「わ………雪…………」
「え!ほんとに?ヤバい、電車止まっちゃうかなぁ?」
「うーん………どちらにせよ、早めに帰った方が良さそうですね。」
あの日から二年と少し。
季節はクリスマスを迎えていた。
高校を卒業した私は、ネットで知り合った女子大生とアパートをシェアしつつ、今は大型商業施設の中で働いている。
服飾雑貨の販売員。
給料はほどほどだが、家賃が折半になったおかげで少しは楽になった。
僅かではあるけれど貯金も。
かといって、夢や展望が見つかった訳じゃない。
もちろん今でも贅沢な生活への憧れは消えないけれど、それは他人に与えて貰うものではないと解っている。
自分の手で勝ち取らなくては、いつか泡のように消えて無くなってしまう不安定さ。
そんなものに縋ることは愚かだ。
「じゃ、お先ー!」
「お疲れさまです。」
通用口から一歩出るだけで、冷たい氷の粒が肩を白くする。
いよいよ本降りになりそうな予感。
私は年季の入ったコートの襟を立て、大通りへと急いだ。
この調子だといつ路線バスが運休になるかわからない。
職場から自宅まで電車とバスを乗り継いで15分ほどだが、さすがにこの悪天候の下、徒歩で帰りたくはなかった。
足早にバス停を目指していると、ショーウインドウに飾られた赤いドレスが目に飛び込んでくる。
上等な布地。
優れた最新デザイン。
甘くてエレガントなそのドレスは、クリスマスパーティに相応しい装いだ。
────今の私には縁がない代物ね。
思い出せば虚しくなるあの夜のこと。
人に言えぬ傷口が塞がるまで、随分と時間を要した。
恋ではない────
黒髪の彼はそう断言したけれど、やはりあれは恋だったと思う。
切ないほどの想い。
おかげであの後、五キロも痩せた。
もう会えない………
そう思うだけで、夜も眠れなかった。
福来がやつれた顔を見せたのは、あのパーティから三日後のこと。
案の定、剣菱からクビを言い渡されたらしいが、次の仕事は何とか確保したと言っていた。
元は優秀な男なのだ。
女癖の悪さが致命的なだけで。
脅し、囲っていた女子大生を解放し、東南アジアの片田舎から再出発するらしい。
剣菱の目の届かぬところで。
そうしないと、直ぐに潰されてしまうと恐れていた。
その時、私は彼に問うた。
何故、あの夜、“剣菱悠理”の身体に触れてしまったのか?と。
彼は難しい顔で、“酒の所為だ”と答えた。
彼女と酌み交わしていたシャンパンを飲み過ぎてしまったからだ、と。
自分でもよく解らないのが本当のところだろう。
気付いたら、目の前にある身体に触れていた。
ムラムラと高まる欲望に逆らえなかった。
普段、女性と意識していなかった相手なのに、つい口説いてしまった。
男は肩を落とし、皮肉げに嗤った。
そして私に封筒を渡し、「元気でな」と言い、立ち去ったのだ。
封筒の中身は帯の付いた百万円。
彼なりに考えた詫びなのだろう。
私は迷った挙げ句、それを鞄にしまいこんだ。
再出発する覚悟を決めていたのは、あの男だけではない。
その有り難いお金で住んでいたアパートを引き払い、私は女性専用の物件へと引っ越した。
そして春を迎えると同時に、ルームメイトを招き入れたのだ。
男はしばらく必要としない。
その時はただただ、失恋の甘い痛みに浸りたかった。
「うぅ、さむっ。早く帰ろ。」
肩を竦めて再び歩き始めると───
ドン!
「おっと。」
イルミネーションよりも美しい金髪の男性が私を振り返った。
「ご、ごめんなさい。」
ショーウインドウに気を取られ、周りを見ていなかった私の不注意で彼の背中に当たってしまったのだが、慌てて謝罪しながらもその美貌に目が釘付けとなる。
「気を付けてね、お嬢さん。」
優しい微笑み。
まるで絵本から飛び出した王子様そのもの。
それはどんなお菓子よりも甘く、蕩けるような笑顔だった。
「美童!!」
「おーい、何してんだ?さっさとこっち渡れよ!」
横断歩道に立つ彼は、通りの向こう側から呼ぶ友人らしき人たちに手を振った。
「今、行くよ!」
彼が見つめるその先には、派手な出で立ちの男女が四人。
今からパーティにでも行くのだろうか。
皆一様、ハイクラスな装いに身を包んでいた。
「あ………」
その中の一人に見覚えがある。
というか絶対に忘れられない顔。
────彼の妻だ!
