「んじゃ、頼んだぞ。」
「はい。気をつけて行くんですよ。」
剣菱邸の朝。
万作氏の溺愛するアケミとサユリ(ニワトリ)の鳴き声で始まる、いつもの朝だ。
清四郎はベビーベッドの中でスヤスヤと眠る我が子を見つめ、ふっと頬を緩めた。
生後二ヶ月経ったばかりだが、その愛らしさは世界一だと豪語出来る。
“どの親も同じよ”と可憐は言うが、それについては完全否定することにしている。
どうみても、他とどう見比べても、自分の娘が一番可愛い。
白磁の肌。
薔薇色の頬。
うっすらと開いた目は、時に宝石のように輝く。
赤子にしては髪の量も多く、艶めいた黒は清四郎の血を引く確固たる証でもあった。
ギュッと握りしめられた手にどれほどの可能性が秘められているのか。
清四郎は胸にこみ上げる暖かい熱を感じた。
この子の為ならどんなことでも厭わない。
たとえ火の中水の中。
僅かな苦労すら与えたくはない。
どんな困難も自分の手で取り除いてみせる。
それは誰もが驚く大きな変化だった。
清四郎自身、これほどまでとは思いも寄らなかっただろう。
まだ口もきけぬ愛娘への愛は深まるばかり。
片時も離れたくはなかった。
そんな子煩悩な彼の日常は穏やかで、幸福に満ちたものとなっていた。
大学に通う傍ら、剣菱の仕事も陰ながら手伝う。
その他にも海外の大学と交流を結び、時々小難しい論文を提出したりもしていた。
剣菱によるバックアップは相当なもので、どんな我が儘も聞き入れてもらえる。
子育ては基本、悠理とメイドに任せていたが、結局は好奇心が勝り、今では完璧なお世話で娘をあやすようになっていた。
娘の名は“紅理(あかり)”
───悠理が独断で名付けた。
産まれた時、恐ろしく赤かったからそう決めたんだそうな。
単純な理由だが、清四郎は不思議としっくりきた為、特に反対することなく受け入れた。
剣菱紅理───後々、世界を股にかけ活躍する大女優となるのだが、ここでは関係ないため省略する。
今日は土曜日。
悠理には母親業を休ませ、可憐と野梨子の元へ送り出した。
女子大生として復帰するまであと数ヶ月。
それまでの間、妻を比較的自由にさせたかったのだ。
妊娠が発覚したとき、清四郎の頭には喜びと戸惑い、そして焦りが駆け抜けた。
慎重にしたつもりでもやはり、興奮にとらわれ、悠理の胎内で漏れ出ていたのかもしれない。
清四郎は自分の生殖能力の高さに驚くしかなかったが、それはそれ。
もしかすると悠理にこそ、その理由があるのかもしれないが。
ともあれ、二人は小さな命を授かったのだ。
言うまでもなく、百合子の歓喜は凄まじかった。
普通の母ではあり得ないだろう、清四郎の手を握り、「最高よ、清四郎ちゃん!ありがとう!」と感謝の言葉を絶えず口にする。
そしてすぐさま、世界中のアトリエに電話をかけ、最高のベビ ードレス、ベビーベッドを注文し、自らもまたヨーロッパに出掛けると、何の相談もなく結婚式の準備を整えてきた。
夢のバチカン。
まさかこんなにも早く叶うとは。
取り残された万作もまた、日本中の神社仏閣を巡り、安産祈願を行う。
元来太っ腹な性格で、それは正月の賽銭を見ても解るだろう。
きっとそれぞれに、恐ろしいほどの寄付が積まれたに違いない。
当初、清四郎は悠理に大学部を休学することを勧めたが、入学したてでそれはさすがに問題だろうと考え直し、期限付きで通わせることにした。
もちろん彼自身、過保護だと分かっていた。
意図せぬ妊娠。
初めての出産。
そんな無理を強いてしまう悠理の為、出来得る限りの心配りを見せたかった。
退屈の虫を育てぬ為にも、大学は必要不可欠な存在だったのだ。
コンコン
軽やかなノックの音。
いつものメイドが顔を出す。
「若旦那様、奥様がお越しです。」
「ああ、はい。通してください。」
剣菱家女帝、百合子は初孫の顔を拝むため、毎朝こうして夫婦の寝室を訪れる。
「清四郎ちゃん、おはよう。」
「おはようございます。」
「今朝はどう?」
「まだ眠ってますね。朝方、授乳を済ませたので満腹なんでしょう。」
百合子の孫を見つめる目は、見たことがないほど優しく、聖母のような慈愛に満ちていた。
いつもは強引な彼女のこんな表情に、清四郎は何度も驚かされたが、それほど孫とは偉大な存在なのだろう。自身を振り返れば、納得も出来る。
