第二話

その日の可憐は朝から頭痛がひどく、何となく嫌な一日になる予感がしていた。
常備薬を飲み、パソコンで仕事のメールをチェックする。

━━━またエッセイの依頼か。それも30ページ。仕事が増えるのは嬉しいけど、最近休めてないのよねぇ。

出版社への返答を後回しにして、いつものサプリメントを服用し、朝ご飯のスムージーを作り始める。
ここ数年、欠かしたことのない日課だ。

ピロリロリン♪

ジューサーのスイッチを切ると同時、スマートフォンが鳴った。
見れば『野梨子』からのメッセージ。

‘ちらし寿司をたくさん作りましたの。そちらでお昼をご一緒してもよろしいかしら?’

「また、何かあったわね。」

可憐は少し考えた挙げ句、‘いいわよ。お吸い物は私が用意するわ。’と返事をした。

野梨子と魅録が結ばれて随分経つ。
二人の子供は小学三年生と二年生。
長男は野梨子そっくりの真面目な性格、長女は男勝りで運動神経抜群だ。
もちろん聖プレジデント学園の初等部に通っている。
魅録は20代の頃に探偵事務所を開いたが、ほとんど道楽のようなもので、舞い込む依頼を選り好みすることも多かった。
白鹿流を継いだ野梨子は松竹梅家で生活しているが、月の半分は実家の母と共に海外へ出掛けている。
茶道を広める活動は、ここ最近特に活発化している為、二人とも大忙しの様子だ。

「時間もあるし、海老の真薯でも作ろうかしら。」

本業の宝石店はチーフに任せている為、可憐は滅多に顔を出さない。
もちろん得意客が来れば、持ち前の社交性で飛び出して行くが。

相変わらず料理の腕前は抜群で、時々ではあるが顧客であるマダムたちを集め、教室を開くこともあった。
離婚してからというもの、精力的に働き続ける可憐は、誰からも羨まれる存在となり輝き続けている。

━━━━独りの方が気楽だわ!

といった強がりも、いつしか本音へと移り変わっていた。

プルルルル・・・・

「はい、可憐です。」

「店長、おはようございます。」

「四宮さん、おはよう。何かあった?」

内線電話の相手は店舗を任せている有能な社員、四宮早織(しのみや さおり)だ。
いつも朝早くやってきて、キメ細やかな清掃を積極的に行う。

「あの………お客様がお見えになっています。店長にお会いしたいと。」

「こんな早く?どなた?」

「……………高垣様とおっしゃいますが。」

可憐は思わず受話器を落としそうになった。

━━━今さら、一体何の用よ!!

喉まで出かかった叫びをグッと飲み込み、受話器を持ち直す。
忘れようにも忘れられないその名前。
何しろ相手は配偶者だった男。
結婚した直後、愛人を作り、それをひたすら隠し続けた卑怯者なのだから。

「…………分かったわ。こっち(四階)へ通してくれる?」

「は、はい。」

可憐は長い髪を無造作に束ねると、作りたてのスムージーを一気に飲み干した。
化粧も着飾る事も必要のない相手。
部屋着に薄いガウンを羽織り、出迎える為にオートロックを解除する。
離婚してからも数回会ってはいるものの、今回は約5年ぶりである。

リビングのソファからお気に入りのクッションを取り払い、窓のカーテンを開けた。
眩しい光が、頭痛を思い出させる。
薬の効果が現れるまで15分。
どんな用事にしろ、治まる頃には男を追い払いたかった。

ピンポン♪

軽やかな音に胸が跳ねる。
玄関先へ向かい扉を開ければ、昔と寸分変わらぬ立ち姿で微笑んでいた。
俳優と見まごうほど整った容姿。
着ている物も超一流品だ。
女が放っておくはずもない。

「やぁ、久しぶり。」

「……………どうぞ。」

気まずさなど一切感じていない様子で、男は靴を脱いだ。
相変わらずセンスが良い。
イタリア製の磨かれた革靴を見つめ、可憐は気付かれぬよう溜め息を吐く。

━━━━真薯は諦めましょ。

ソファに案内した後、自身はキッチンへと向かう。
「せんぶり茶」でも出したい気分だったが、流石に大人げない為、コーヒーの準備をした。
彼の好きなブルマン。
そんな記憶、今すぐにでも抹消してしまいたいのに。

「で?何のご用?」

薫り立つ珈琲を差し出すと、笑い皺のくっきりとした目元が、少しだけ年を感じさせた。
可憐は元夫の向かいに腰掛ける。

「最近、業界でも有名だよ。君のエッセイ。」

「それはどうも。」

「連載3本抱えてるんだって?売れっ子じゃないか。」

「貴方ほどじゃないわよ。今じゃ講演会に引っ張りだこなんでしょう?」

経営セミナーを年間100本近く行う青年実業家。
男は今、一番脂の乗っている時期なのかもしれない。

「で?そんな世間話をわざわざしに来たってわけ?」

「冷たいなあ…………昔は優しかったのに。」

「誰の所為だと思ってんのよ!」

叩きつけるように言ったその言葉を、可憐は直ぐに反省する。
いつもそうだった。
この男には感情を乱される。
だからこそ恋も燃え盛ったのだけれど。

「うん、僕が悪い。君を裏切ったのは僕だから。」

男は素直に過ちを認めた。
意表を突かれた可憐。
何度となく交わされてきた遣り取りだが、今日はどことなく雰囲気が違う。

「何か………あったの?」

元夫は可憐と別れた後も再婚しなかった。
もちろん離婚の原因となった女とも。

「実はアメリカに永住するつもりなんだ。」

「アメリカ?」

「向こうの大企業を買収してね。拠点をニューヨークに移そうかと思ってる。」

「へえ、良かったじゃない。おめでとう。」

さらりと告げれば、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。

「…………付いてきてくれないか?」

「は?何言ってんの?」

可憐は持ち上げたばかりのマグカップをテーブルに戻した。
唐突の言葉に真意が読み取れない。
目を合わせると、その切れ長の美しい瞳を懐かしく思い、彼女は少しだけ感傷に浸った。