私の足は凍り付いたように止まった。
この二年間、時々メディアに登場する彼女たちから、ずっと目を背けていたように思う。
ちっとも変わっていない。
むしろあの時よりも綺麗になっている。
肩口で揺れるふわふわした髪。
キリッとした眼差しとは対照的な淡い唇。
離れていても解る圧倒的な存在感。
派手な色の毛皮を身に纏い、タイトなパンツで長い脚を包むその姿は、一匹の雌豹のように凛々しかった。
彼女に寄り添う二人の女性もまた、艶やかで美しい。
金髪の彼が渡りきると、その集団は恐ろしく完成度の高い集まりとなり、通りかかる人々の視線を集めていた。
信号は再び赤に変わり、私は彼らが楽しそうに歩き始める姿を見送る。
彼らに降る雪はまるでクリスタルのように輝いていて、違う世界から来た異星人のように見えた。
そんな五人がたった数メートル進んだそこに、一台の車が静かに横付けする。
大きな黒塗りの高級車。
ド派手な装飾品がこれまた目を引く。
そしてその中から現れたのは………まったくもって予期せぬ相手だった。
懐かしいと感じてしまうほど遠くなった彼の横顔。
全く年齢を感じさせない精悍な顔立ちに、思わず胸が疼いてしまう。
剣菱帝国の頂点に立つ男は漆黒のスーツを身に纏い、気心の知れた友人に囲まれ笑顔を見せた。
傍らには妻がいる。
慣れた仕草で腰に巻かれる長い腕。
楽しい笑い声とともに集まった六人は、そのまま煌びやかな繁華街に向かって歩き始めた。
────もう、二度と会えない
そう覚悟していた人物との久々の再会に、胸が弾んでしまうのは致し方ないと思う。
一方的であれ、私はやっぱり彼のような男が好きなのだ。
心の進行方向をねじ曲げることは出来ない。
とは言っても、現状は何も変わらないわけだし、こうした小さな奇跡を胸の中で喜ぶことだけが、今の私の宝物。
「…………帰ろ。」
強まる雪の中、彼らとはどんどん距離が開いてゆく。
後ろ髪引かれる思いで背を向け歩き出すと、より一層孤独感が増し、胸が苦しくなった。
寒いな────
こんな日に限って、ルームメイトは旅に出ている。
独りきりの部屋はさすがに堪えるだろう。
お酒でも買って帰ろうか。
おでんもいいな。
そう思い、頭を上げたところへ…………
ふわり、大きな黒い傘が頭上に覆い被さった。
「え?」
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは彼。
二年前と変わらない穏やかな表情で、傘を差し伸べてくれていた。
「ご無沙汰ですね。お変わりありませんか?」
「…………どう、して?」
「ああ。妻が横断歩道の向こうで見かけたと言うので。」
「で、でも、だいぶ距離がありましたよ?」
「はは。彼女の視力はアフリカ原住民並みです。ちなみにこの傘を持って行けと言ったのも、貴女の手に傘が握られていなかったからですよ。」
彼に渡された傘は男物で、先ほどの高級車の運転手が常備していたものらしい。
取っ手には“名輪”と刻まれていた。
「……………ありがとうございます。奥様が私なんかを気にかけて下さるとは思ってもみませんでした。」
すると彼は困ったように笑い、「ああ見えて、人が良いんです。」とのろけた。
「今は仕事を?」
「あ、はい。販売員で………細々と。」
「そうですか。呉々も身体には気を付けて。それじゃ………」
踵を返そうとする彼の袖を掴んだのは、思いもかけない衝動だった。
もう、会えない!
こんなチャンスは二度とやってこない!
