登場人物
剣持 旬次郎(54)剣持村の実力者。大地主。手広く不動産業を営む
剣持 操 (48)旬次郎の妻
剣持 宗一 (26)長男・前妻の子
剣持 龍臣 (19)次男 大学生
剣持 美紗紀(17)長女 高校生 医学部を目指している
剣持 羽鳥 (40)旬次郎の従弟 高校の先生
剣持 和彦 (25)羽鳥の弟 陶芸家
剣持 ハナ (92)旬次郎の祖母 入院中
槇村 憲吾 (42)剣持家の使用人
槇村 倫子 (36)憲吾の妻
滝江 涼音 (19)和彦の許嫁 家事手伝い 病弱
剣持 得茂(故人)旬次郎の父
菅沼 春江(離別)旬次郎の母
剣持 茂松(故人)得茂の父親
東北の片田舎、そこは剣持(けんもち)家が所有する村であった。
当主は白髪まじりの小太りな男、旬次郎。
どことなくだが、剣菱万作を思い出させる風貌だ。
この村、実は剣菱家ルーツの地と言われていて、万作の曽祖父の時代に隣県へと移り住んだ為、今はもう剣菱の名を刻む者は居ない。
が、それでも村史にはその名が記載されているので事実だと判る。
今回、6人がやってきたのはそんな関係がある村だった。
大学部へ入学するまでの春休みを利用し、万作と共にこの静かな土地へ降り立つ。
「父ちゃん!危ないって!」
剣菱家所有のヘリコプターが、激しいプロペラ音を立てながら学校の敷地へと下降していく。
そんな中、危険を顧みず万作は身を乗り出し、村の景色を眩しそうに見つめた。
古めかしい寺や神社、長く細い小川に茅葺の集落。
祖父に連れられ一度だけ訪れたその地は、今も昔の記憶通り其処に存在していた。
「なつかしいだがや………」
感無量といった様子の父。
その大きな背中を引っ張りつつ、悠理もまた眼下に広がる長閑な景色を嬉しそうに眺める。
「ここがうちの先祖の地?」
「んだ。今は剣持っちゅうおっさんが地主として管理しとるんだが、昔はこの辺り、山も田んぼも含めてぜーんぶうちのもんだった。」
「へぇ……すごいじゃん。」
巷では「成り上がりの剣菱」と呼ばれているが、東北ではそれなりに名の知れた地主。
多くの田畑や森林があったからこそ、万作はそれを元手に財閥を築くまでになったのだ。
見るからに山深く、辺境と呼ばれる地だが、地形を見る限りおいしい米が収穫出来そうである。
清流から引かれた用水もまんべんなく行き渡っていて、きちんとした管理が成されていると判る。
「そろそろ着陸しますよ。悠理……おじさんも席に戻ってください。」
清四郎がそう促すと、万作は素直にシートベルトを着用した。
広い校庭ではあったが、ヘリコプターなど滅多にやってこない。
それもこんな派手な色合いの機体は見たこともないだろう。
緊急時やドクターヘリのために作られたオレンジ色のマークは、いまだ真新しく光っていた。
7人が無事その地に降り立った時、不意に強い風が吹き抜ける。
春とはいえ、まだ冷たさの残る、肌を震わせるような荒々しい風。
空は真っ青でその辺の桜は蕾を芽吹かせようとしているのに、まだまだこんな風が吹くのかと、全員が身を縮めた。
「校庭の外にジャンボタクシーが待っています。皆さん、お気をつけて。」
ヘリコプターのパイロットはそう言い残すと、再びエンジンの音を上げる。
彼が次に戻ってくるのは七日後の朝。
それまで、七人はこの村に滞在する予定だ。
「コンビニってあるのかしら?」
「調べたんだが、村の外れに一軒だけあるみたいだぜ。でも朝八時から夕方五時までしか開いてないから、あんまり使えねぇな。」
「そういえば飲み屋も無さそうだね。あっても地元客しか受け入れてくれないだろうし。」
「今回は剣持家が所有する家を間借りするんでしょう?基本自炊でしょうし、スーパーで買い出ししなくてはなりませんわ。」
「肉も魚も、全部家まで運んでくれるだがや。必要なもんは何でも言うたらええ。」
想像した以上の田舎暮らしを強いられそうだが、それでもたまにはいいな、と皆は思い直した。
何せ、来月から花の大学生。
しばらくはバタバタと落ち着かない日々が続くだろう。
束の間の安らぎに身を浸すのも悪くはない。
タクシーに乗り込んだ7人は、どこか懐かしい光景に目を細める。
交差点に立つ、黄色い帽子を被った少年の看板。
信号が少ないため、事故を起こさぬよう注意喚起しているのだろう。
お地蔵様は一定の距離毎に建てられていて、全てに真新しい花が供えられていた。
村のほとんどが田畑。