「紅理は本当に可愛いわねぇ。」
「ええ。間違いなく世界一の美人になりますよ。」
親馬鹿、祖母馬鹿。
二人は毎日交わす同じ感想に大きく頷くと、人形の様に整った赤ちゃんを見つめ続ける。
「あぁ、幸せ。きっと、どんなドレスも似合うんでしょうね。………いいこと?清四郎ちゃん。悠理のような野生児に育てちゃだめよ?」
「………なかなか難題ですな。しかし心得ておきます。」
「あの子も折角美人に産んであげたのに………仕上がりがあれでしょう?清四郎ちゃんが貰ってくれなきゃ一生結婚できなかったはずよ。」
それに関しては首を縦に振れず、清四郎は曖昧な笑みを浮かべるに留めた。
百合子の言う通り、確かに悠理は男との縁が薄かっただろう。
しかし年頃になればあの美貌を見初め、近寄ってくる輩がいないとも限らない。
何せ悠理は剣菱万作の愛娘。金の卵を生む雌鳥なのだ。
他人より僅かばかし野心のある男なら、必ず目を付けるに違いない。
無論そんな事態を、指を咥えたまま見過ごす自分ではなかったが───
「で?二人目はいつ頃考えてるの?」
にっこりと笑う百合子に、清四郎は今度こそ唾を飲み込んだ。
「大学をきちんと卒業してから………考えます。」
「あら、そんなの気にしなくていいのに……。若い内にたくさん産んで、後々楽しく生きるのも悪くないわよ?」
いくらなんでも、悠理は孫製造機ではない。
大学も卒業させてやりたいし、何より青春はこれからなのだ。
清四郎はゆっくりと首を振り、その可能性を否定した。
百合子はそんな彼の意図を読みとったのか、一旦は口を噤む。
「まあ、いいわ。清四郎ちゃんが入り婿になってくれたから、私としてはこれ以上望まないつもりよ。」
誰よりも多くを望む百合子の言葉とは思えず、清四郎は思わず笑ってしまった。
そして彼女を安心させる最高の言葉を口にする。
「安心してください。必ずや剣菱の跡目を継ぐ男子をその手に抱かせて見せますよ。」
「あら頼もしいこと!期待していてよ。」
長男(豊作)の結婚する可能性が年々低くなる中、頼りになる男は清四郎一人。
優秀で見目麗しい跡取りを願う百合子にとって、その言葉は何よりの喜びだった。
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仕事の傍ら、紅理の世話をみて過ごしていると、自分の人生がとても豊かに感じる。
清四郎は悠理という存在の大きさを改めて感じていた。
後悔させない───
あの時の言葉はもちろん心からのもので、自分もまた、この先決して後悔しないだろうという確信の元放たれたものだった。
悠理を幸せにすることはつまり、清四郎自身も幸せであること。
その為の努力は何ら苦労と感じないだろう。
今、二人の絆を強く結ぶ小さな命を前に、より大きな責任を背負ったわけだが、清四郎はこの責任こそが自身の生きる道を指し示しているような気がしてならなかった。
───これこそ運命、ですかな。
幼稚舎のあの時。
幼い二人の道が重なり合うことは無かった。
しかし中等部では、糸を手繰り寄せるかのように近付き、ようやくかけがえのない友人となり得た。
多くの困難も、多くの痛みも、時には命がけの冒険も、共に共有し、乗り越えてきた。
だからこそ、眩しいほど真っ直ぐな彼女に、惹かれないわけがなかったのだ。
RRRRRR………
「はい。」
「せーしろ?紅理は?寝てる?」
「ええ、ぐっすりと。可憐達は?」
「うん!今買い物してる。でもって、それが終わったら帰るよ。」
「おや、何故です?ゆっくりしてこればいいのに。」
「ん~・・・なんだかさ。やっぱ、側にいたくなって。」
「紅理の?」
「“二人”の。」
「…………。」
言葉にならない幸せとは、きっとこういうことを言うのだろう。
彼女の柔らかな変化は、清四郎をどこまでも飛翔させる。
「僕も……側にいて欲しいです。」
「……………だろ?んじゃ……そゆことで!」
風のような終話の後、清四郎は内線電話に手を伸ばすと、“三人分”の軽食と飲み物を厨房にお願いした。
恐らくは腹を空かせて帰ってくるはず。
そして愛する二人の顔を見た瞬間、大輪のひまわりのような笑顔を見せるに決まっているのだ。