「剣菱さん!」
「え?」
私は強引なほど思いきり、その胸の中へ飛び込んだ。
仕立ての良いスーツへ躊躇うことなく。
「津乃峰さん………」
「少しで良いんです!ほんの少しだけ……こうしててください。」
冷えた空気の中、彼の香りがする。
名も知らぬ香水の大人びた香り。
逞しい胸板が服の上から感じられ、途端に彼が欲しくなった。
どう転んでも手に入らない男。
決して、私なんかに余所見をしない男。
いや………もっと良い女にだって興味はわかないだろう。
妻以外の存在を彼は必要としていないのだから。
「…………好きです。…………あの時、貴方は私の想いを全て否定したけれど、何度考えても………恋で、今も………ずっと貴方が好きです。」
胸が引き千切られるような痛みで熱くなる。
恋だ。
これは恋以外のナニモノでもないんだ。
どれだけ否定されようと、
報われなかろうと、
この恋は私だけのもの。
こんなにも激しい想いを、誰にも止められるはずがない。
彼の腕は私に触れなかった。
直立不動で立ち尽くし、この迷惑な感情をひたすらに受け止めている。
「………………私、辛いんです。このままじゃ…………幸せになれない。」
雪が漆黒のスーツを白く塗り替えてゆく中、その後ろから激しい足音が近付いてきた。
それが彼の妻のものであることは明確。
けど、離れたくない。
あと少しでいいから。
お願い。
「なにしてんだ!!離れろ!!!」
「いやです!!」
「こ、この女!………人がたまに仏心出したらこれかよ!!」
「関係ない!私は…………この人が好きなんです!!」
力ずくで引き裂かれた直後、あまりの勢いから雪がうっすらと積もった地面に尻餅をついた。
冷たく濡れたアスファルトは、コートを着ていても身体の中心まで凍らせる勢いだ。
「悠理!止めろ。」
「やだっ!!なんで…………清四郎!この女!」
「僕を見ろ。僕の目を見なさい。」
彼は座り込んだままの私を見ようともせず、暴れる妻を振り向かせ、その真っ赤な頬を両手で包みこんだ。
怒りに歪んでもなお美しい顔を優しく、そして情熱的な瞳で覗きこむ。
「落ち着いて、悠理。僕だけを見なさい。」
それはまるで暗示だった。
彼の声を聞き、目を見るだけで、彼女の怒りが静かに解けていくのが分かる。
「何も不安がることはないだろう?僕の心はおまえにしか預けていない。だからそんなにも暴力的にならなくていいんだ。」
宥める声は、聞いているこちらが目眩するほど優しく、まるでベッドの上のピロートークそのものだった。
彼は見物客の存在などまったく意識していない。
「せぇしろ………」
「よしよし。落ち着きましたね。」
甘えた声で鼻を啜りながら、さっき私が居た場所に愛され妻は収まった。
虚しくて、でも悔しくて、涙がこぼれる。
「大丈夫?立てる?」
いつの間に来たのだろう。
私の背後に現れたのは先ほどの金髪青年で、その後ろには個性的な友人たちがずらりと並んでいた。
優しく腕を取り立たせた後、コートまではたいてくれる気遣い。
彼は蕩けるような微笑みで私を見つめたが、アイスブルーの瞳だけは少し哀しそうに光っていた。
「恋心だけはどうしようもないよね。解るよ。」
それはよくある薄っぺらい同情などではなく、心からの言葉。
「でもあんた、趣味悪いわよ。あんな冷たい男のどこが良いんだか。」
ウェーブヘアの彼女が吐き捨てる。
「本当ですわ。まだお若いのだし、もっと良い殿方が見つかりますわよ。」
毛色の違うもう一人の美女も追随し、私は恥ずかしさのあまり顔を伏せた。
恥ずかしすぎる。
感極まったとはいえ、何て騒ぎを起こしてしまったのか。
彼の顔も、奥さんの顔も、とてもじゃないが見れない。
まるで励ますように背中をポンポンと叩かれ、“ビドウ”と呼ばれた青年をそっと見上げる。
近くで見れば見るほど整った、まるで映画の中に出てくるような美貌。
恋愛で苦労したことないんだろうな。
誰だって彼のような人に誘われたら、二つ返事でついて行くに違いない。
もちろん、ベッドまで…………
「津乃峰さん。」
天気よりも冷えた声に、背筋が無意識に伸びる。
