「津乃峰さん。」
「はい?」
振り返るとそこには、今年の春マネージャーとして迎えられたばかり───“上野 将吾”(うえの しょうご)の姿があった。
30歳。
まさしくこれからが男盛りだろう。
自信に満ちた表情と野心を秘めた目。
未だ独身の彼は何故か私を気に入ってくれていて、週末の夜は食事に誘われることも度々あった。
「焼き鳥とか好き?」
「え、まぁ──普通に好きですけど。」
「近くに旨い店が出来たんだ。この間専務に教えてもらったんだけどね。これから行かない?」
「でも私…………今日は遅出だったから、すごく待たせてしまいますよ?明日の分の在庫チェックもあるし、九時は確実に過ぎます。」
「全然いいよ。そこら辺で一杯飲みながら待つからさ。」
こちらの退路を絶つ台詞も彼の常套手段なのだろうか。
今まで断れた試しがない。
仕方なく、「では九時半に。」と約束し、私はフロアへと戻っていった。
女に不自由しなさそうなマスクと、有名私立大学を首席で卒業した肩書き。
噂によれば、彼の父親は巨大なアパレルメーカーの代表だという。
その上次男坊。
しっかり者の兄のおかげか、自由気ままなシングルライフを楽しんでいる。
しがない“一販売員”からすれば、羨ましい限りだ。
女社会の職場で、彼はもちろんモテていた。
これほどの優良物件はそうそう出ない。
結婚適齢期をとうに越した女子社員にとっては、血なまこになってもゲットしたい相手だった。
そんな“黙っていても引く手数多な男”が、どういうわけか私に擦り寄ってきて、少々不気味に感じる。
今年25になった私は、失恋の痛みを忘れ、軽い交際を幾つか重ねるまでに回復していた。
あの痛みは固い結晶のようになり、胸の中の奥深くに沈んでいる。
否、沈み込ませている。
敢えて思い出さない限り、疼くこともない。
そのまま沈んでいてくれればいい。
平和な日常を送るために───
つい三ヶ月前に別れた彼は私との結婚をちらつかせていたけれど、こちらに前向きな気持ちが無かったためご破算となった。
誰に対してもそう。
欲しいとは思わない。
不思議なほど心が熱を持たないのだ。
自分が人形のようになった気すらしてしまう。
二度と本気の恋愛など────出来そうもない。
「津乃峰さん。これ新商品なんですけど………確認個数合ってます?」
「見てみる。ありがとう。」
仕事は充実しているし、給料の遣い方も割と上手になっていた。
そこまでの贅沢を望まなければ、年に一度くらい海外旅行へも行けるし、近場の温泉なら月一で楽しめる。
もちろん結婚すればより良い生活が待っているのかもしれない。
二人で共有する何かは一人のそれより遙かに楽しいだろう。
だけど………心は踏みとどまったまま、その先へ進もうとしないのだ。
進もうとしても、胸の中の結晶がチクンと棘を刺すように痛む。
日頃思い出すことのない記憶と共に。
私は無意識に期待していた。
この塊を溶かしてくれる誰かが現れることを。
私の全てを支配し、ねじ伏せるほどの、圧倒的な力を持つ男が現れることを────望んでいた。
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「津乃峰さんて………まだ若いのにすごく謎めいた感じだよね。美人だからモテるでしょ?」
「あはは、モテません。それにそこまで若くもありませんし。」
焼き鳥といっても今時の洒落た店。
席に着くなり、いきなりシャンパンを飲まされる羽目となった。
グラスワインが2000円とか───さすがお坊ちゃまは世界が違う。
「彼氏と別れてどのくらい?」
「…………三ヶ月経ちましたね。」
「未練は?」
「未練?………ありませんよ。」
あるわけがない。
彼が最後に言い残した言葉は「無駄な時間を過ごしたよ」───だった。
「その年でキッパリと言い切れるもんなの?」
「おかしいですか?」
「うーん…………おかしくはないけど、不思議な感じ。津乃峰さんはそんなにもドライなタイプに見えないんだよね。」
「ふふ。ドライ…………ではありませんね。確かに。」
未だ引きずっている彼のこと。
言葉にするつもりはないけれど、言ってしまえば少しは楽になるのかもしれない。
小さなお皿に乗せられた上品な鶏肉を、私は満たされないな、と思いながらもフォークでつついた。
「上野さんこそ、女性に不自由していないでしょう?」
話題の矛先を変えるべくそう言ったのに、彼は「不自由してるよ。絶賛片思い中だし。」と誘惑の目で切り返してくる。
黄金色に輝くシャンパングラス。
その中でプクプクと弾ける小さな泡同様、彼の言葉は軽く聞こえた。
「酔ってます?」
「まあ、多少、自分に酔ってるかな。」
「………ですよね。」
ここでハッキリ断るのが正しいと判っていても、たまに寄りかかりたくなる時もある。
彼にとっても、どうせ遊び相手なのだろう。
落とすまでが楽しい恋愛ゲーム。
三ヶ月という期間は、禊ぎを済ませるのに充分だと思う。
だから、彼の誘いに乗った。
高価な酒に酔った振りをして───
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一夜だけだったはずの関係が、両手の指ほどになった頃、「パーティに同伴して欲しい」と誘われた。
“パーティ”にはあまり良い思い出がないものの、たまには羽を伸ばすのも悪くないと思ったし、何よりも彼が本来居るべき世界を覗き見たいという好奇心が勝ったから引き受けたのだ。
以前、手に入れたドレスに新しいショールを買い足し、パンプスは黒にした。
