第三話

「どーせ、あたしは馬鹿な女よ~!」

白いテーブルクロスに突っ伏した親友を、野梨子は冷めた目で見つめる。
キッチンを借り、ちらし寿司に添えるお吸い物を作ったが、この調子だと来なければ良かったかも知れない、と彼女は本気で思い始めていた。

事の詳細を聞いた時、その後先考えぬ行動に呆れたものの、野梨子は可憐がどれほど元夫を愛していたかを知っている為、強く非難は出来なかった。
相手は美童並みに女性の扱いが上手い男なのだ。
懐に潜り込み、愛を囁き、その腕に絡め取る。

──────愛人問題さえなければ、今でも上手くいっていたでしょうに。

言っても詮無きこと。
野梨子は溜息を吐きながら、ちらし寿司を茶碗によそった。

「可憐。これも何かの転機かも知れませんわ。よく考えて答えを出すべきだと、私は思いますの。」

「無理よ………絶対、うまくいきっこないわ。」

「結論を急がなくてもよろしいのでは?」

「今回は流されただけなの!最近、遊んでなかったから………つい。」

長年の付き合いだ。
可憐が年の割に純情であることは知っている。
傷つきやすい心の持ち主であることも。

自分は恋愛に期待などして来なかった。
魅録との結婚を決意したのも、穏やかな生活を送る為のベストな選択だったように思う。
もちろん、この世で一番好きな男性だし、彼以上に心許せる相手はいない。
互いを認め合い、尊重出来る稀有な存在なのだ。

────恋に溺れる、なんて私には無理な話なのかもしれませんわね。

だからこそ可憐が羨ましいと思う。
彼女の真っ直ぐな生き方や、恋への情熱。
自分磨きに邁進する可憐は、誰が見ても光り輝いていた。
いつもハングリー精神で立ち向かい、男顔負けの仕事量をこなす。
かといって、女性らしい心遣いは損なわず、気配り上手なビジネスウーマンとして活躍しているのだ。
違う世界とはいえ、茶道家元の野梨子もまた、同じく仕事に生きる女。
見習うべきところは多い。

「………彼の本心をどう捉えるかは可憐次第ですけれど、一番大切な事は見失わないようになさいな。」

「大切な、こと?」

「意地を張っていては、真実を見極めることなど出来ませんもの。」

野梨子の言葉は可憐の胸に真っ直ぐ響いた。
男と離婚した後、可憐が一番後悔を感じたのは本心を聞きそびれたこと。
意地を張り、弁護士に任せたきりで別れを選んだ。
傷つけられたことで、男の全てを否定してしまったのだ。

幸せな時もあった。
愛してる、の言葉に偽りは無かった。
描かれた未来予想図について何度も語り合い、そしてその為の努力を誓い合った。

なのに────
彼の裏切りは、可憐の高いプライドを粉々にしてしまった。

────自分はあの小娘に負けたのだ。

そんな現実を覆す気力もおきなかった。
被害者として彼から離れ、そして一人生きて行く道を選ぶ。
その方が楽だから。
逃げることで、これ以上の傷を増やさなくて済む、そう信じていたから。

「………ごめん、野梨子。あたしって成長してないわね。」

「いいえ………そうではありませんわ。可憐はまだ………あの方を愛してるだけですもの。」

それは、目から鱗が落ちた瞬間だった。

「あ、愛?」

「…………あれほど大恋愛して結ばれた殿方を、そう簡単に嫌いにはなれませんでしょ?」

涙目の可憐は呆然と野梨子を見つめた後、ゆっくり胸に手を当てた。

「あたし……………まだあいつのこと…………」

「いつまでもくすぶらせておいてよろしいの?燃え尽きるまで突っ走るのが、可憐じゃありませんこと?」

野梨子の後押しは的確だった。

───そうか、あたしはまだあの人と燃え尽きていないんだ!だからこんなにも………苦しいんだわ!

「野梨子、ありがと。何かが見えてきたみたい。」

「ふふ、どういたしまして。さ、頂きましょう。」

ちらし寿司を差し出す野梨子の横顔には貫禄すら漂う。
可憐はそんな友人の存在を心から有り難いと思った。


それから五日後。
高垣からの電話は唐突だった。

────ロイヤルパレスホテルに来てくれないか?飯でも食おう。

可憐はもう悩まなかった。
その誘いにすんなりとOKを出し、彼の好きな紫色のドレスを着込む。

「…………ちょっと太ったかしら?」

むしろその肉感的な体は、アラフォーとしては充分過ぎる出来映え。
社交界にも顔を出す彼女は、常に自分のスタイルを気にしていた。

「社長、お出かけですか?」

「ええ。何かあったら連絡して。あ、それと、閉店した後、いつもの花屋で新しい物を用意してもらってちょうだい。」

「かしこまりました。」

四宮(しのみや)は頭を下げ、目映いばかりに着飾った上司を見送る。
相手は誰だか分からないが、どうやら久々のデートらしい。
いつもより濃いめの口紅と、シャネルの香水がそれを物語っていた。

「さて、仕事仕事。」

切り替えの早い有能な社員は時計を確認した後、もう一仕事こなす為、ぐんと背伸びをし、気合いを入れた。
憧れの上司に一歩でも近付きたい。
のんびりしている時間はないのだ。
彼女もまた、男の手酷い裏切りにあった女性の一人。
仕事に生きようと覚悟しているワーキングウーマンだった。