集落までの道は、春苗を待つ田園風景が広がっている。
今ではあまり見なくなった公衆電話ボックスもチラホラ設置されていて、冬が雪深いせいか、どれも一段高い位置にあった。
ここだけ時が止まっているかのような錯覚を起こす。
「とても長閑で素敵ですわ。」
「そうねぇ……村人は何人くらいいるのかしら?」
「確か百人は居ないと思いますよ。95人だったか……」
「そのくらいなら、全員の顔覚えてそうだよね。」
「んだ。剣持家の縁戚関係がほとんどだべ。」
「マジで!?」
まさしく剣持帝国。
悠理はぞわっと肌を粟立てた。
「嫁や婿は隣県から連れてくるはずだが、好き好んでこんな田舎に来てくれる酔狂もんはいねぇべ。今じゃ若いもんが売れ残ってると聞いてるだ。」
「そうよねぇ……いくらお金持ちでも、ここで生活するのは御免だわ。」
「わたくしもさすがに……」
尻込みする女性二人と、ナンパを諦めた男一人。
万が一にでも手を出すと、次の日には村人全員に噂が広まってしまいそうだ。
何ならそのまま婚姻関係を強要される恐れもある。
長年トラブルに見舞われてきた金髪の貴公子も、ようやく人並みの危機感を抱くようになっていた。
「そろそろ着きますよ。あの少し高台にあるお屋敷が本家です。」
そう案内した中年のタクシー運転手もまた、剣持家に縁のある人物だった。
「うひゃあ~、でっけぇ。」
「古いだけだがや。」
見事な日本建築。
いぶし銀に光る瓦は葺き替えたばかりなのか、真新しい。
横に長く、母屋と離れはおよそ数百メートルは離れているだろう。
敷地内に蔵は三つ、いや四つか。
周りを囲む頑丈な石垣もまた極めて精巧な造りとなっていて、それはひとえに剣持家の財力を示していた。
「ねぇ、すっごくお金持ちじゃない?年頃の息子とか居ないかしら……」
「可憐ったら……。ついさっきまで田舎がどうこうおっしゃってましたでしょ?」
「次男坊なら問題ありませんよ、きっと。」
「そうよね!出来れば顔が整っていたらいいんだけど。」
自分の欲望に忠実な可憐をあきれ顔で見つめる5人。
毎度のこととはいえ、恋愛に向けるそのパワーが恐ろしい。
「結局は面食いなんですのね……」
野梨子は苦い顔で深い溜息を吐いた。
万作、そして6人が大広間に通されると、槇村憲吾(まきむらけんご)という使用人が恭しくやってきて、お茶の準備を始めた。
美しい茶器は一目で名のある作品だと判る。
恐らくは中国の作家。
万作の審美眼は煌めいたが、そこは敢えて何も言わず、出された茶を大人しく啜った。
やがて旬次郎がやってくる。
背が低く恰幅の良い男は、万作との共通点がありすぎた。
センスのかけらもないニットセーターと、厚地のズボン。
禿げ上がった頭は年齢よりも老けて見える。
髭は濃く、皺は深い。
円らな瞳だけが、ほんの少しの可愛げを与えているようだ。
「いやいや、遠いところようこそ、剣菱さん。」
「なんも遠くねえだ。ヘリで一時間ほどだったがや。」
二人は初対面だが、互いの父親同士はわりと親交があったらしい。
だからというわけではないが、最初から砕けた様子で挨拶を交わした。
「にしても、綺麗なお子さんたちですなあ。皆さんこの春で大学生とか?うちの娘も同じくらいの年頃でして。」
「わしの娘はこの悠理だけだがや。他の5人は皆、娘の仲良し友達だべ。」
「ほー。えらく美人な娘さんだ。お父さんに似なくてよかったね。」
さりげなく失礼な発言をするも、万作は気にした様子もない。
言われ慣れてるといったところか。
「せっかく来て下さったんだ。ここから直ぐの家を用意しましたので、自由に使ってくだされ。夜は我が家で歓迎会を開きます。是非ともご参加を。」
旬次郎の言葉に感謝を述べ、7人は剣持家を後にした。
「ところでおじさん、わざわざここに来た理由はなんですか?」
魅録が尋ねると、ちょっとだけ考え込んだ万作は「わしのひいじじいの遺産が、この村に残ってるかもしれねぇだ。」と驚き発言をかました。
「おじさま。それって、いったいどんな物なのかしら……」
興奮を押し殺し期待する可憐が身を乗り出す。
しかし万作は軽く首を振り、「金銀財宝じゃねぇだ。日記帳と鍵を探してるだよ。」と困ったように答えた。
よくよく聞けば、その日記帳は曽祖父が20年間ずっと書き続けていたもので、内容は誰も知らないらしい。
ただ日記帳に張り付けられた鍵は、彼が大事にしていた何かを保管している場所の物で、万作はどうしてもそれが知りたかった。