おそらくは蒼白した顔でぎこちなく彼を振り返れば、彼の表情に明らかな困惑が見て取れた。
「僕は………以前、貴女の想いを真っ向から否定してしまいました。それは間違っていたんですね。謝ります。」
それは声に似合わず、丁寧な謝罪だった。
むず痒いような居心地の悪さを感じた私は、その言葉にこそ最後の審判を下されたように思えた。
「しかし答えは何も変わらない。たとえどれほど想いを寄せられようとも、僕が貴女に興味が湧くことはこの先もありません。」
分かってます。
分かっていました。
さっきほどの牙はないけれど、彼の妻は私を攻撃的に睨んでいる。
少しも分け与えたくない────
そんな強い意志が夫のスーツを握りしめる華奢な手に込められていた。
多くを望んだわけじゃないけれど、彼女にすれば私は大罪人。
今此処で罪を認め、罰を受けろ、とその目が語っているのだ。
「………………ごめんなさい。帰ります。」
居たたまれない空気の中、金髪の彼の手が私の背中を支えてくれている。
優しくて大きな手。
私が剣菱さんに求めたのは、こんな手だったのに。
寒さとショックでなかなか踏み出さない足を察知したのか、彼はもう片方の手を挙げ、一台のタクシーを停めた。
「家まで送ってくよ。」
「え?いえ………そんな………」
「あはは。心配しなくても送り狼にはならないから。……ということで、皆は先に会場に入っててくれる?場所は可憐が知ってるから大丈夫だよね。」
彼の友人たちは静かに頷き、私達を見送った。
乗り込んだタクシーの窓から見える仲睦まじい二人。
あのどこか子供のような妻に胸板を叩かれている彼の目はやはり温かい。
欲しかったのはその目。
私がどれほど望んでも届かなかったその目。
「お客さん、どちらまで?」
「…………●×駅までお願いします。」
「え、駅?」
「はい。そこで充分です。ご面倒おかけしました。」
彼から漂う香水は私を優しく包み込んでくれる。
慰めるように優しく、その香りは冷えた肺の中まで満たしてくれた。
「清四郎は、ね。」
「………はい。」
「君には打算的なヤツに見えるかもしれないけど、悠理にだけは違うんだ。」
唐突に語り出す彼の声は、とても真摯な何かが隠されていて、私は沈黙したまま聞き入った。
「昔は………確かに割り切った関係を好むタイプだったんだけどね。想いを自覚してからはこっちが恥ずかしくなるくらい一途なんだよ。ま、元々恋愛オンチな二人だから、火が点けば周りが見えないんだろうね。」
息苦しい告白。
妬ましさに喉が焼け付く。
「だから浮気も愛人も二股も………今までゼロ。僕にしちゃ面白味の無い男だと思うけど、本人は至って幸せそうだから、外野は何も言えないってわけ。この間も………」
「もういいです!もう………充分分かりましたから。」
聞きたくない。
私の恋にトドメを刺す言葉なんてこれ以上。
「…………ごめんね。これ、僕の連絡先。いつでも頼ってきてくれていいから。もやもやを発散させるお手伝いくらい出来ると思うし。」
差し出されたネームカードには多くの肩書きが書かれていて、私ですら聞いたことのあるモデル事務所の代表だと判った。
「…………お客さん、つきましたよ。」
「色々とご親切に。………でも私、彼との接点は出来るだけ切ることにします。このままだと………ほんとストーカーになっちゃいそう。」
「………そうか。そうだね。じゃ、気を付けて。」
彼の親切心に甘えたら………二度と引き返せない世界に足を踏み入れてしまいそうで怖かった。
この恋が泥水に浸かってしまいそうで、怖かったのだ。
私はこの先、会えない苦しみを糧に、前を向いて歩いて行かなくちゃならない。
未来に幸せが待っていると信じて、歩み続けなくてはならない────
「頑張れ………私!同じ男に二度も失恋したんだ。少しは強くなったはずでしょ?」
空を見上げれば、綿毛のような雪が頬を濡らす。
好きだった
好きだった
どうせならこの恋も一緒に……溶けてなくなってしまえ。
呪いのように呟くと、張りつめていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。