序章

それは、修羅場を潜り抜けて来た彼らにとって、新たな試練の一つだった。

大学部へと進学した六人。
最初の二ヶ月は新しい生活に浮き足立ち、それぞれの興味ある事、そして色んな集まりへと顔を出していた。
しかし彼らは結局のところ直ぐに飽きてしまう性質で、夏休みを目前とした四ヶ月目に差し掛かる頃には、すっかり閑人と化していたのだ。
「有閑倶楽部」と名付けた敷地内の倉庫をねぐらとし、‘暇だ暇だ’とぼやく毎日。
そんな中、誰よりも刺激に飢えていた悠理が提案したのは、やはり日本国内からの脱出だった。

「父ちゃんがさ、シンガポールにマンション買ったんだ。皆でチリクラブ食いにいこうぜ。」

「あら、シンガポール?良いわねぇ。買い物熱が高まるわぁ。」

「おじさんのことだ。どうせ丸々一棟、手に入れたんだろ?」

「さっすが魅録ちゃん、アタリ。今、あっちの不動産は大人気なんだ!それも70階建てだじょ。ペントハウスは剣菱の保養所で、そこから見る夜景が最高にキレイでさ、皆にも見せたくって。」

「いいね。僕も久々にアマンダちゃんとデートしたくなっちゃった!綺麗な黒髪の女の子ですっごく可愛いくてさぁ。」

盛り上がる四人を尻目に、野梨子はふぅ、とか細いため息を漏らす。
彼女の幼馴染みはこれまた冷静で、読んでいる本から顔を上げないまま、耳だけを傾けていた。

「わたくし、八月は無理ですわ。関西で開かれる茶道のイベントに参加することになっていて、とにかくすごく忙しいんですの。」

「なら七月中にいこーよ!」

「俺はいつでもいいぜ。」

可憐と美童も魅録に追随し、頷く。

「清四郎ちゃんは?」

悠理は会話に参加してこない男をそろり窺うと、彼はようやく本から目を離し、皆を見渡した。
そして最終的に悠理を見つめ、やれやれと苦笑する。

「おまえがシンガポールだけで満足するとは思っていませんよ。どうせ近隣の島巡りをしたいんでしょう?あの辺りは素潜りするだけでも綺麗な魚が泳いでいますから。」

「え!?な、なんでばれたんだ!?」

「たしかおじさんは、新しいクルーザーも購入してましたよね。おまえの目的はむしろそちらなのでは?」

清四郎の言う通りだった。
あの辺りは多くの島が点在し、冒険心を滾らせる悠理にとってメッカともいえる場所。
スキューバーも山登りもどちらも楽しめる魅惑的な島がゴロゴロ転がっている。

多くの資産家が利用するシンガポールの港には、‘LILY号’という名の白く大きなクルーザーが停泊している。
三階建てのそこには百合子がデザインした客室が10もあり、もちろんその全てはスイート仕様。
スパ、プール、サウナ、フィットネスジム、更にヘリポートまでもが完備され、勢を尽くした造りとなっていた。
広々としたダイニングでは、お抱えのコックが腕をふるい、フレンチから中華までありとあらゆる国の料理が食べられる。
もちろん世界一周を航海することも可能ではあるが、百合子がそれに参加することはないだろう。
剣菱の会長夫人はそこまで暇ではないからだ。
「えへへ。清四郎ちゃんってば、相変わらず鋭いなぁ。」

「今度は豪華クルーザーかよ。さすがは剣菱。テンション上がるぜ。」

「まあ、たまにはクルージングも悪くありませんけどね。」

「なら、決まり!!早速父ちゃんに連絡してくる!」

こうして決まった閑人共の夏旅行。
待ち構えている運命を、この時の彼らは想像もしていない。



6人がシンガポールに到着して三日目。
ここは年間を通じて気温が高く、蒸し暑い土地である為、皆は軽装を好む。
30階建てのマンションはあっという間に完売し、入居者が引っ越しの準備に追われていた。

見晴らしの良さは悠理の言った通り最高。
驚くべきはその天上の高さと、最上階全てを使った贅沢な空間。
バスルーム付きの寝室が4つ。
50畳はあるだろうリビングと、全ての調理器具が揃ったシステムキッチン。
リビングルームのほとんどがガラス張りの為、シンガポールの摩天楼が丸々目に飛び込んでくる。
万作は基本、地に足をつけた場所にしか別荘を持とうとしないが、ここは別格だった。

とはいえ、景色はすぐ飽きる。
そわそわする悠理が、清四郎にお伺いを立て始めたのは当然のこと。

「明日には船長と船員が手配出来るようなので、今日一日は我慢しなさい。」

「やっぱ、でっかい船は魅録ちゃんだけじゃ運転できないのか。」

「免許の種類は様々なんですよ。魅録は20トン未満の船舶なら操船可能ですがそれ以上は無理です。」

説明に納得した悠理は、野梨子と可憐に明日の準備を進めるよう告げるが、二人はあまり気乗りがしないらしい。

「ほんっと!島なんて何が楽しいのかしら。ここにいたら空調は快適だし、何でも手に入るし、どこよりも極楽なのにぃ。」

「可憐、言っても無駄ですわ。それより水着はどうします?」

「一応持ってくわよ。昨日のショッピングモールで良い柄見つけたの。」

彼女達に反し、魅録はご機嫌な顔で購入してきたばかりの釣り竿をメンテナンスしていた。
向かおうとしている島々は美しい海に囲まれた、手付かずの自然が残る場所。
大きな船舶は横付け出来なくとも、水上ボートで下り立つことは出来ると前もって聞いていた。
小さな漁村くらいあるのだろうか。
美童は、お決まりの‘ラバさん’探しに期待している。

そうして次の日。
六人はゴージャスなクルーザーに乗り込んだ。
不承不承だった可憐達のテンションが簡単に上がってしまうほど、その外観は素晴らしく、内装もまたエレガントな設えで纏まっていた。

「野梨子。」

「はい?」

「あたしやっぱり本気で玉の輿を狙うわ。海運王なんてどうかしら?」

「え、ええ。」

いきり立つ可憐の並々ならぬ覚悟を乗せ、船は静かに出港する。

大きな口を開け待ち構える災難に、未だ誰一人として気付いてはいない。