「その保管場所はこの村に?」
「という噂だがや。誰も知らねぇ場所に隠したと聞いてるだ。」
「いくらちっちぇ村でも、探すとなると大変だぞ?」
「剣持家が何かしら知ってる可能性があるんですか?」
確信めいた問いに万作は静かに頷く。
「ただ、さっきのじじいは知らねぇはずだ。恐らく……」
いつになく歯切れが悪いものの、7人は取り敢えず案内された家へと向かった。
そこは茅葺屋根が美しい古民家で、昔は剣持家に近い親族が住んでいたという。
退去してからの管理は本家が行っており、水回り、庭、部屋の手入れなど、全てがきちんと整っていた。
「懐かしい匂いですわ。」
「古いけど、いい感じじゃないか。」
「お布団もふっかふかよ。干してくれてたのね。」
「台所も広いじょ!」
「碁盤までありますよ。野梨子、後で一局どうです?」
「いいですわね。是非。」
一番広い座敷で三十畳ほどあり、皆それぞれ程よい大きさの和室を与えられた。
百年間建ち続けている屋敷だが、定期的に大工が入っているのだろう。
目だった傷みは見当たらない。
「父ちゃん、魅録!明日釣りに行こうぜ!」
田舎大好きの野生児が嬉しそうに誘いかけるも、万作は申し訳なさそうにそれを断った。
翌日、剣持家含む近隣地域の重鎮たちが集まり、さっそくもてなされるという。
剣菱財閥の会長ともなれば、そういった付き合いも無下には出来ないのだ。
「ちぇ。じゃ魅録、いいだろ?」
「わぁったわぁった。ところで釣り道具はどこから調達するんだ?」
「んなもん、作ればいいじゃん。竹と糸があれば‥‥」
「それこそ剣持さんに頼めばいいんじゃないの?」
「あ、そか。そだった。」
その後、荷解きをした7人は家の隅々まで探検した。
総檜風呂に喜び、ぼっとん便所に嘆き、屋根裏への軋む階段に怯え、テレビが存在しないことに驚く。
「たまにはいいじゃありませんか。のんびり虫の声でも聴いて過ごしましょう。」
「そうですわ。不自由な生活の中でめいいっぱい楽しみませんこと?」
風情を大切にする黒髪の二人。
手放しで賛同することは出来なかったが、それでも今は諦めるしかない。
「とにかく!飯!何よりも飯!!」
悠理がそう雄叫びをあげた為、皆は剣持本家を目指し腰を上げた。
それは贅を尽くした料理の数々。
襖を全て取り払った其処は四十畳にもなるだろう大座敷であった。
青々とした畳に、足の付いた漆塗りの御膳。
分厚い座布団と共に等間隔で並べられている。
ざっと数えればお膳は十五人分あった。
なかなか贅沢な空間の使い方である。
「どうぞお座りください。あ、剣菱様はこちらへ。」
槇村の案内で上座に座った万作は、目の前に並ぶ料理の数々に(なかなかやるだがや)と胸の中で褒めた。
山奥の村にしては鮮度の良い魚が揃っている。
小振りではあるものの伊勢海老らしき焼き物も添えられていた。
ほんの少し遅れて、剣持家の面々がやってくる。
旬次郎をはじめ、長男、次男、長女、そして旬次郎の妻が落ち着いた着物姿で現れた。
槇村に何かしらの指示を出した彼女は、万作の前に両膝を折り、深々と頭を下げる。
「ようこそおいでくださいました。操と申します。」
熟女と呼ばれる年頃だろうに、その肌の美しさは目を瞠るものがあり、可憐は驚きを隠せずにいた。
いつぞやのエステ事件以来の驚き。
豊かな黒髪。
白く細いうなじ。
なだらかな肩。
細面で品の良い顔にはシミ、皺は一切見当たらない。
全体的にほっそりしており、言葉で表すならば、花顔柳腰といったところであろうか。
艶やかさ、しおらしさ、そして滲み出す色気。
それら全てを兼ね備えた魔性をも感じる女性。
万作はそんな操の背中に妻・百合子と似通ったものを敏感に感じ取った。
「ねぇ、美童。あんたのストライクゾーンじゃないの?」
囁く可憐は隣に座る男を小突く。
しかし彼はゆっくり首を横に振った。
「……いや、あの手の女性はちょっとね。どちらかといえば娘の方がいいな。」
珍しく消極的な美童を不思議に思う可憐だったが、ふと視線を移せば、娘である美紗紀は地味でありながらも確かに整った顔立ちをしていた。
眼鏡の下に隠された大きな瞳と長い睫毛。
肩まで伸びた黒髪は艶やかで、一見純情そうであるが充分な女性らしさを湛えている。
「皆さん、私たちの子供とあまり変わらない年頃と窺いました。どうか仲良くしてやってくださいませね。」
順に自己紹介されるも皆一様に覇気がなく、形式的な挨拶を述べるだけ。
