その日、野梨子は憂い顔で窓の外を眺めていた。
今にも雨が落ちてきそうな空模様。
声をかけるべきかどうか迷ったが、部屋に漂う湿気に両肩が重く感じた為、俺は思いきって明るい声を出してみた。
「じめじめと鬱陶しいよな!これじゃバイクにも乗れやしねえ。気が滅入るぜ。」
すると野梨子は我に返ったようにこちらを向く。
「それだけじゃありませんでしょ?……夜遊びする仲間が清四郎に奪われましたものね。」
意外な反応だった。
いつにない刺々しさを感じ、返答に困っていると、自らも気付いたのか目尻を染め「冗談ですわ。」と取り繕うように訂正した。
彼女が複雑な思いに囚われていることは知っていた。
長年頼りにしてきた男が、とうとう他人のものになったんだ。
そりゃあ、寂しさも募るってもんだろう。
野梨子はプライドが高い。
清四郎とはまた違った、本物のお嬢様のそれだ。
寂しいとも言えず、悔しいとも言えず。
ただ薄い微笑みを浮かべながら日々を過ごしている。
悠理もそんな彼女の不安定さに気付いているんだろう。
どこかぎこちなく接する姿をよく見かけていた。
「…………映画でも、行かねぇか?」
「え?」
自然と口をついて出た誘いに、ただでさえ大きな目を限界まで見開く。
「わたくしと?」
「どうせ、暇してんだろ?あんたの好きな作品で良いからさ。」
「魅録………」
彼女の白い肌が紅潮し始め、それが綺麗だと感じる俺の顔もまた、自然と熱を持ち始めた。
こんな感覚は初めてだ。
立ち上がった野梨子は「たまには……良いかもしれませんわね。」と帰宅準備を始める。
制服のまま寄り道するなんてこと、生粋のお嬢様にはハードルが高いかと思いきや、涼しい顔で荷物を詰め込んでいた。
そして俺たちは夕暮れ時のシアターに辿り着く。
金曜の午後。
街並みは、普段の倍近くのカップルで賑わっていた。
「何にする?」
壁に貼られた上映スケジュールを指差し尋ねると、意外にも野梨子が選んだのは派手なアクションで人気のシリーズ物だった。
「珍しいな。」
「スッキリしたい気分ですの。」
いったい、何があんたをもやもやとさせてるんだ?
言葉を飲み込み、二人分のチケット代を支払う。
「魅録、これ………」
「いいんだよ。俺が誘ったんだし。」
「………ありがとう。では珈琲とポップコーンをご馳走させてくださいな。」
「俺、コーラでよろしく。」
何故、野梨子を誘ったのか。
悠理ならまだしも、こういった役は美童が似合いのはずなのに。
選んだ映画は人の入りがわりと多く、制服を着た俺たちは当然目立ってしまった。
しかし野梨子は気にも留めず、スクリーンに夢中。
どうやら破天荒なヒーローとリアリティのないストーリーがお気に召したらしい。
シリーズも三作目になると少々刺激に欠ける。
だが俺は、野梨子の反応に満足し、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「とても面白かったですわ。最後の爆発シーンは見物でした。」
「良かったな。少しはスッキリしたか?」
「ええ。………ありがとう。」
野梨子が微笑むと、自然と心がほぐれる。
最近の物憂げな表情と比べれば、格段に美しい。
さすが、牡丹か芍薬に例えられるだけあるよな。
「家まで送るぜ。」
「………まだ、帰りたくありませんわ。」
「おふくろさん達が心配するだろ?」
「魅録と一緒ならきっと大丈夫。電話だけ入れておきます。」
そんな風に信頼されると断りづらいもので━━━━結局俺たちは近くのカフェレストランへと足を運んだ。
「ハラハラの連続で、すごくお腹が空きましたわ。」
そう言って、シーフードドリアを注文する野梨子。
ポップコーンで腹が膨れていた俺は、付き合いで軽くサンドウィッチを頼んだ。
料理が来るまでの間、ふと窓の外を眺める。
街灯がキラキラと輝き、行き交う人々は花の金曜日を謳歌しているように見えた。
そこへ━━━━見慣れた人影が目に入る。
「あれ、悠理じゃねぇか?」
「え?」
「ほら、あそこの店の角……やっぱそうだ。清四郎と一緒みたいだな。」
偶然にも映画館へと吸い込まれていく二人。
きっと悠理が誘ったのだろう。
俺達が観たハチャメチャなアクション映画のポスターを指差し、はしゃいでいる。
「魅録は………イヤじゃありませんの?」
「ん?あいつらのことか?」
こくんと頷く野梨子は、さっきと違い苦しげだ。
そうだよな━━━
やっこさんはもう、あんたのヒーローから卒業しちまったんだよな。
「俺は………どちらかといえば心配してるぜ?」
「心配?」
「いつまでもあいつらが、仲の良いカップルで居てくれるのか……ってね。元々、性格も趣味も生き方も合わない二人だろ?喧嘩も派手だろうし、この先どうなることやら。」
「そ、そんなことありませんわ!きっと………いつまでも仲良く………」
しかし野梨子は何か気付いたように、ハタ、と動きを止めた。
華奢で白い手が口を覆う。
「魅録………わたくし……寂しかったんですの。」
「あぁ。」
「もう………あの二人の中に入り込む事は出来ないんだって……そう思って。…………本当は悠理と清四郎に挟まれたまま、二人の特別な人間でありたかった。ずっと…………。」
「分かってるさ。あんたらの付き合いは長い上、特別だからな。」
ホロリ
まるで真珠が零れ落ちるかのように、野梨子は涙を流す。
思わず手を伸ばし、拭いたくなる衝動を堪え、俺は煙草を手にした。
「時間がかかってもいい。祝福してやれよ………心からさ。」
「………………ええ。」
躊躇いがちに微笑む彼女は花の顏。
胸の中の葛藤が消え去るまで、きっとあと少し。
それまでの間、俺は誰よりも近くで見守り続けようと思う。