本編

私の母は長い間、清掃員をしていた。
かれこれ十数年。
まだ若いにも関わらず、彼女はそんな地味な仕事を選んだ。
人目に付かないようなひっそりとした仕事を。

二十歳の時、行きずりの男と一夜の恋に落ち、結果私を身ごもった為、人の親になることを容赦なく突きつけられた母。
気付いた時には堕胎も間に合わず、厳しかった両親に勘当された上、たった一人で産み落とす羽目となったのだ。
若気の至りとはいえ、その代償はあまりにも大きい。

そんな母もつい先日他界し、葬儀も無事終えた。
金銭的に厳しい状況の中、病院にも行かず、肺炎をこじらせた、なんて………母らしいといえば母らしい。

あまりにも呆気ない死────

焼香に訪れたのは勤めていた会社の上司と、大家のおばちゃんだけ。
喪主である私になんと声をかければよいのか、二人は最後まで考えあぐねていた。
それも当然だろう。
だって目の前の喪主は………たかだか18歳の高校生なのだから。

母一人、子一人の生活は決して楽では無かった。
非力なシングルマザーに育てられた私は、高校に通いながらもバイト三昧。
そうでもしなければ、学費も食費もままならなかったからだ。

せめて高校だけでも………
そう覚悟し、時間の許す限り働いてきた。
基本、夜遅くまで働けるカラオケボックスでの受付。
金土日だけは実入りの良い、このビルの清掃作業をこなす。
それも母と共に───
親子で働くなんて正直恥ずかしかったが、背に腹は代えられない。
もちろん金にも。

それほど生活は困窮を極めていた。
ボロアパートの家賃と光熱費を払うのが精一杯の状況下で、洋服や靴をユーズドショップの激安品で買い揃え、クラスの女の子たちと出来るだけ差が開かないよう努力する。
さすがにブランド品までは手が届かなかったけれど、見た目は今時の女子高生と遜色なかった、と思う。

見栄っ張りと言われれば反論は出来ない。
でも私たちの世界はそんな虚飾によって成り立っているのだから仕方ないのだ。

そんな時、目の前に現れたのが彼だ。
剣菱本社の取締役を努める剣菱清四郎。
母の言葉が本当ならば、この社で一番のモテ男、らしい。
長くアメリカで生活していた彼は、たしか30手前と聞いている。
しかしその落ち着いたルックスと貫禄は年齢以上に見えた。
良い意味で。

高校生でも分かる、高そうなスーツと手入れの行き届いた革靴。
美人秘書が三人、いつも彼を取り囲み、小難しい会話を交わしていた。

私たちとは違う世界。
同じ場所に居ながらも、
同じ空気を吸いながらも、
その差は天と地。
宇宙とマリアナ海溝ほどあった。

そんな彼は、たまにだが、廊下で母と話すことがあった。
突然雲の上から下りてきた神様のように、にこやかな笑顔を浮かべて。

「いつも塵一つ落ちてませんね。今まで色んな業者に頼んできたが、貴女が一番きれいにしてくれます。ありがとう。」

「とんでもない……仕事ですから………」

頬を染める母など、見たことがなかった。
まるで初恋に目覚めた少女のようにほんのりと桃色に染まり、漂う女の香りは───こっちまでドキッとさせられる。

相手のルックスと立場を考えれば、のぼせ上がってしまうのも当然。
彼には、小娘の私ですらクラクラさせられる色気があった。

そう。
モテないはずはない。
たとえこの剣菱王国の姫を娶っていたとしても───

剣菱一家は、世間を騒がせるちょっと変わった人間の集まりだ。
その中でも剣菱悠理は相当なものだったらしい。
今は彼と結婚し、子供も二人居る為、随分と落ち着いているようだが、昔は手のつけられないじゃじゃ馬姫だったと聞く。
時々テレビや雑誌で見かける彼女は、本当に一般人かと疑うほど美人で、いつも可愛らしい双子を抱きながら幸せそうに笑っていた。

幸せそうな母子像。
私たちと親子とは格が違う。

けして愛情がなかったわけではないのだろうが、母は時折すごく冷たい目で私の顔を見つめた。
それは夜、寝ている時に感じる、ふとした視線。
幼い頃、首を絞められるのでは?と思うほどの恐怖を感じたことも少なからずあった。

もちろん現実に行われたことは一度もない。
貧困に苦しむ母の辛さ、そして誰にも頼れない心細さ。
後ろ盾の無い生活は、きっと私の想像を遙かに超えた苦悩だったのだろう。

早く大人になりたい………
母の負担を減らすためにも………

そう、願ったことは何度もあった。
真っ当な仕事じゃなくてもいい。
少しでも家計が潤えば、母の荒れた手に、そして顔に塗る為の、ちょっと良さげなローションも買えるだろうに。
使い古したエプロンを新調することも可能であるだろうに。

腹の中で蓄積される怒りともどかしさ。
それはすべて自分に対するものだったのかもしれない。

結局、細腕で育ててくれた母への感謝は最後まで言葉に出来なかった。
照れ臭さもあったけれど、それ以上に何と伝えれば良いのか解らなかったのだ。

たった一言────『ありがとう』
その言葉だけで良かったのかもしれないが。

来春、高校卒業を控えた私の耳に、母の遺した言葉が過ぎる。

────身の程を知って、穏やかに慎ましく生きて行きなさい。そうすればきっと幸せになれるから。

本当に?母さん。
貴女は二十年近く慎ましく生きてきて、こんな死に方をした。
未来に幸せがあると、本当に信じていたの?
本当に幸せをその手に掴めると期待していたの?

