その後の二人

信州での事件は、十日も経たぬ内に記憶から薄れていった。

あの後、別荘へと戻り、事件の概要を語り聞かせた四人。
可憐と美童は「行かなくて良かった!」と口を揃え喜んだ。


悠理は雨に濡れた所為ですっかり風邪を引き込み、せっかくの旅行気分もたちまち暗転。
とはいえ、広い庭で管理人が持ち込んだ川魚を焼いたり、小さな花火を打ち上げたりと、夏先取りの楽しみ方で気分を盛り上げた。

二人の関係が清四郎の口から伝えられたのは、戻った直後の学園で。

「必ず大切にします。」

それを聞いた彼らはそれぞれの反応を示した。
目を瞠る可憐。
すぐに感嘆の声をあげる。
口笛を吹く美童。
「やっぱりねぇ」と呟く。
ガシガシと頭を掻く魅録。
感じていた違和感が腑に落ちたことでホッとしたのだろう。
「なんだよ。水くせぇな。」とぼやいて見せた。
微笑みを湛えた野梨子は穏やかに受け止め、悠理はその表情にホッとする。

清四郎の顔には以前とは違う、明らかな『想い』が表れていて、恐らくは悠理との行く末も見据えているに違いない。
それは彼らにとっても喜ばしい話。
軸となる二人が結ばれたなら、有閑倶楽部も未来永劫、安泰だ。

そしてお決まりの日常が戻ってくる。
夏休みはもうすぐそこ。
長きバカンスをどのように楽しもうか、皆の意識はその一点にのみ集中した。
遊ぶ計画に関しては俄然、力が入る。
魅録はスケジュール調整に余念がなく、可憐は旅行雑誌を買い漁る。
美童はデートの忙しさに嘆きながらも、六人で楽しむことを優先した。
いかんせん、高校最後の夏休み。
最高の思い出を作りたかった。

そんな皆の意思を受けて、悠理は早くも夏休みの宿題に手を付け始める。
無論、清四郎監視の下で。
いつもなら新学期が始まる直前でも、のんびり構えるナマケモノ。
だが今回は本気でその心意気を見せようとしていた。

時は夕刻。
まだまだ蒸し暑さ残る菊正宗邸。
今日も空調が程良く効いた座敷では、ウンウンと唸る少女と家庭教師の姿があった。

「そこ、間違ってますよ。」

「え?どこ?」

「………ほら、方程式にきちんと当て嵌めてみなさい。」

「どの方程式だよ?」

相変わらずのやり取りだが、清四郎の目はいつもより優しい。
彼女の背後から手元を覗き込むと、集中する悠理の耳にその唇で優しく触れた。

「ひゃん!」

思った以上の反応。
思わずほくそ笑んでしまう。
どうやら感度は抜群のようだ。
期待していた通り、悠理の性感帯はそこかしこに散らばっている。
今すぐにでもそれら全てを暴いていきたい気分になったが、今は流石に不味いだろう。
自らやる気を削ぐような事をしながら、清四郎は見事自制心を発動させた。

「もお~、何すんだよ!」

「ちょっとした悪戯を、ね。」

そっと離れれば、香りが遠退く。
柑橘系の爽やかなシャンプー。
いつまでも嗅いでいたいけれど………

「ほら、さっき教えた方程式ですよ。自分でノートに書いたでしょう?」

「あ、これ?」

「そう。数値を当て嵌めてみなさい。」

ぶつぶつと呪文を唱えながらも、ようやく答えに辿り着き、悠理はパッと表情を明るくした。
その単純さもまた清四郎の心を和らげる。

自分とは真逆の素直さ。

幼い頃から、彼女は自分を無駄に飾り立てることをしなかった。
誰にどう見られようとも、剣菱悠理はこの世に一人。
唯我独尊的なパワーは見る者によっては眩しすぎて、畏怖すら感じるかもしれない。
庶民的な感覚とかけ離れた生活を送りながら、それでも些細な事を気にする悠理。
そんなアンバランスな存在を、清四郎は心から欲しいと思った。
悠理の全てを自分のものにしてしまいたい、と。
誰よりも近くで見ていたいと願ったのだ。

一度感じた愛しさは日を追うごとに膨らむばかり。

小さな声で「好き」と告げられたあの日。
身体中を駆け巡る歓喜をどう押し殺そうか、清四郎は悩んだ。
濡れた浴衣を通して伝わる微かな体温。
その薄い躰は、欲情をそそるに充分な働きをしてくれる。
押さえつけていた雄を目覚めさせるに充分な。