そう、この人とは大学卒業後に出会った。
友人の結婚式の二次会で…………誰よりも素敵に感じて、運命だと思い込んだ。
互いに求めるものが合致し、恋は炎の如く燃え盛る。

 

しかし…………
一年の交際の末、見事結婚に至った二人の甘い蜜月は、そう長くは続かなかった。
男は可憐よりずっと若い女を都内のマンションに住まわせ、愛人としての報酬も与えていたのだ。
それはプライドの高い彼女にとって耐えがたい現実。
曖昧な言い訳をする男を見切り、直ぐに離婚届を用意した。

心の底から愛していたのに!

悔しくて悔しくて、眠れない夜が続いた。
仲間を呼び出し、酒に溺れ、あろうことか男達に泣きつき、そのまま甘えようとしたこともある。
もちろん皆、紳士的に慰めてくれたけれど、心の隙間に吹き込む冷たい風は止むことが無かった。

離婚が成立したのは半年後。
身も心も傷つき、ボロボロになっていた。

けれどそんな時、女友達は有り難い。
特に野梨子はほぼ同時期に夫と別れた為、可憐の気持ちを理解してくれた。
彼女の離婚原因は「夫の金銭問題」だったけれど、お互い傷を舐め合うにはちょうど良かったのだ。

子育て真っ最中だった悠理も、よく顔を出してくれた。
ことあるごとに南の島へと誘い出し、気分転換させてくれる。
二人のお陰で深かった傷も徐々に癒え始め、離婚から一年後にはしっかりと前を見据えることが出来た。

「可憐、僕とやり直して欲しいんだ。」

だから、こんな提案に「うん」と頷けるはずもない。
可憐は怒りに震える手を膝の上で重ねた。

「あり得ないわ。もう全て終わったことよ。」

「正直に言う。あの時、彼女の誘いに乗ってしまったのは、あの子が恩人の娘だったからだ。」

「そんなこと…………今更聞きたくない!」

「父親が急逝して、身の拠り所がない彼女に保護欲が湧いた。本当は男女の関係になるつもりなんか無かったんだ。」

「聞きたくないって言ってるじゃない!出てって!貴方とはもう二度とどうこうなるつもりなんか無いわ!」

我慢出来ず立ち上がった可憐を、ソファから腰を上げた男が強く抱き寄せる。

「やめて!!!」

「君しか愛していない。出会った頃からずっと…………君だけだ。」

「離して!」

その手は懐かしい香りがした。
女を惑わせる甘い声も。
眩暈を感じさせる強引な仕草も。
昔と何も変わらない。

ソファに押し倒された可憐はひどく狼狽していた。
慣れた手つきで身体に触れられると、固く閉ざされていた心の扉がゆっくりと開いてしまう。

「可憐…………ああ、君は本当に替わらないな。」

「ちょっと………止めてよ…………」

「名前を呼んでくれないか?その綺麗な声で…………」

「いや…………嫌よ!」

首筋を這う生暖かい唇が、彼女を現実から遠ざけていく。
薄いガウンの下は、淡い薔薇色のシルク。
可憐は無防備すぎる自分を呪った。

「相変わらず綺麗だ…………この十年ずっと、気が遠くなるほど、君に触れたかった。」

「嘘言わないで!信じないわ、絶対に。」

ガウンの紐を解くその手を押し止めようとするも、男はそれを巧みにかわしていく。

「お願い、止めて。貴方と人生を交えることは、もう二度とないのよ。」

「嫌だ。僕はもう決めたんだ…………必ず君をニューヨークへ連れて行く。仕事もあっちですればいいだろう?お義母さんとも気軽に会えるし、何も問題はない。」

昔はこんな強引さが好きだった。
まだ若い可憐をとことん甘やかしてくれた。
あんな事が無ければ、きっと今も幸せに暮らしていたのだろう。

涙が零れる。
それは感傷の涙。
決して歓びではない。

「止めて………これ以上、私を引っかき回さないで………」

唇に触れる寸前、男は小さく「認めない」と答えた。
口付けされながら、ゆっくりと剥ぎ取られていく薄い布。
言葉に反し、防御していた心の壁が一枚ずつ消えていく。

「ああ、可憐………君はやはり美しい……最高の女性だ。」

豊満な胸に顔を埋め、元夫はのぼせたように囁いた。

………………勘弁してよ。ほんと。

彼の望みを聞き入れたわけじゃない。
けれど、その日の可憐は頭痛が酷く、蓄積した疲労で抵抗する気力も失われていた。
雰囲気に流される。
瞼を閉じれば、若かった二人の愛が甦ってくるように感じた。


十年ぶりの元夫は情熱的に可憐を抱いた。
気付けば時計は昼近くを指している。

「そろそろ友達が来るの。………今日はもう、帰ってくれる?」

気怠げな腰に何度もキスされながら、可憐は男を振り払った。

「いいよ。またデートに誘う。あと一ヶ月あるんだ。よく考えてくれ。」

筋肉質な美しい背中は、昔と変わらず魅力的だ。
思わず縋りたくなる気持ちを堪え、視線を背ける。

━━━━やっぱり、あたし………馬鹿な女だわ。

胸の中だけでそう呟く可憐。
今日はもう、野梨子の相談に答える自信は無かった。