雰囲気だけは同じような三兄妹。
しかし誰一人として父親に似てはいなかった。
「さぁさ!どんどん飲んで食べて、楽しんでください!!酒もたんと用意しておりますんで。」
旬次郎がそう仕切ったところに、遅れてやってくる三人の男女。
一人はスーツ姿のサラリーマン風情。
もう一人は着物姿の見目麗しい青年。
そして最後におどおどしながら入ってきたのは、青白い顔をした幸薄そうな細身の女だった。
「済みません、遅くなりまして。」
旬次郎へ深く頭を下げ謝罪したのはサラリーマン風の男。
名を剣持羽鳥(けんもちはとり)といい、どうやら旬次郎の従弟にあたるらしい。
地元の小さな高校で教鞭を振るっていると語った。
教員不足な為、一通りの教科を受け持っているとも……。
そんな真面目そうな彼の後ろに佇む二人は、弟の和彦とその許嫁である滝江涼音(たきえすずね)。
陶芸家の和彦は無精ひげを生やしているが、面立ちはとても凛々しく美しい。
体つきも大きく、恐らくは長年鍛えてきた容貌だ。
彼らは決して馴染んだ仲には見えないが、もしかすると年齢が離れているからかもしれない。
涼音はまだ19歳。
二十歳を迎えたら嫁ぐことになっていた。
そんな和彦を見て目がハートマークに変化する可憐。
この村に来て初めてのターゲット発見!といったところだろう。
「これで皆揃いましたな。改めて乾杯といきましょうか!」
槇村が準備したのは地元の酒’千景’。
年間百本しか製造されない幻の大吟醸酒だった。
「お!これ美味いな。」
魅録がうれしそうに唇を舐める。
透き通った飲み口なのに、じわっと甘みが喉に広がる。
悠理もまたぐい吞み一杯のそれに舌鼓をうった。
確かにこれは美味い!
すかさず「おかわり」を要求する。
「それにしても素晴らしい村ですね。日本の原風景のようで思わず見惚れてしまいました。」
旬次郎へと話しかけた清四郎は、彼の目がスッと光を曇らせた事に気付いた。
どうやら、さほど面白くない話らしい。
「見た目はそうでしょうとも。しかし実情はなかなか厳しいものでして……。身内がほとんどの土地なんですが、今の若いもんは都会に逃げ出してしまい、結局は成り立たんのです。」
「どこも同じだがや……。今は農業だけではやっていけん。若人は苦労することを嫌がるもんだから。」
「剣菱さんほどの見識をお持ちなら、何かと活気づけることも出来るんでしょうが……不肖な私めはそんな実力もございませんで。」
とってつけたような褒め言葉でありながらもそれは本音であり、旬次郎は薄い頭を雑に掻いた。
「んなもん、わしも解らん。」
そう言って酒を煽る万作にぴったりと寄り添い酌をする操。
(玄人だな)
魅録は直感的にそう認識した。
その夜の宴会は和やかな雰囲気で幕を閉じ、7人は茅葺屋敷へとほろ酔い加減で戻る。
月明かりの美しい夜。
ほどよく冷えた空気が酔い覚ましに丁度良かった。
剣持家を出て数十メートル離れた頃、後ろから「すみません!」と辺りを気にしたような呼び声が聞こえた。
皆が振り返ると、そこには旬次郎の娘、美紗紀が息を切らし立っている。
「ごめんなさい、呼び止めて……」
「いえ、何かありましたか?」
清四郎が酔っ払い悠理の首根っこを掴みながら尋ねると、美紗紀は呼吸を整えた後、急に頭を下げた。
「菊正宗さんはお医者様のご子息でとても頭が良いとうかがいました。実は私も東京の医大を目指しているんです!お願いします。少しの時間でいいので、勉強を見てもらえないでしょうか?」
突拍子もないお願いに、言葉を失う。
しかし月明かりに照らされたその表情は真剣そのもので、清四郎もなんと答えていいか考えあぐねた。
「あら、よろしいじゃありませんの。一日数時間くらい。」
野梨子が助け舟を出す。
それは美紗紀の本気を受けての言葉だった。
「いいんじゃなぁい?今すぐにでも医学部に入学できるくらいの頭は持ってるんだから……人助けよ、人助け!」
可憐が追随し、結局清四郎はその要望に応えることとなった。
「ありがとうございます!特に数学が伸び悩んでいたので、よろしくお願いします!」
受験生らしい焦りと不安を抱えていたのだろう。
美紗紀は弾けんばかりの笑顔を見せ喜ぶ。
「分かりました。場所はどこで?」
「もし、良ろしければ、皆さんのお屋敷にお邪魔してもいいですか?うちは勉強する環境には向いていないので……」
あんな大きなお屋敷で一体何が不都合だというのか?