細く白い‘うなじ’に吸い付いて、彼女の柔らかな産毛を舌先で感じたい。
その時飲み込んだ唾液は、喉を焼くように熱かった。

「はぁ~、やっと数学が終わった~!」

「よく頑張りましたね。」

時刻は夕飯時に差し掛かっていた。

「あー、腹減ったよぉ~。」

「何か食べに出掛けますか?それともうちで…………」

「行く行く!焼き肉行きたい!」

「分かりましたよ。」

そう立ち上がったところで、内線電話が鳴り響く。
どうやらお隣から、手製の押し寿司が届いたらしい。

「野梨子?」

「ええ。どうします?」

「く………食うよ。当たり前じゃん!」

‘野梨子’と聞いてたじろぐ自分は、やはり何かしらの蟠(わだかま)りがあるのかもしれない。
悠理は自分の心を見つめ、落ち込んだ。
皆が揃う座敷に行けば、清四郎の母親と楽しげに歓談する野梨子の姿。
やはりもやっとする。

「悠理、宿題は捗ってますの?」

いつもの調子で尋ねられ、「うん。」と答える事しか出来ない。
座卓には見た目も美しいたくさんの押し寿司が、四つのお重に入り並んでいた。

「ふふ。頑張っていると聞いて、わたくしも腕を奮いましたわ。さ、召し上がって。」

「あんがと。腹減ってたんだ!」

「これはこれは。さすがは野梨子ですな。」

感心する恋人の誉め言葉は心からのもの。
悠理の胸が不快な方向へざわりと蠢く。

━━━━あたい、こんなもん作れないしなぁ。やっぱ野梨子は女子力?ってやつが高いや。

ドカッと腰を下ろせば、目の前にすかさず小皿と箸が差し出される。
機転が利く野梨子に感心していると、

「穴子、鯖、鮭、海老……あ、これは清四郎の好きな鱧ですわ。少し甘めに煮付けましたの。」

「ほう。山椒が乗っていて美味しそうですね。」

二人の夫婦めいた会話に、更なるもやもや感が広がった。

━━━━━野梨子は清四郎が好きなのかな?あん時の言葉は本音、だよね。

仲の良さなんて、初めて会ったあの日から嫌というほど知っている。
野梨子ほど清四郎を理解している人間はいないし、清四郎だってどんくさい幼馴染みを誰よりも心配しているんだ。

いやが上にも広がる疎外感。
悠理の喉を、旨いはずの押し寿司が味気なく過ぎて行く。

「悠理?」

異変に気付いたのは清四郎だった。

「あたい……やっぱ、焼き肉食いたいから…………帰る。」

「え?」

立ち上がった悠理を見上げる野梨子は、意味も分からず戸惑うばかり。

「野梨子ごめんな。あとは皆で食って!」

廊下へ飛び出した悠理の後を、清四郎は追った。
玄関へ辿り着く前に、その手を引き寄せ壁へと押し付ける。
彼にしては珍しい、乱暴な振る舞いだ。

「………どうしたんです?」

そこは台所に近い場所で、清四郎はお手伝いさんに聞こえないよう、小声で詰め寄った。

「…………焼き肉が食いたくなっただけだよ。」

悠理は嘘を吐く。

「僕の目は誤魔化せませんよ?一体何が気に障ったんだ?」

汚れひとつ見当たらぬ長い廊下。
人目の届かない場所まで追いやられ、悠理はとうとう逃げ道を封じられてしまった。
いつだって彼の手から逃げおおせた試しはない。
悠理は覚悟を決め口を開いた。

「…………ほんとに、あたいでいいのかよ。」

らしくない卑屈さに自分でも嫌気がさす。

「女らしさ」など目指したことはない。
今までは。
だけど、もし清四郎が少しでもそれを望んでいたらどうしよう。

ぞわぞわとした不安が押し寄せてくる。
清四郎の言葉を信じ、受け入れたはずなのに。
今は、大和撫子の存在に全てが脅かされている。

「何を……言ってるんです?」

「野梨子じゃなくていいのか?」

尋ねたくないその言葉を口にすると、清四郎は全てを悟ったように頷いた。

「………………なるほど。」

不安げに揺れる瞳。
潜んでいた弱さが露わとなる。
嫉妬や猜疑心、劣等意識………
だがそんなもの、ちっとも彼女に似合わない。

「野梨子が良いと思うなら、とっくに付き合っていますよ。だけど僕はおまえを好きになった。他の誰もが持ち得ない、悠理自身の魅力にとり憑かれたんですよ。言ったでしょう?おまえという‘生き物’に魅せられたのだと。」

