しとしとしと
空から零れる涙は悠理を濡らす。
細い肩に掛けられた薄い浴衣がじっとりとその重さを増してゆき、痛いほどの冷たさに肌が震えた。
遠くより聴こえてくるは女の声。
男に取りすがる絶望の悲鳴。
━━━━貴方は………私の、わたしだけのもの!!誰にも渡さない!
その瞬間、世界は暗転する。
光は闇へ。
涙は血へと━━━
彼女は泣き咽ぶ。
浴びた返り血では正気になど戻れない。
彼の美しく歪んだ顔に死の接吻を━━━
そうして闇は深淵を目指し、より一層その色を濃くしていったのだ。
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「大叔母の具合が相当悪いようですの。」
その日、野梨子は不安そうに清四郎を窺った。
部室には可憐を除く全員が揃っていたが、野梨子の話に耳を傾けたのは清四郎だけだった。
美童は付き合い始めたばかりの恋人にメールを打ち続けているし、魅録は無線機の修理に没頭している。
悠理はもちろん、おやつに夢中だ。
本日用意されたのはカラフルなエクレア。
信者からの貴重な差し入れである。
「大叔母?信州で呉服屋を営んでいると言う?」
「ええ。幼い頃はよく遊びに行ったのだけど、最近はご無沙汰で……。今は良くない病で臥せっているそうですわ。」
「………ほう。」
清四郎は読みかけていた本をパタンと閉じ、彼女へと向き直る。
「では見舞いへ?」
野梨子はこくんと頷いた。
「明日、母様と一緒に出掛ける予定でしたのに、急用が出来たみたいで……。だから清四郎にお付き合いいただけたら、と思いましたの。」
「別に構いませんが………場所が信州ともなると泊まりがけですな。」
「夏休み前ですもの。観光客はさほど多くありませんでしょ?だから近隣のお宿でお部屋を二つ用意してもらえれば良いかと思って。」
それを耳にした悠理がようやく食べる手を止め、口を挟む。
口の周りはカスタードクリーム付き。
だが、女性としての配慮に欠ける彼女は頓着しない。
「信州のどこ?なんなら、父ちゃんが新しく買った別荘に皆で行かないか?」
明日からの三連休をどう刺激的に過ごそうかと考えあぐねていた悠理。ここぞとばかりに提案した。
「信州は●●市ですわ。」
「へぇ!うちの別荘から車で30分ほどじゃん!魅録、美童、おまえらも行くだろ?」
「あぁ、暇だからな。長雨でツーリングもぽしゃっちまったしよ。」
「僕も行く!彼女がいきなりデートをキャンセルしてきたんだ。ほんと、これだからキャリアウーマンって困るよねぇ。」
「よし、決まりだ!あとは可憐だな。」
一足早く帰った可憐はドイツの郷土料理を学ぶため教室に向かっているはず。
悠理はすかさず電話をかけた。
「そんなの、行くに決まってるじゃない!」
二つ返事でOK。
「良かった………。一人では心細かったんですの。」
仲間達の気軽さに苦笑しつつも、野梨子はホッと息を吐く。
「何か問題でも?」
「あ……ええ。大叔母の家は……その……昔から少々気味が悪くて。」
歯切れの悪い野梨子の気持ちを汲んで、清四郎は「そうですか」とその場を濁したが、心中、「これまた何かトラブルが起こりそうですな。」と諦めにも似た溜め息を吐いた。
横目でチラリ、悠理を見る。
呑気な姫は再び、残りのエクレアを頬張り始めている。
禍は直ぐそこにまでやって来ていた。
「やだ!すっごく素敵じゃないの!」
信州の別荘………あまり良い思い出が無い土地で、可憐は嬉々として声をあげた。
田舎には少々浮いたように感じるほど本格的な白亜の洋館。
隣接した温室と広い芝生の庭。
そして近くには馬場があって、可愛いポニーが三頭飼われている。
「管理人が隣の家にいるから何でも頼めばいいよ。それよりさ、何か飯食いにいこう!腹減っちゃった。」
魅録の車の中で弁当を三つ平らげた人間の台詞とは思えないが、これも今さらのこと。
「そうですわねぇ。確か大叔母の家の近くに美味しいお蕎麦屋さんがあったはずですけど、今も営業されていますかしら?」
その言葉に悠理は二つ返事で飛び付く。
「やたっ!そこにしよ!魅録、さっさと調べて予約してくれよ!」
「へーへー。野梨子、店の名前教えてくれ。」
「ねぇ。あたしそんなにお腹空いてないから此処に残るわ。あんたたちちだけで行ってきて?」
「僕も長時間の移動で腰が痛いよ。車は勘弁!」
「んじゃ四人で行くとするか。」
脱落した可憐と美童を置いて、彼らは再び車に乗り込んだ。
野梨子は大叔母への土産をしっかりと抱え、少々不安げな様子。
