていた。
もちろん野梨子の思惑通り、多くの氷やタオルも揃えられている。

恐らく此処にいたスタッフは上手く逃げたのだろう。
部屋の奥には廊下へと続く小さな扉がもう一つ見て取れ、野梨子は目を光らせた。

唯一の逃げ場。
おそらくここしかない。

しかし彼女は近場にあった一枚のテーブルクロスを二つ折りにすると、その中にタオルを出来る限り詰め込んだ。
本来ならハサミが欲しいところだが、男に余計な警戒心を与える為出来ない。
会場にはナイフやフォーク、そして水がある。
それで充分だ。

後は氷さえあれば───

そう思い、ワインクーラーから中身を取り除こうとしたところ、その細い腕を男の無骨な手が捕らえた。
日に焼け、何の手入れもされていない褐色の腕。
野梨子のそれとは比べものにもならぬほど太い。

「何………なさいますの?」

「おまえみたいな女は俺のような男にとっちゃ格好の獲物だ。気丈に振る舞っていても暴力に屈しやすい。痛みにも弱い。嬲り殺されたくなかったら言うことを聞け。」

それはあまりにも唐突な豹変。
作業台の上で乱暴に組み敷かれた野梨子は慌てて武器を探すも、野獣の目がそれを許すはずもない。
顎を固定し、近付いてくる下卑た顔。
悍ましいほど臭い息が白磁の頬に吹きかけられる。

「最低ですわね。どこが救世主?醜悪なテロリストに変わりありませんわ!」

「ははは。俺は“救世主”なんて端から思っちゃいないさ。殺し、奪い、犯す。それだけが楽しみでこのチームに居るんだからな。たまに……おまえのような極上の獲物とも出会える。」

舌なめずりする勢いで唇を求めてくる下劣な男。
野梨子は咄嗟に顔を逸らし回避した。

しかし、野獣にとってそんな抵抗は大したことではない。
銃を一旦テーブルに置くと、びっちり閉じられた着物の襟元を無理矢理大きく広げ、白い肌を目で犯し始めた。

こんな屈辱は初めてのこと。
野梨子の頬が一気に赤くなる。

「非常識ですわよ!!本当に人質を盾に交渉するつもりなんですの?当然、それ相応の待遇を求めますわ!」

「ハハハ。あんたがさっき言ったんだろう?俺たちは“醜悪なテロリスト”と同じだって。」

男の手が改めて小さな顎を掴み、今度こそその荒れた唇が押し付けられる───そう感じたとき、野梨子は唇を噛みきりたい思いでいっぱいになった。

「若く見えるが………いくつだ?」

「そんなこと………答える必要ありませんでしょ!?」

精一杯の虚勢。
野梨子の燃え上がるような黒目を、男は嘲笑いながら見つめる。
華奢な首は片手でへし折れそうなほど細く、なめらかに浮き上がった肩胛骨は女性らしさの象徴とも言える。
日本人特有の肌のきめ細やかさに感嘆しつつ、男はそっと耳元に唇を寄せた。

「いい女だな…………気に入った。」

ぞわっと粟立つ肌と震え出す脚。
頭に思い描くのはたった一人の男。

魅録─────!!
助けて──────!!

こぼれそうになる涙を必死に押し留め、野梨子は唇をぐっと噛みしめた。

こんな野蛮な男にどうこうされるのなら…………死んだ方がマシだ!

プライドの高い彼女ならではの帰結。
それでも二人の子供たちを置いていくわけにはいかない。

野梨子は必死で逃げ道を探した。

「…………待って。この着物は汚したくありませんの。自分で脱ぎますわ。」

無駄な時間稼ぎだと解っていた。
それでも僅かな望みを抱かざるを得ない状況である。

「ふん、潔いじゃねぇか。…………いいぜ、ストリップショーといこうか。」

男は身を起こし、せせら笑う。
その下品な顔にシャンパンを投げつけたくなるのも当然だ。
悔しさと惨めさに打ちのめされる野梨子。
白磁の頬に一筋の涙が伝う。

自分が浅はかだったのだ。
テロリストに良心など存在しない。
他の奴らも恐らくは交渉を成立させる気はなかったはず。
結局は金を手に入れた後、皆殺しを遂行するのだろう。

絶望を感じた野梨子は男の視線から逃れるよう、後ろを向いた。そしてのろのろと手に回し、帯を解こうとする。
どうせこの時間稼ぎも徒労に終わるはずだ。
もはや覚悟を決めるしかない。

そう心を決めた瞬間───────

ガン!
ドカッ!!

背後で鈍い異音が響く。
驚き振り返れば、そこには愛する夫の姿が…………

「魅録!………あなた………」

よく見ると天井にある四角い換気口が外れている。
彼はそこから忍び込んできたらしい。
不意を突かれた男は、魅録の絞め技を食らい呆気なく気絶していた。

「おい、変な覚悟決めてんじゃねぇよ。」

怒りに目を燃やす夫へ野梨子は足早に駆け寄る。
誰よりも来て欲しかった相手が目の前にいるのだ。
涙と安堵と今更の恐怖。
愛する夫の腕の中、彼女はひたすら涙を流した。

「私…………もう、駄目かと………」

「んなわけねぇだろ。ここには俺ら全員が揃ってるんだぜ。清四郎もさっき悠理達と合流したんだ。………大丈夫さ。」

その力強い言葉は野梨子を安堵させる。
濡れた頬を優しく撫でる無骨な指が愛おしくて、顔を上げ、魅録の顔をしっかりと見つめた。

言いたいことはたくさんある。
でも今は─────

「魅録。私…………愛されたい。貴方に求められたい。」

「は………?」

「わたくし、まだ………“女”として見て欲しいんです。昔のように………」

驚く夫の首にしがみつき、自ら口付ける野梨子。
それに応える夫もまた、今ようやく彼女の心細さに気付いた。

「馬鹿だな…………俺だって……」

言葉よりも如実に伝わる触れ合い。

二人は強く抱き合うと、互いの愛情の在処をしっかり確かめた。

換気口から顔を出す悠理が赤面していることも知らずに────