そんな疑問を封じ、清四郎はにこやかに承諾した。
「……いいですよ。では夕飯の後に時間を設けましょう。明日からでいいですか?」
もう一度深く頭を下げた彼女は、足取り軽く来た道を戻っていく。
自分たちとそう変わらぬ年齢だというのに、その純粋さと真っ直ぐな精神は眩しかった。
「ふ~ん、人助けねぇ。」
美童がチラリと視線を投げるも、清四郎は用水に転び落ちそうな悠理の首根っこを掴み、説教を垂れている。
お釈迦さまと孫悟空とはよく言ったもので……。
だが二人は男女。
それも若き男女だ。
両想いなのは見ていて解る。
そしてなかなか進展しない理由も、美童は解っていた。
「これが一つの切っ掛けになるといいんだけどね。」
小さく呟いた声は誰の耳にも届かず、夜風に流されていった。
翌朝────
懐かしい土間の炊事場で、可憐と野梨子は仲良く朝食の支度にいそしんでいた。
早朝、日が昇ると同時、屋敷の勝手口には大量の野菜と新鮮な卵、米、干物、鶏肉が大きな箱三つ分置かれており、それを見つけた清四郎が嬉々として運んでおいたのだ。
「これって地鶏よね。おいしそうだわ。」
「野菜も朝採れじゃありませんの!きのこもこんなにたくさん。」
どうやら剣持家の槇村が用意させたものらしい。
箱の上には彼の携帯番号が書かれており、「いつでも何でも準備いたします」とシンプルなメッセージが残っていた。
なかなかに気の利く男である。
料理上手な二人が、釜炊きご飯、お味噌汁、干物焼き、おひたし、新鮮な卵の茶碗蒸しを作り上げたところで、残りのメンバーものんびり顔を出す。
皆、ぐっすり眠れたらしい。
穏やかな田舎の空気は神経を和らげる効果がある。
「うわっ!うまそう!」
起床直後から腹を空かせている悠理が、思わず喜びの声を上げた。
「へぇ、大したもんだな。これほどの数の地卵を用意出来るなんて。」
感心する魅録。
「さすがにコーヒーは無い、よね?」
モーニングコーヒーを欠かさない美童へ、野梨子が淹れたてのマグカップを差し出した。
「可憐がちゃんと豆を持ってきましたのよ。感謝なさって。」
「Tack så mycket.(ありがとう)」
広い座敷で朝食を終えた彼らは、この美しい村で各々の時間をどう過ごそうか、考えあぐねる。
可憐は「確かに暇よねぇ……」とぼやいていたが、昨日出会った陶芸家とどうにかして接点が持てないか、野望を滾らせていた。
そうこうしている内に、悠理と魅録は釣り道具を借りる為、剣持本家へと向かう。
清四郎と野梨子は縁側で碁盤を広げ、一局打つつもりだ。
爽やかな風が吹き抜け、鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる環境に、二人は心安らぐ思いだった。
────────
朝夕は冷えるものの、日中は春の温かな日差しを感じる。
美童は可憐と二人、村の散策に出かけた。
おあつらえ向きに屋敷の裏戸には二台の自転車が立てかけられていて、それを使えば村中をサイクリング出来る。
恐らく30分も漕げば、外れに辿り着くだろう。
彼らの目的は一つ。
小さなロマンスを見つけることだった。
しかし────
屋敷から3kmほど離れた地点で、辺りは田んぼが広がるだけ。
簡易郵便局らしきものはあったが、売店すら見当たらない。
つがいの蝶々が戯れ、鳥が囀り、平和を絵に描いたような村。
可憐は思わず天を仰ぎたくなった。
「ほんっと……何も無いわね。」
「いいじゃないか、たまには。」
「よく言うわよ。だいたいあんたのターゲットは決まってるんでしょ?」
「そういう可憐だって、他人の婚約者に色目を使ってたじゃないか。」
「ふん!当然じゃない。黙って指くわえてるだけじゃ、恋は落ちてこないもの。」
見目麗しい二人が言い合いしながら自転車を漕ぐ姿に、通りすがりの村人たちは目を瞠る。
白いワンピース姿の艶めかしい美女と、金髪をなびかせる端正な顔立ちの青年。
どう考えてもこの村には似つかわしくない。
二人が村外れのコンビニまで辿り着いた時、すでに時計は正午を指していた。
ここが魅録の言っていた店だと判明したのは、看板に書かれている営業時間だ。
朝八時から夕方五時。
なんと日曜は定休日となっている。
これまた使えない……と二人は溜息を洩らした。
「この辺でカフェでもないかしら。」
「そうだね……聞いてみようか。」
美童が先陣を切ってコンビニに入ると、涼しい空気が肌を撫でる。
初春とはいえ、ずっと自転車を漕いできたのだ。
彼の背中はほんのり汗ばんでいた。
「済みません。」