彼は目を細め、「見違えたよ。」と言ってくれたけど、このドレスに隠された因縁を知れば、とてもじゃないがそんな台詞は出てこないだろう。
私は────今も囚われている。
あの人への恋に縛られ続けている。
胸底にある小さな塊がそれを時々思い起こさせる。
昔ほど焦燥に駆られることはなくなったが、それでも彼の姿を思い出せば、逸るような気持ちが膨れ上がった。
総じて“好み”過ぎるのだ、あの男は。
そして恋にかける私の全てを持って行ってしまった。
手には入らないと解っているからこそ、私の想いは燃え盛る。
人の不幸を願うのは間違っているけれど、あの妻になにかしらのトラブルが起こり、この世から消えて無くなればいいのにとすら、思ってしまう。
もちろんそんな事態になっても………彼は私を選びはしないだろうけれど。
さすがに身の程くらい知っている。
だからこそ、愛人の座を欲しがったのだ。
服飾関係の会社を経営する重鎮たちが集うパーティは、もちろん彼、“上野将吾”の父親も参加していた。
まさか紹介されるとは思わず、半ば強引に連れて行かれた時は背中を冷や汗が流れたが、父親はさほど次男坊に関心がないらしく、「楽しんでいってくれ」とありきたりな挨拶をしただけだった。
女性にモテる彼が、ガールフレンドの一人を紹介しただけのこと。
特に身構える必要もない。
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国内屈指の有名ホテルを会場に、煌びやかなシャンデリアが輝く大広間。
その下で、テレビで観たことのあるモデルやデザイナー、芸能人達が楽しそうに歓談していた。
着飾る彼らはスポットライトを浴び、まるでステージに立っているかのよう。
非現実的な光景にキョロキョロしてしまうのも、私が場慣れしていないから。
いや───“場違い”というのが正しいか。
恐らくはショーモデルであろう彼女達を眺めながら、その身のこなしにうっとりする。
私の胸ほどに彼らの腰があり、とてもじゃないけれど同じ人間とは思えなかった。
手入れの行き届いたサラサラヘア。
カラーリングで傷んでいるはずなのに、何故か枝毛一つ見あたらない。
一体どんなトリートメントをしているのか。
同じ女として気になる。
不意に、視線を掠める美しい金髪。
もしかすると予感があったのかもしれない。
あの雪の夜、一人親切にしてくれた彼に再会することを。
そして彼の側には、あの夜と同じ個性的な仲間が集っていることを。
私の足はひとりでに歩き始めた。
モデル達が集まる輪に向けて、恐る恐る。
するとその中心にはやはり“ビドウ”と呼ばれる彼が居て、隣では華やかに着飾った夫婦とその友人達が楽しそうに語り合っていた。
五年ぶり──いや、もっとか。
剣菱の名を、事実上世界のトップにたらしめた彼は、あの時とほとんど変わらない姿で微笑んでいる。
周りのおしゃべりな友人達も同じ。
モデル達に引けを取らない艶やかさで、シャンパングラスを傾けていた。
─────世界が違う
いつぞやも感じたその疎外感が、私の胸を再び巣くう。
決して踏み込めない彼らの輪を、憧れと嫉妬が入り交ざった感情で眺めるしかない自分に情けなさを感じる。
────ちっとも成長していない。あの夜から、ちっとも。
視線の行き所は当然決まっていて、漆黒の髪色をした彼が、どこか砕けた雰囲気で笑っている姿に胸躍る。
話しかけたいなんて思わない。
話しかけれるような立場じゃないし。
ただ眺めているだけで、会えなかった時間が音を立てて収縮していくのが分かった。
子供のような奥様もまた、派手な衣装でその身を包み、天真爛漫な笑顔を振りまいている。
何故あんなにも罪なく笑えるのか。
何故あんなにも幸せそうに笑えるのか。
立ち尽くす私は、涙が零れそうになった。
「津乃峰さん!………驚いた。いきなり消えるなんて。」
「…………ごめんなさい。」
上野将吾は焦ったように駆けつけてきてくれた。
この人は悪い人ではない。
誰もが彼のような人と一度はお付き合いしたいと思うだろう。
人懐っこくて甘いマスクも、スマートなエスコートも………女の子には心地よい。
でも────
でも、何かが物足りないのだ。
私の心を揺り動かす何かが…………足りない。
小さな塊となった失恋の結晶が、あの頃の情熱を忘れさせてくれない。
彼への想いを断ち切らせてはくれない。
それはもう呪いのように────
「大丈夫?」
心配そうに覗き込まれ、私は小さく頷いた。
嘘の頷き。
「具合悪いなら、部屋をとるけど?」
「…………いいんです、ほんとに。」
「どうしてそんな顔してるの?」
「……………そんな顔?」
「まるで………大失恋したみたいだ。」
あながち間違ってはいない。
彼に会う度、何度も胸を引き裂かれる。
それと同時に何度も恋をしてしまう。
どうすればいいんだろう?
この苦しみから抜け出すには、どうすれば?
この男を頼ってみようか?
それともまた別の誰かを?
その時、チラリとこちらを見た金髪の彼が、アイスブルーの瞳を大きく見開く。
「あ…………」
あれから五年以上経っているというのに、直ぐに私だと判ったのか。
その記憶力にゾクッとした。
「やっぱり………部屋を取ってください。」
「………うん、わかった。」
私は恋人でもない男の腕を掴み、美しい集団から背を向けた。
知られたくない。
ううん────気付いてほしい。
どれだけ傷つけられても、彼の目に映る私が一番自分らしいと思うから。
胸のざわめきは何かへの予感。
私は再び、澱んだ闇の中へ足を踏み入れようとしていた。