それを見た清四郎がポンポンと背中を叩き、励ます。
「大丈夫。何かあったら悠理が感知してくれますよ。」
「ふふ。そんなことを期待したら怒られますわよ。」
「なーにー?何か言ったー?」
かくして四人は別荘から少し離れた町へと移動することになった。
そこで待ち受ける恐怖体験を予期していたら、悠理は決して同行しなかったはずだ。
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さすがは蕎麦処。
満足のゆく味だった。
四人前の天ぷらは、ほとんど悠理の胃の中へ。
見ているだけで胸焼けするその光景に、三人はげんなり。
名物、蕎麦茶プリンの登場に少しは気が紛れたものの、またしても五人前をペロリと完食する化け物じみた胃袋は、もはや宇宙空間へ繋がっているとしか考えられなかった。
厨房の奥から蕎麦屋の店主が現れたのは、客足が少し途切れた頃。
恰幅のよい亭主の側に、細身の小綺麗な女性が寄り添っている。
年は少し離れて見えるが、どうやら夫婦らしい。
ふとした表情がそっくりだった。
「やぁ、どうもどうも。若い人のお口に合いましたかな?」
気さくに声をかけられ、皆は大きく頷いた。
「御馳走様でした。さすがはこの辺りのお蕎麦ですね。味が深い。」
「香りがすっごく良かったです。」
「この蕎麦茶プリンもほんのり甘くて、とても美味しいですわ。」
「おっちゃん、プリンおかわり!」
悠理が六個目のそれを注文した時、
店主はまるで幽霊を見たかのように、目を見開いた。
「…………伊織?」
「いおり?」
「いや………そんなはずはないな。彼はもう鬼籍の人だ。」
どうやら悠理に似た誰かを思い出したのだろう。
隣にいる妻へと、小声で何かを囁いた。
「まぁ、ほんと………伊織さんにそっくりだわ。こんなにも瓜二つだなんて!夢みたい。」
興味をそそられた野梨子は、丁寧に窺う。
「その‘伊織さん’て方、そんなにも彼女に似ていますの?」
「あ……あぁ、失礼しました。男に似ているなんて酷い言われようですね。申し訳ない。」
「んなもん慣れっこだい。」
言いながらも唇を尖らせる。
見た目はともかく、戸籍上は女。
ボーイッシュな彼女は自分を『乙女』と言い切るほど、その自覚があった。
普段の行動こそ伴ってはいないが。
「もうかれこれ二十年になるか。なぁ、おまえ。」
「あら、いやだ。今年で確か25年は経ちますよ。」
「おや、そんなにも……か。」
仲良さげな夫婦でも、時の流れの感じ方は異なるらしい。
「‘伊織さん’と言う方は、そんなにも有名だったんですか?」
蕎麦湯を啜る清四郎が手を止めて尋ねると、妻はポッと頬を染め、「まぁ……ねぇ?」と旦那を窺いながら答えた。
「そりゃあんた、伊織は相当な男振りで、日頃から女達がキャアキャア黄色い声あげてまとわりついていたさ。若くして死んじまったけどなぁ。こいつも今でこそ俺の女房だが、当時は奴にお熱を上げてたんだぜ?」
「あんた!そんな話、ここでしなくても。」
「もう二十五年も経つんだ。……………すっかり時効さ。」
深く掘り下げては流石に下世話かと、一旦興味を矛を引っ込めた清四郎だったが、そんなもの意にも介さない人物が一人。
悠理は無遠慮な質問を投げ掛ける。
「まさか………殺されてたりして?」
「悠理!」
「はは。お嬢さんのおっしゃる通り。…………所謂、‘痴情の縺れ’というやつですな。伊織は女を本気にさせるタイプの男でしたから。」
ウゲッ………と顔を歪めた悠理を、野梨子が今度こそ嗜める。
過去の経験上、この手の話を聞いて無事に帰れた試しはなかった。
「まあ、もう昔の話ですよ。ほほほ」
女将がそう取り繕ったものの、四人の間に微妙な空気が流れる。
「ちなみにその伊織さんという方は、ご近所の?」
「あぁ、この町の名士の息子でしたな。小さい頃は身体が弱くて、家のもんが甘やかしたおかげで我儘に育ち、あまり褒められた生活はしとらんかったようです。」
━━━━なるほど。
金と権力、そして美貌。
黙っていても女はついてくるということか。
三人は悠理の顔を眺め、そして溜め息を吐いた。
「おまえも気を付けろよ。」
魅録の呟きに首を傾げる悠理。
その単純無垢な表情に、一同はより一層不安を募らせるのであった。
大叔母の見舞いを済ませ、別荘に帰ろうとしたその時、ハプニングは起こった。
魅録の運転してきた車が突如として動かなくなったのだ。
「なんだぁ?」
整備士免許こそないものの、プロ並みに詳しい彼はあらゆる手を使い調べる。