レジ横でそう呼びかけると、タバコの整理をしていた婦人がくるりと振り返り「いらっしゃいませ!」と笑顔を見せた。
明るく溌剌とした笑顔。
ほんのり色の抜けたショートヘアと耳を飾る小さなピアス。
身体はほっそりしているが、わりと豊かな胸だと見て取れる。
年齢こそ三十半ばだろう。
シンプルな白Tシャツにジーンズを履き、店の名前がプリントされたエプロンを着けている。
スッピンに近い薄メイクでも極めて美しい肌をしており、何よりも彼女の纏う雰囲気が実に若々しかった。
美童は我知らず見惚れていた。が、咳払いで誤魔化す。
特別美人なわけでもないのに、男を惹きつける不思議な魅力を持つ女性。
左の薬指にリングがなかったら、即座にナンパしたはずだ。
「あの……この辺りで軽食が食べられる店ってありますか?」
金髪の長い髪を物珍しそうに見つめながらも、彼女は「ええ!ありますよ。」と快活に答え、たちまち引き出しからメモ帳を取り出した。
そこに美しい文字で店の名を書き記す。
細い手首には懐かしいかな、カラフルなミサンガが巻き付けられていた。
「お客さん、自転車?」
「え?ああ、そうです。」
「それならこの’AND’って喫茶店がお勧めよ。ランチタイムは自家製カレーととっておきのコーヒーが飲めるんです。」
「へぇ……いいな。」
「もう一つは少し離れてるけど、’桜亭’って定食屋があって、そこもうどんがおいしいですよ。」
彼女の胸にある名札をチラっと見ると、どこかで聞いた苗字が書かれていて、美童は思わず尋ねてしまった。
「槇村さん?」
「……あ、はい。槇村ですが。」
「もしかして……剣持の本家で働いている男性の……」
「まぁ!うちの主人と面識があるんですか?」
屈託のない笑顔で槇村の妻は驚いてみせた。
本当に素敵な笑顔だ、と美童は思ったが結局は人妻。
こんな閉鎖的な田舎で火遊びするならば、相手は慎重に選ばなくてはならない。
そういう意味で彼女は失格だった。
「昨日からお世話になってます。僕は美童グランマニエ、美童と呼んでください。」
軽やかに頭を下げ、丁寧に挨拶する貴公子。
その優雅な姿に槇村の妻、倫子(りんこ)は「ほぅ‥」と感嘆の息を吐いた。
「こちらこそ、剣持さんのお客さんだとは知らず、失礼いたしました。噂では聞いていたんですがね。まさかこんなハンサムさんがいらっしゃってるとは……!うちの旦那ったら、なんで教えてくれなかったのかしら。」
ぶつぶつ文句を言いながらもメモを二つ折りにし、美童に手渡す。
その白く細い腕にすら見惚れてしまう美童だったが、結局それを受け取ると「助かりました」と告げ、店を出た。
「遅かったじゃないの。」
可憐がぼやく。
「ごめん。でも情報はばっちりさ。この先に美味しい店があるんだって。」
「ま、期待しないで行ってみましょ。」
折りたたまれた紙をそっと胸ポケットに収め、美童は後ろ髪惹かれる思いで自転車を漕ぎ始めた。
「あら、本当。美味しいわ。」
料理自慢の彼女が素直に褒めるのは珍しいこと。
ブレンドされたスパイスをしっかり舌の上で感じるそのカレーは、ほんのりビターな大人の味だった。
シンプルな白い皿に、色とりどりの野菜ピクルス。
カレーの具はよーく煮込まれており、唯一地鶏っぽい肉の欠片が複数個残っている。
旨味と香ばしさが交互に訪れる見事な出来映え。
可憐の舌にしっかりと味が刻まれた。
とにかく狭い店内だ。
昼時ということもあり、ほぼ満席状態のそこで、50過ぎのマスターが一人で切り盛りしていた。
日に焼け、深い皺が刻まれた顔。
瞳は茶褐色でどことなく異国の血が混じっている風貌だ。
背丈は180ほどあるだろう。
広く屈強な肩幅から見るに、何かしらのスポーツをしているのは明白だった。
「このコーヒーも美味しいよ。」
美童は満足そうに香りを楽しむ。
朝の珈琲も旨かったが、今口にしているものは野性味を感じる本格的な深みがあった。
恐らく店主がブレンドしているのだろう。
強いこだわりを感じた。
周囲の露骨な視線を感じながらも、二人はのんびりランチタイムを楽しむ。
どこへ行っても目立つ彼らだからこそ、そういったスキルは自然と身についていた。
「あんたたち、どっから来たの?」
不意に斜め後ろのソファ席から声をかけられ、美童と可憐は視線を流した。
そこには五十過ぎの女性二人が、目をキラキラ輝かせながらこっちを見つめていて、どうやら見慣れぬ異邦人に興味を持ったらしい。
ちょっと前のめりに尋ねてくる。
「東京です。」
「ああ、やっぱりねぇ。見た目からして垢抜けてるもの!」