そう断言する清四郎に悠理は戸惑う。

「んなの……納得できないよ。あたいなんて馬鹿だし、女っぽくもないし、胸もないし、料理だってちっとも出来ないし………う……ぐっ!」

言葉の続きを奪われ、悠理の目が見開く。
清四郎は容赦しなかった。
壁に力強く押し付け、呼吸をさせぬほどの口付けを与える。
そして驚愕する悠理を腕に抱き込むと、抵抗を奪うため太股を強引に開き、その隙間へと自らの脚を差し入れた。

密着する二つの体。

いくら廊下の片隅とはいえ、誰に見留められるかも分からない場所。
しかし清四郎は強固な力で悠理を抱きしめていた。

━━━━敵わない。

悠理はあまりの息苦しさに眩暈を覚え、身を捩る。

「んぅ………っ!」

何せこれが初めてのキス。
捩じ伏せる力は想像を遥かに越えていた。
もがこうとすれば、よりきつく締め上げられ、鼓動がビクンと跳ねる。

伸びてきた舌がそっと淡色の唇を舐め啜り、淫らな音が響く。
とてもじゃないが清四郎の行為とは思えない。

━━━うそ、ウソ、嘘━━━

ぬるりとした感触が決して気持ち悪くないと感じたのは、随分後のこと。
探り入れられた舌が、どんどんと熱を帯びてゆく。

思うがままに食まれ、舐められ、奪われ、意識が白み始めた頃、ようやく唇は開放された。
それはひどく濡れていて、空気が触れるだけでもピリピリとした刺激を感じる。

ドクンドクン

現実味を帯びないまま砕け落ちる悠理の腰。
だが、清四郎の腕はしっかりとそれを抱き留めた。

「あまり………下らない事を言わないでください。」

「ふぇ?」

真っ赤な頬で腑の抜けた返事を口にする。
熱い目頭には涙すら浮かんでいた。

「僕は自分の選択に絶対の自信を持っている。おまえを好きになったことも、決して後悔などしませんよ。」

「……………せぇしろ。」

「好きです。心から……おまえが欲しいんです。おまえだけが。」

それはいつになく優しい告白だった。
感情が滲み出たような響き。
清四郎の瞳は深い情熱に彩られていたけれど、悠理の昂った神経はゆっくりとした速度で落ち着きを取り戻す。

「……………ん。」

「ようやくわかってくれましたか?」

「うん………ごめん。変なこと言っちゃったな。」

「こちらこそすみません。ちょっと………いや、かなり強引でしたね。」

それが‘先程のキス’を指していると気付き、悠理は再び、ボッと顔を染めた。

「したかったんです。ずっと前から…………」

「あ………う、うん。」

「………もう一度、しても?」

「え?」

言うと同時に触れてくる唇。
今度は慈しむような優しいキスがそっと落ちてきた。

「こんな場所じゃあ………ムードもへったくれもありませんね。」

「おまえでもそんなこと気にするんだ?」

「そりゃ、一応。」

年相応の照れたような呟きに、悠理は嬉しくなってしまう。

「なら、初エッチはよろしくな。」

「え?」

「宿題仕上げたら…………バカンス、だろ?」

「!!!」

その後、悠理は奇跡的に当初の目標をクリアした。
清四郎の熱意ある指導が功を奏したのだろう。(色んな意味で)

ようやく夏本番を迎えた六人は、百合子が持つパラオの別荘へと向かい、美しき島々を巡りながらアクティブに楽しんだ。

十日間はあっという間に過ぎて行く。
充分に満喫した彼らを見送った清四郎達。

ここからは二人きりの甘い時間だ──

小さな島の焼けた砂浜に、泡立つ白い波が押し寄せる。
真っ赤な水着とハイビスカスのパレオを身に着けた悠理は、清四郎の腕に捕らえられたまま。

「随分と焼けましたね。」

そう指摘する彼もまた、いつになく小麦肌だ。

「毎日泳いでたもん。」

「これからは………ベッドの中で泳いでくださいね。」

「や…やらしい言い方するなぁ。」

口を尖らせれば、すかさずキス。

「言葉だけじゃありませんよ。………きっとおまえが想像出来ないほど………僕はやらしい。」

「!!?」

火照る心と体を寄り添わせながら、二人きりのバカンスは今ようやく始まりを迎えた。