「おっかしいな。この間車検に出したばっかだぞ?」
「トラブルですか?」
「エンジンがウンともスンとも言わねぇ。」
「もうそろそろ暗くなってきましたわ。この辺りにカーディーラーかレンタカー会社はありますかしら?」
「タクシー呼ぶ?」
「うーん………どっちみち、明日までに直さなきゃ駄目だろうよ。でないとどこにも行けねぇぜ?」
四人が険しい顔をしていると、大叔母の息子がそっと声をかけてきた。
もう60過ぎだが、物腰柔らかな白髪の紳士だった。
「隣に広めの車庫がありますから、そこで確認なさっては?工具なんかも揃ってますよ。どうしても直らないようなら私が別荘まで送って差し上げましょう。」
「すみません。お言葉に甘えます。」
魅録が車庫に閉じ籠った後、三人は再び座敷で寛ぐことになった。
病院嫌いな大叔母は自宅療養を選び、今は自室ですっかり眠っている。
野梨子が声をかけてもまともな反応を見せず、目も虚ろ。
どうやら末期の癌らしい。
痛み止めの薬は深い睡眠を促した。
「さて、暇になりましたな。」
清四郎は床の間に飾られた掛け軸を見つめながら、わかりきった現実を呟いた。
「なんか雨降りそうだじょ?」
「可憐には連絡しておきましたわ。‘夕食’を作って待ってると言っていましたけど、何時になるかわからないので、先に召し上がってくださいと………」
言い終わる前に、飛び付いた悠理が口を挟む。
「飯、何!?」
「…………お鍋ですわ。」
「やったー!!鍋、鍋!」
地元で採れるたくさんの野菜や地鶏、そして茸が、管理人の手で届けられたらしい。
可憐は当然腕を奮った。
単純にはしゃぐ悠理の背後で、ざぁーーと激しい雨音が聞こえ始める。
「どうやら降り始めましたな。」
「この時期、雨が多いとは聞いていましたけど、いきなりですわね。」
玉露を啜る野梨子と清四郎。
悠理は不安そうに縁側の空を見上げた。
「雷鳴りそ………やだなぁ。」
「おや、お化けだけじゃなく雷も苦手なんですか?」
「あのなぁ。おまえだって覚えてんだろ?お化け可憐の時、でっかいのに打たれたじゃん。」
「ええ。鬼子母神が護ってくれましたけどね。」
今でこそ穏やかに話せる事件だが、あの騒動は悠理のトラウマを確実に増やしていた。
ゴロゴロゴロ………
地響きのような音に悠理は飛び上がる。
直ぐ様清四郎の陰に隠れる辺り、どうやら幽霊と同じ括りらしい。
「家の中で落ちることはありませんよ。」
苦笑しながらも優しく宥めていると、
ガラガラガラ、ピシャーン
甲高い音と共に、整えられた庭先の‘松’が一瞬で真っ二つに裂けた。
「ヒイィィィ!!」
「まあ!大変!」
立ち上がった野梨子は小走りで家の者を呼びに向かう。
残された二人は、同時に同じ感想を抱いていた。
━━━━━何か見えない力に、足止めされているようだ。
清四郎の腕にしがみついたまま、悠理は震える声を絞り出す。
「……………せぇしろ………なんか寒い。」
時は夏。
いくら長野とはいえ、汗ばむ気温だ。
「…………また、ですか。」
呉服屋で財を成し、豪勢に建てられた屋敷は築150年。
風情ある佇まいだが、裏を返せばそれだけ数多くの歴史が染み付いているということだ。
「野梨子すら不穏に感じるほど、怪しげな家らしいですからね。おまえのアンテナが立ってもおかしくはない。」
「寒い………寒いよぉ………」
本気で震え始めた悠理を、清四郎は抱き寄せた。
それは無意識のまま掻き立てられた保護欲。
悠理もまた、その腕の力強さに少しだけ安堵の息を吐き出す。
「さて、‘鬼が出るか蛇が出るか’。」
野梨子が叔父を連れ戻った時、
悠理の顔面は蒼白していた。
しかし驚いた理由は、それではない。
清四郎の腕の中で全ての力を抜き、もたれ掛かっているその姿こそが、彼女の目を瞠らせた。
そしてまた、幼馴染みの見慣れぬ表情にも。
彼はまるで恋人を慈しむような優しさで、悠理の肩をよしよしと撫でる。
━━━━この二人………いつの間にこんな雰囲気を纏うようになったのかしら。
野梨子の胸にチリリと痛みが走る。
誰よりも近い距離に居ると自負していた彼女ですら、今の二人には割り込めない空気感が漂っていた。
━━━━そこは………わたくしだけの場所ですわ。悠理。
仄昏い感情が沸々とこみ上げる。
それは誰がみても明らかな嫉妬であったが、野梨子の意思に反し制御は出来ない。
彼女の背後で蠢く影。
この世から離れたはずの霊魂は野梨子の意識を密やかに乗っとると、混沌たる恐怖へと導き始めた。
無惨にもパックリと割れた松。
雨はより一層、強くなってゆく。