「こんな田舎じゃ、20キロ進んでも見当たらんわ~。ここには観光?泊り?」
「春休みを使った旅行って感じです。昨日から剣持さんにお世話になってるんですよ。」
美童が和やかに答えると、二人は一瞬にして顔色が変わってしまった。
「あ、あら。まあ、そうなの。本家さんの……」
「それはそれは……遠いところまでようこそ。」
ねぎらいの言葉に反し、ぎこちない反応を見せる二人。
可憐は美童と目と目で会話し、頷き合った。
どうやらきな臭い香りがする。
ここはひとつ突っ込んでみるか。
「あたしたち、実は’剣菱万作’の連れなんです。ご存じですか?」
可憐が確信をもって尋ねると、女性達は案の定食いついた。
「んまぁ!剣菱ってあの剣菱?そりゃあ知ってるわよ。大財閥じゃないの!」
「昔はこの辺り一帯、山越えた村すら剣菱のもんだったって、ばあちゃん達から聞いてるからねぇ。」
打って変わって、二人は誇らしげに語る。
どうやら剣持より剣菱の名は評判が良いらしい。
むしろ剣持本家に対し含みのある彼女たち。
相手の懐に入ることが上手な可憐と美童は、ここぞとばかりに世間話を始める。
そしてそこから引き出した内容は、ある意味驚愕の事実だった。
「意外と釣れねぇなぁ……。」
川の水は美しく、かといって美しすぎず、釣れてもおかしくはない雰囲気の水質なのだが、魅録の釣り針には未だ一つの魚もかかってはこない。
二時間経過。
川の中で網を振り回す野生児を見つめながら、彼は深くため息を吐いた。
もっと上流まで進んでみるかと思えど、昼飯のことを考えればあまり屋敷から離れたくはない。
釣り道具だけでなく軽トラも借りるべきだったかと、今更思い至る魅録。
もう少しすれば、悠理が空腹に騒ぎ出すことは明らかだ。
「悠理!どうする?一旦戻るか?」
春の水はまだ冷たいというのに、そんなことは気にせず、美しい自然に身を任せる彼女はまだまだ子供の様で思わず口元が綻ぶ。
来月には大学生。
出会った時は中学生だった。
あまり成長してない彼女だが、最近ではほんの少し女っぽさを見せる時があり、混乱する。
どういう意味が隠れているのかまでは掴めないが、それでも着実に変化を遂げている悠理を、友人として見守っていきたい────魅録はそう考えていた。
「一匹くらい持って帰りたかったじょ……」
「ぼやくな。午後から場所変えてトライしてみようぜ。」
トボトボと川岸に戻ってきた悠理にスポーツタオルを渡し、釣り具を片付け始める。
成果のない釣りほど面白くないものはない。
自分の目利きが衰えたのかと落ち込みかけた時、彼の背後十メートル辺りで、小学生くらいの子供がじっとこちらを見ていることに気付いた。
「ん?村の子か……」
おかっぱの少女。
身長から察するに低学年だろう。
赤い着物を着て立ち尽くすその姿は、恐怖の記憶にある日本人形のようだった。
物珍しいのか、真っ直ぐな視線を投げかけ、かといって近付こうとはしない。
おちょぼ口も閉じられたまま。
「どったの?魅録……」
彼の視線を追った悠理だったが、その女の子を見た瞬間、身の毛がよだつ感覚に囚われた。
それは何度も経験してきたあの感覚。
思わず魅録の腕にしがみついたが、肌の震えは消えたりしない。
いわゆる危険信号だ。
「なんだよ……悠理?」
「あ、あ、あいつ…………見えんの?」
「はぁ?」
霊感など持ち合わせていない魅録だったが、さすがに少女を幽霊と認めることは出来ず、逃げ出そうとする悠理の首根っこを掴み、彼女の元へと歩みを進める。
「や、やばいって!魅録!離せよ!」
昼の日中から姿を現す幽霊など、恐怖を通り越して異様だ。
しかし魅録たちが近付いたはずなのに、彼女との距離は一向に縮まらず、それが仄かな恐怖を与えた。
顔面蒼白になった悠理は暴れ、少しの隙をついて逃げようとする。
歯はがたがたと震え、今にも小便がちびりそうなほど。
とてもじゃないが、魅録の好奇心に付き合っている余裕などない。
「おまえ、誰だ?」
結局近付くことを諦めた魅録は、少女に話しかけることにした。
すると────
「菊。菊だよ。」
か弱い声で、しかしはっきりとそう答える。
「菊?どこから来たんだ?」
その頃の魅録は彼女が生きた人間でないことを肌で感じ取っていた。
温かい春風がそよいでいるというのに、少女の髪はぴくりとも揺れないからだ。
菊と名乗った彼女はゆっくりと手を上げ、指を差す。
その方向には村唯一の小さな寺があり、恐らくは剣持一族の墓が並んでいるはずだ。
(何が言いたい?どんな意味があるんだ?)
