野梨子編

パキッ
弾けるような音と共に、瑞々しい蓮の茎が折れる。

「野梨子さん、一体どうなさったの?心ここにあらず、ね。」

「━━━━ごめんなさい。」

華道は五歳から嗜んでいる。
母に連れられ、池之坊の高い敷居を跨いだ。
今はそこそこの腕前だが、定期的な練習は欠かさない。
花は、茶室でその季節を最も端的に表現出来るものだから。
今日は週末に開かれる茶会での花を練習がてらたてていたのだが、やはり心は正直で・・・・とてもじゃないが使えるような仕上がりにはならなかった。

「今日は帰ります。また明日…………」

そう言って立ち上がると、次期家元でもある彼女の息子が慌てて後をついてきた。
彼は若くして師範の免状を持っている。
その繊細な生け方は、今時の二枚目な姿からは想像も出来ない。

「送りますよ。」

「結構ですわ。」

「もうじき日が落ちるでしょう?いくら近くても一人歩きは危ない。」

そんな過保護な発言を聞くと、どうしても清四郎を思い出す。
今はもう、昔のように隣を歩いてはくれないけれど。

悠理との交際を明言したその日から、私の胸の中で刺を持つ何かが転がり始めた。
決して祝福していないわけではない。
母様にも父様にも伝え、幼馴染みの恋を喜び、それを分かち合った。

あれほど恋愛に興味がなかった清四郎。
驚くべき事に、今は悠理にべったりだ。
朝も剣菱の車が当然のように迎えに来て、有り難いことに私も連れ立ってくれる。
二人はシートに並びイチャイチャ。
正直、目を覆いたくなる光景だが、彼らのそんな姿にホッとする自分も居た。

私の視線に気付き照れる悠理は、当然彼を邪険に扱うが清四郎は挫けない。
悠理の手を握り、愛しいとばかりに見つめるのだ。

少々不気味な変化だが、これが現実。
私が知る理知的な幼馴染みは、遠く彼方へ行ってしまったのか?
気持ちが沈んでしまう。
彼女に触れているその手は、今まで誰よりも近くに存在したし、彼の優しさを独り占めしているのは自分だけだと信じていた。

━━━━幼馴染み特権とでも言うのかしら。

それに甘え、過ごしてきた十九年。
もう離れる時期がやって来たということなのね。
この先彼が守りたい人は、私ではないのだから。


「何か悩みごとでも?」

夕時雨は暑さを和らげる。
赤い和傘を差し出され、私は仕方なくその下に潜り込んだ。

「………悩みではございませんわ。ただ……どことなく不完全燃焼なだけ。」

彼は二十七にもなろうというのに、子供のような純粋さで見つめて来る。
それはよく知る‘誰か’にとても似ていた。

「不完全燃焼………もしかして………恋、ですか?」

「いいえ!」

いいえ、違う。
私は清四郎に恋をしていたわけではない。
これはただの固執。
誰よりも頼りにしていた優しい幼馴染みへの未練だ。

「す、済みません。差し出がましいことを……」

「……こちらこそごめんなさい。」

澱んだ空と湿った道が今の心情には相応しい。
きっと隣を歩くこの人も、同じような気分なのだろう。
彼の想いに気付いていないわけではないけれど、今の私に応える事は出来ない。
今だけ?
いえ、これからも……………

家に辿り着くと、彼は母様に礼儀正しく挨拶をし、小降りになった空の下、帰っていった。
とても真面目でよく出来た青年。
当然母の心証も良い。

「野梨子さん、ちょうど良かった。おばさまから葛餅をたくさん頂いたの。お隣へ持っていって下さる?」

「はい、母様。」

小さな風呂敷包みを持って出向くと、勝手口の扉がほんの少し開いていた。
何百回とくぐったそこを、慣れた足取りで進む。
アプローチには夾竹桃が白い花を咲かせ、ほんのり、おしろいのような香りを運んで来る。

けれど、私はあまり好きになれない花だった。
確か花言葉は………「油断大敵」「注意」。
毒性の強い木だからなのか、ロマンチックとは縁遠い言葉だ。

あと数歩で裏玄関に辿り着く……そんな時、囁くような声が届く。
それは明らかに幼馴染みのもので、私は自然と歩みを止めた。

「夕飯を食べていかないんですか?」

「ん。今日は母ちゃんがフランスから帰ってくるから……」

「でも……今夜はすき焼きですよ?おふくろさんが良い肉を取り寄せたようで………。」

「え?肉?」

「是非ともおまえに食べて欲しいんですが。」

「あ~…………どうしよ。」

「それに……」

庭木の隙間からそっと覗けば、清四郎が悠理の頬に手を添え、顔を近付いていく姿が見えた。

「キスのレッスンがまだ終わってませんよね?」

「!!」

胸が突如としてざわつき始める。

甘い声。
甘い視線。
甘い誘惑。

触れるか触れないかの距離まで詰めながら、それでも唇を与えない清四郎。
悠理の頬に朱が走り、一気に女性らしい表情へと変化した。
ほんの数秒見つめ合った後、悠理は苦しそうに顔を背ける。

「わ、わぁったよ。食って帰るってば!」

「そう、それでいいんです。」

添えられていた手はいつものように彼女の柔らかい髪を搔き混ぜ、先ほどまでの甘い雰囲気はゆるりと解けた。

愛しい仕草だった。
目にしたことがないほど優しい視線だった。

ああ、 清四郎はあんな風に悠理を愛しているのね。

男としての幼馴染みはあまりにも官能的で、自然と頬が火照り出す。
初めて見る清四郎。 まだまだたくさんの顔が隠されているのだろう。

二人が裏玄関へと消えた後、私は何度も深呼吸をし、後に続いた。
出てきたお手伝いさんに箱を渡し、アプローチを戻る。
恐らく、私は邪魔でしか無い。
以前、悠理の為に作った押し寿司も、不快な要素に変換されてしまったから。

女らしさと無縁だった彼女が、ようやく少しずつその蕾をほころばせていく。

ねえ、悠理。
嫉妬される立場は貴女のはずなのに。

あの日。
彼女の後を追っていった清四郎が、廊下の片隅で悠理を抱き締めていた。
広い背中に隠れた彼女はいつになく大人しくて、それはキスをされているからだと気付いた時、頭にカッと血が上った。

清四郎、悠理。
二人の大切な幼馴染み。
どんどんと私から離れていく。
それは疎外感にも似た思いだった。

人の気配に敏いはずの清四郎が私に気付かない。
彼女に夢中なのだから仕方ないことだけど。

私よりも大切な人になった悠理が羨ましくて仕方なかった。
恋ではないのに。
恋であるはずがないのに。
どうしても半身が切り取られたような痛みが走る。

「あまり………下らない事を言わないでください。」

「僕は自分の選択に絶対の自信を持っている。おまえを好きになったことも、決して後悔などしませんよ。」

「好きです。心から……おまえが欲しいんです。おまえだけが。」

情熱的な台詞が私の胸を打ち付ける。
まるで自分が告げられたように心臓が跳ね、鋭い痛みすら覚えた。

そしてまたしても優しいキスが交わされる。
誰も足を踏み入れてはいけない空間の中で。
二人の隙間を埋めるよう滾々と愛が溢れて出す。

足音を忍ばせ、私は座敷に戻った。
愛想笑いを浮かべ口にした押し寿司は、この先、もう二度と作らないだろう。

そんな狭量な自分をちょっとだけ煩わしく思いながら、私は幼馴染み達の面影を振り払った。