第四話

「ええ、そう………そうなの。ニューヨークで集まるのもオツでしょう?」

三日に一度の定期連絡。
野梨子は可憐からの電話に穏やかな微笑みを浮かべた。

可憐が高垣のパートナーとしてニューヨークに渡り、そろそろ三ヶ月が経とうとしている。
彼のビジネスは多忙を極め、ここ一週間、高級アパートメントに帰宅すらしていない状況が続いている。
が、それでも彼女の口から不満はこぼれない。
野梨子の心配を余所に、どうやら上手くいっているようだ。

「実は悠理もね、清四郎の付き添いでニューヨークに来るのよ。美童は………ほら、あいつフラフラしてるから…………」

「分かりましたわ。魅録に伝えて休暇を調整してもらいます。ええ………私は大丈夫。子供たちは母様にお願いしますから。」

会話を終えた直後、夫の車が庭先のガレージに入ってくる音が聞こえ、野梨子は慌てて立ち上がった。
子供たちの方が先に出迎えてくれるだろうが、妻として出遅れてはならない。
相変わらず古風な考えを持つ彼女は、珍しく小走りに廊下を駆けていった。

 

「お帰りなさい。」

「ただいま。」

体力自慢の夫も40を前に、多少なりとも疲労を感じるようになっていた。
とはいえ、他の同世代と比べればその若々しさは段違い。
鋭い眼光には深い知性。
何もかもを見透かす瞳の奥には情熱すら感じられる。
私立探偵という職業柄、直感を失っては仕事にならない。
日々磨かれる優れた勘と並外れた情報網。
年齢と共に落ち着きを見せながらも、彼は決してその能力を衰えさせてはいなかった。

そんな夫を、野梨子は玄関で膝をつき、頭を垂れて出迎える。
後ろから慌ただしくやってくる二人の子供たちも母に倣い、「おかえりなさい」と笑顔を見せた。

長男・魅月(みつき)と、長女・千景(ちかげ)。
まだ幼いながらもしっかりとした教育を受け、聖プレジデント学園初等部では一目を置かれる存在だ。
特に千景は正義感も強く、優れた運動神経の持ち主で、昔の悠理を彷彿とさせる。
魅月は頭も良く、品行方正ながらも少々弱気。
幼稚舎の頃は悪ガキに泣かされて帰ってきたが、その報復は必ずといっていいほど千景の手によって行われた。

「父さま!明日はお休みでしょう?私、海釣りに出かけたいの!」

「釣りかぁ。そういや、長いこと行ってねぇな。」

「千景、父様にもお休みが必要だと何度も言っていますでしょ?」

「僕も海釣りなら………行ってみたい、かも。」

「魅月もか………。よし!なら、行くか!野梨子、明日は多めに弁当を作ってくれ。千葉にいる知り合いの漁師に船を出して貰うからよ。」

子供二人を軽々と抱え、リビングへと消えていく夫の背中は頼もしい。
昔は隣家の幼なじみにだけ、そう感じていたが、いつしかそのシルエットはすり変わってしまった。
暖かな家族を与えてくれた魅録には感謝してもしきれない。
野梨子は眩しそうに目を細めた。

若さ故の過ちとはいえ───愚かな結婚をしたものだ。

ふと囚われてしまいそうになる過去の失態を振り切るよう、彼女は二、三度頭を横に振る。
だがあの失敗がなければ、今の幸せを築けてはいまい。
過去は過去。
今はこの暖かい家庭を守ることこそが、野梨子の使命でもあった。



「ニューヨーク?」

「ええ。」

仕立てたばかりの浴衣を羽織る夫は、薄いパソコンを開き、予定の確認を始めた。
趣味の延長線上とはいえ、依頼は山と舞い込んでくる。
決して暇を持て余しているわけではないのだ。

「来月の頭か。三日…………いや四日くらいなら何とかなるかな。」

「良かったですわ。これで久しぶりに集まることが出来ますわね。」

「可憐、寂しくなったんじゃねぇか?相手も忙しいんだろ?」

「ええ。でもそんな雰囲気はちっとも。溌剌とした印象を受けましたけど。」

「…………そうか。なら良いさ。」

魅録はパソコンを閉じると、次に携帯電話で件の漁師とやらへ連絡を取り出した。
野梨子は見計らったかのように部屋を後にし、明日の準備を始める。
弁当の献立を思い描きながら。

 

二人は、長男・魅月が生まれてからというもの、部屋を同じにしていない。
魅録が多忙になり夜遅くに帰宅する所為もあるが、夫婦としての空気感が薄れてきているのだ。
それは野梨子の数少ない悩みでもあった。

元々淡泊な魅録と、どちらかといえば消極的な野梨子。
世の中の夫婦も似たり寄ったりだろうと推測し、敢えて変化を求めては来なかった。
しかし───
可憐から聞いた悠理と清四郎の関係は、未だ新婚レベルの熱々ぶり。
清四郎がベタ惚れという理由がそのほとんどだろうが、悠理もまた彼を受け入れる態勢が整っているからこそ、である。
少々羨ましいと感じるのも、ここのところスキンシップが激減しているため。
魅録は口下手で、滅多に愛を囁いたりしない。
包容力こそ人一倍だが、基本、昔気質の男で、ロマンチックとは程遠く、それが野梨子の心を萎ませていた。

聞くところによると、清四郎は毎日のように愛を告げているらしい。
それに慣れきった悠理は、しかし見事な大輪を咲かせ、充実した様子で暮らしているのだ。

”美しさ”は愛されているという自信から。

───女は愛されなきゃダメよ。

可憐の言葉は真実であろう。

「私も愛されていますわ………きっと。」

魅録の愛がたとえ家族愛となっても、その揺るぎない安定感は彼が素晴らしい夫である証。
多くを望みすぎる心を抑えれば、人は皆幸せに生きていけるはずだ。
野梨子はそう信じていた。

しかし───

四十路を前に、彼女の身体は静かに泣いている。
それは本能的なものなのかもしれない。
まるで警笛を鳴らすかのように、胸の奥が震え、寂しさに肌が強ばるのだ。

────悠理が………可憐が………羨ましい。

プライドの高い野梨子にとって、それは認めたくない事実。
素直になるには時が経ちすぎたのかもしれない。
魅録はどう思っているのか?
この先の長い人生を………もはや家族愛だけで貫くつもりなのか?

誰にも聞けぬまま、野梨子の心は沈んでゆく。

ニューヨーク───

もし変えることが出来るのなら、その地でもう一度……………

更けていく夜に、彼女の覚悟は消えては浮かびを繰り返した。