Forgetting

※悠歌、九歳


しまった────

その日、帰宅してすぐの清四郎は眉間に深い皺を寄せ、後悔した。
今日は愛娘、悠歌の学習発表会。
“歴史的音楽家たちの代表曲について”や“彼らのおもしろエピソード”を調べ、父兄たちの前で発表するという、決して見逃せないイベントだったはずなのに────
彼らしくもない。
今の今まで、すっかり失念していたのだ。

確か────夕べまでは記憶にあった。
しかし朝、いつものように妻の身体を貪り、肩慣らし適度の運動をこなした時には頭の中からきれいさっぱり消えてしまっていた。

ネクタイを締め、会社に迎えばトラブルの山。
テキパキと指示を出す中、娘のことなど欠片すら思い出すことはなく───清四郎はそのまま上海へと渡り、突然降って湧いた交渉事に明け暮れた。
厄介なはずだったそれは意外なほど上手く行き、義兄・豊作と軽くシャンパンを酌み交わした後、ようやく携帯電話に届いたMAILをチェックする。

『帰宅したら覚悟しとけよ?』

そっけない一文は妻からのもので、『覚悟』の意味をはき違えた清四郎は心浮き立たせながら自宅へと戻ったのだが────
待ち受けていた現実はそんな甘いものではなかった。

愛娘の部屋に掲げられた大きな張り紙。

「パパとはぜっこう!良いと言うまでにゅうしつきんし!」

子供ながらに達筆な文字で書かれたそれは、子煩悩な父親を打ちのめすのに十分な働きを見せ、清四郎は膝から崩れ落ちた。
覚悟とはもちろん、この事態についてだったのだ。

「連絡入れなかったのは、流石にまずったよなぁ?」

してやったり。
同情を二の次にしてニヤつく妻を、清四郎はギロッと睨みあげる。

「………電話をくれてもよかったでしょうに。午前中なら何とか時間を取れたかもしれない。」

悔し紛れにそう言えば、

「あー、それなら秘書からこっちにMAIL来てたよ。“トラブル満載で身体が空かないから諦めてください”───って。ま、悠歌にすれば、知ったこっちゃない話だよな。」

清四郎の脳裏に、有能な秘書“花泉”の澄まし顔が思い浮かんだが、もはや反論することも出来ない。
全ては自分の過失。
たった9才の娘はどれほどショックだったことだろう。

扉を前にして、本気で悩み迷う夫に、助け船を出したくなったのだろう。
悠理はぐんと爪先立ちをし、囁いた。

 

「あいつのご機嫌とる方法、教えて欲しい?」

「…………なんです?それは。」

今は藁をもすがりたい気分だ。
清四郎は請うように妻を見つめた。

「来月一週間、休暇取ってあたいたちをハワイに連れてくこと!」

「い、一週間………!?」

「そ。でないとあいつ、これから半年くらい口きかないつもりだぞ?誰かさんに似て、わりと頑固だしさ。」

「……………わかりました。何とか調整します。」

悠理の提案を拒否出来るはずもない。
静かにため息を吐いた清四郎は、張り紙の上から恐る恐るノックした。
聞き耳を立てているであろう愛娘の返事を期待して。

 

世界中の猛者達と渡り合える男も、妻と娘にはとことん弱く─────
かつての義父の苦労を、日々我が身に感じる清四郎であった。