「お待たせ。」

パリ帰りの料理人が腕を奮うその店は、ホテルの最上階にあった。
とある芸能人がお忍びで利用していると評判になり、連日予約で一杯らしい。
そんなレストランの一席を難なく確保出来るのも、高垣が名の通った実業家である証だ。

「相変わらず綺麗だね。そのドレス……確かディオールの新作だろ?着こなせる人間は日本人で君しかいないよ。」

「ありがと。貴方こそよく知ってるわね。パリコレ巡りが趣味ってのも変わってないわ。」

メートル(フロア責任者)がすかさず現れ、丁寧な挨拶をする。
その後現れたシェフ・ソムリエに、高垣が好みを的確に伝えると、彼はにこやかにオーダーを受け入れた。

極上のワインは、ボルドーのワイナリーで作られた限定数。
気品ある香りとシルクのような舌触りが、可憐の好みを見事当てていた。

他愛のない話で美味しい食事を楽しみ、パティシエ自らの登場でデセールが提供された後、高垣は可憐の手にそっと触れ、真剣な表情で見つめてきた。

「何?」

「気持ちは、固まったかな?」

「…………まだよ、と言いたいところだけど、あたしも焼きが回ったみたいね。いいわ。ついてってあげる。」

「可憐!本当に?」

「ええ。でも、もう一度、婚姻関係を結ぶつもりはないわ。」

「……………………何故?」

不安に揺れる男の瞳は捨てられた子犬のよう。
大の男が見せるその弱さに、可憐の母性は擽られる。

「形に拘らなくてもいいじゃない。どうせ舞台はニューヨーク。パートナーとしてならいくらでも協力してあげるわ。」

「パートナー、ね。なるほど…………」

「あら、ご不満?」

「いつでも逃げられるように?」

「…………違うわ。あたしは…………貴方ともう一度、恋をしたいのよ。まっさらな環境で、ね。」

テーブルに置かれた貴腐ワインを口に含み、高垣は何かを考えるように目を細めた。
惚れ惚れするほどの色男だ。
いくら見慣れた顔とはいえ、可憐の心は波立つ。

「…………オーケー。それも悪くない提案だ。君となら、一生恋愛していられそうだしね?」

「…………馬鹿。」

二人はテーブルを離れ、店を後にした。
そして当然のように腰を抱かれた可憐は、彼が予約した部屋に無言で立ち入った。
煌めくネオンと飾られた無数の薔薇。
香り立つその中で、男は逸る心を抑えきれず、背後からむしゃぶりつく。

「可憐………」

「………………眞也。」

互いの求める心が重なった時、二人はより大胆にキスを交わし、そして大きな窓から夜景をのぞんだ。

「懐かしいね。昔はよく、こうして君を抱いた。」

「もう、若くはないわ。」

「変わらない………いや、昔よりもずっと魅力的になったよ。」

ドレスの柔らかな裾をたくし上げ、滑らかな肌を確かめるようになぞる。
その愛撫は前回よりもずっと官能的な雰囲気を与えてくれた。

「脱がせてあげようか?」

「………自分でする。このドレス、ちょっと厄介なの。」

言いながら美しい背中を反らし、腕をあげる可憐。
男は括れた腰に何度も触れながら、彼女の脱衣を見届けた。

「相変わらずエステ通いを続けているみたいだね。シルクのような肌だ。」

「もう。これ以上褒めても何も出ないわよ?」

「本音だよ。」

豊かな胸を後ろから支えるように持ち上げ、その重量感に溜息を洩らす。

「君は………ヴィーナスよりも美しい。かといって美術館にくれてやるのは惜しいけどね。」

美童ですら言わないだろう台詞を、元夫は惜しげもなく告げてきた。
この十年、どのような恋愛をしてきたかは分からないが、少なくとも二十代の手管ではないだろうと思う。

立ったままの背中に夥しいほどの口付けを落とし、その間も身体中を隈無く愛撫する大きな手。
どんどんと引き摺り込まれていく官能の渦に、可憐はもう抗えなかった。

 

「もう………いいわ。来て?」

その言葉を合図に慌ただしくベルトが外され、男の昂ぶりが可憐を貫いていく。
前回よりも深く、そして馴染んだ腰使いを繰り出す高垣は、甘い吐息を吐きながら何度も「好きだ」と告げた。

その言葉を信じたわけじゃない。
けれど、求められる情熱に愛の欠片を感じる。
激しく揺さぶられながら窓に滲む夜景を見つめていると、10年の月日が瞬く間に消えていくような感覚に陥った。

寂しかった。
一人は怖かった。
けれど、嫉妬して醜い女になりたくはなかった。
疑うことでこれ以上傷つきたくなかった。

逃げ道を用意し、そこに飛び込んだのは今でも正解だったと感じる。
あの時、何を言われようと、自分は彼を信じることが出来なかったのだから。

「眞也………キス、して?」

ワインと口紅の香りが混ざり合うそのキスを、二人は何度も交わし、そして溺れた。
記憶を上書きしていく数々の営み。

恋する為の準備が再び整うことで、可憐はようやく女としての潤いを取り戻したような気がしていた。