私はそんなものを信じない。
どれだけ強欲と言われても構わない。
こんな生活から絶対に抜け出してやる。
母も死んだ。
父と名乗る男に会える確率は小数点以下だろう。
どうせ天涯孤独の身なのだから、誰に迷惑をかけるわけでもない。
たとえ人のモノであろうと関係ないんだ。
あの人を────この手で掴み取ってやる。

小娘の私は自分の中のエゴを抑えることが出来なかった。

愚かな感情だと理解していたくせに。

母が他界した後も、以前のシフトで清掃の仕事を続けることが出来たのは、上司である男のせめてもの気遣いだったのだろう。

もちろんその善意を有り難く受け取った私は、再び変わらぬ生活を送り始めた。
彼、剣菱清四郎との接点を探りながらも、いつものように真面目に働く。
若い清掃員を見る社員の目は基本、哀れみか好奇心で、時折話しかけられることもあったが「就業中ですので」と断り、ひっそり立ち去った。

しかし中にはどうしようもない男がいる。
特に土日は社員が少なく、遅くまで残っているのは煮詰まった感じの人間が多い。
苛立ちをぶつけるようにからかう男達。
私はそんな彼らが苦手だった。

その日、もう一人の清掃員と二手に分かれ、一階ロビーのトイレ清掃を済ませた私を、男は出待ちしていた。
夕暮れ時の社屋はひっそりとしていて、とても寂しい。
彼の顔を見た瞬間、緊張が走るのも当然だ。

「やぁ、お疲れ。今日の僕はツいてるな。ずっと君に話しかけたかったんだ。」

人懐っこい笑顔で近付いてくる男の、そのタバコ臭いスーツが嫌で、思わず顔を背ける。

「………何のご用でしょう?」

「君さ、他の奴らより若いよね?もしかして未成年?」

深く帽子を被っていても、目を付けられたら結局はバレてしまう。
三十半ばと思しきその男はニタニタと笑いながら、私の後を付きまとった。

「まだ仕事が残っていますので───」

そう断っても、ひるまない。
結局はエレベーターホールへと向かう廊下の端っこで、手を掴まれ、強引に引きとめられた。
容赦ない力には労りの欠片すら感じない。
痛みと不快感が襲う。

「止めてください!」

「なぁ、お金に困ってんの?困ってるんだよね?君みたいな若い子が土日まで仕事してるんだから。何なら僕が少しくらい都合してやろうか?」

「違います。」

「違わないでしょ。だって前は母親と一緒に働いてたじゃん?」

───知っていた?前から?

途端に背中を虫酸が走り抜けた。
『一刻も早く逃げなくては!』
けれど足は震えて動かない。

「可愛い子だなぁって思ってたんだ。こんな地味な仕事、君、向いてないよ。だからさ……」

「放っておいてください!」

力一杯ふり解こうとするも、男の本気には敵わない。
壁に押しつけられた私は、近付いてくる顔を嫌悪感いっぱいになりながらも、睨みつけた。

「…………よぉーく見てたから、知ってるんだ。仕事を辞めない理由。」

「…………え?」

「本当は此処に、好きな奴がいるんだろ?」

「…………!?」

思い掛けない言葉に思考を停止させたまま、この男の不愉快な匂いを鼻先に嗅ぐ。

気持ち悪い!吐き気がする。

嗚呼、私の前から、今すぐ消えてしまえばいいのに。

「かといって無茶だよなぁ。だってあの人は君がいくら可愛くても、気にもかけてくれないだろうし。」

「そんな………こと。」

この男に言われずとも解ってる。
それでも僅かな可能性に縋りつきたいと思うことはそんなにも罪なの?
たとえ相手が既婚者でも───優しく話しかけてもらいたいと願うことは罪なの?

言葉を詰まらせていると、男は内緒話をするように更に顔を近づけてきた。

「でもまあ………僕の立場なら、彼との接点を作ってやることも可能だけど?」

「…………え?」

「僕の付き添いとしてなら、パーティや懇親会にも顔出し出来るし、紹介もしてやれる。自分をアピールしたいならそのくらいしなきゃ、ね。隠れたライバルは多いよ?」

男のにやけた顔が、その裏の条件を暗示しているようでむかついた。

でも
でも………

もし本当なら────

彼の声を近くで聞くことが出来る。
彼の香りを間近で嗅ぐことも。
万が一のチャンスも訪れるかもしれない。

それは魅惑的な誘い。
小娘を惑わすに充分な花の蜜。

 

「………何が望みなんですか?」

「野暮だねぇ。解ってるだろ?」

男の指がウェアの上から背中をなぞった。
恋人でも、“彼”でもない、低俗な男の指。

私はそれほど切羽詰まっていたのだ。
この窒息しそうな世界から抜け出そうと、
藁にも縋る勢いで欲していたのだ。

どんな関係でも良い。
別に妻になりたいわけじゃない。

彼の、剣菱清四郎の手によって変えられる運命なら、どれほどの苦痛だって我慢してみせる。
その踏み台として───この男が手を差し伸べてくれるなら、有り難く乗るのが当然の帰結。

「解りました。…………お願い、します。」

「いい子だ。じゃ、早速今日の夜、飯でも食いに行こうか。」

「…………はい。」

母さん───
貴女はあの世で泣くでしょうか?
それとも怒る?

でも私は母さんみたいになりたくない。
欲しいもの全てを我慢する人生なんて、もう耐えられないの。
この汚泥のような生活から必ず抜け出してやる。
きっと、必ず────

 

その夜………
私は初めて男に身を売った。

男、“福来 元”(ふくらい はじめ)の本当の思惑など知らない。
私は私の目的のために、この若い身体を使ったのだ。

後悔はしない。したくない。

彼に近付く為の第一歩を踏み出しただけなのだから。