「み、魅録!もう嫌だってば!」
氷のように冷えた手で、悠理は魅録の背中をぶつ。
そこでようやく我に返った魅録は、傍らにいる悠理へと視線を戻した。
「わりぃ。でも、ここまではっきり見えるのは珍しいからよ。」
「ばっきゃろぉ!!とにかく手ぇ離せよ!あたいは帰るんだい!」
これ以上は酷か、と悠理の手を放し子供を振り返ると、もうそこには人影すら残っていなかった。
さすがにぞっとする魅録。
だがそれほどまでの危機感を抱かせない幽霊だなと思い至り、一先ず片付けを再開する。
悠理はとっくの昔に駆け出し、あっという間に小さな背中となっていた。
逃げ足だけは世界一だな、と思う。
「なかなかどうして。面白くなりそうじゃねぇか。」
生ぬるい風が吹き抜ける中、彼の鋭い目が野性的に光った。
「そろそろお昼の支度を始めますわ。悠理たちも帰ってくるでしょうし。」
「そう……ですな。」
二勝一敗。
優秀な幼馴染を負かした野梨子は、余裕の笑みで立ち上がる。
清四郎は苦悶の表情で顎を撫でるが、結局はぐうの音も出ず、「手伝いましょう。」と後に続いた。
そこへ玄関から「ごめんください」と涼やかな声が響く。
野梨子と清四郎が顔を出すと、剣持 操が娘、美紗紀と共に立っていた。
揃った二人は淡い桜色のワンピース姿。
夕べの着物姿とは違い、若々しさと清楚感が溢れている。
豊かな黒髪を肩に垂らす二人だが、どちらかといえば操の方が似合っていた。
年の離れた姉妹と言われれば信じる者も多いだろう。
「ごめんなさいね、急に。」
母親はあからさまな目配せで娘を促すと、彼女は持っていた紙袋を野梨子の前に差し出した。
「お口に合うか分かりませんが、二人で煮物を作りましたの。なんてことはない田舎料理ですのよ。是非皆さんで召し上がってくださると嬉しいですわ。」
「まぁ、お気遣い感謝します。丁度お昼ご飯を作るところだったので助かりますわ。」
にっこり微笑む野梨子が受け取ると、美紗紀はホッとした表情で手を離した。
「娘の勉強を見ていただけると聞いて、感謝しておりますのよ。本当に出来の悪い子ですから、ご迷惑おかけするんじゃ……と不安ですけども。」
それは決して謙遜から生まれた言葉ではなかった。
娘を下に見ていると明らかにわかる台詞。
蔑むような視線で見つめる操に対し、耐え忍ぶ表情で足下を見つめる娘。
昨夜の輝くような瞳の美紗紀とは全く違っている。
二人の関係は一般的な母娘ではない────清四郎はそう推察した。
「微力ながら、お手伝いさせていただきますよ。」
「よろしくお願いいたします。」
二人が帰った後、野梨子はそそくさと台所へ消えた。
恐らくは、冷蔵庫から厚揚げを取り出し焼くつもりだろう。
完璧な和定食を想像しながら、清四郎は中庭の景色を眺める。
剣持美紗紀が医学部を目指す理由。
そしてそれを叶わぬ夢のように扱う母、操。
確かにこんな田舎で難関の、それも東京の大学へ進学することはハードルが高いのかもしれない。
とはいえ、こんな田舎だからこそ医者の道を選ぶことは誇らしいのではないか?
今の世の中、男だから、女だからといった区別は少ないはず。
美紗紀の進路を快く思わぬ母の心情が見えてこない。
「今どき、箱入り娘でもあるまいに…」
白鹿家ほどの家ですら、両親は比較的リベラルな考えを持つ。
野梨子が強く希望するならば、家元を継ぐ必要がないと思っていることだろう。
願うは娘の幸せのみ。
大昔は自分たちが婚姻することを心のどこかで願っていたかもしれないが、今はもう家族として扱ってくれている。
それは清四郎にとって非常にありがたい話だった。
「本当の箱入りは、あいつかもしれませんけどね。」
剣菱という大きな箱の中、それなりの自由を与えられている悠理は、娘を溺愛する両親にとって箱入り娘そのものかもしれない。
剣菱悠理という名の下で自由に、そして窮屈な人生を送る未来はほぼ確定事項だ。
彼女が’剣菱’という名を捨てることは一生出来ないだろう。
だからこそ、悠理の結婚相手は重視される。
剣菱を担うことが出来、彼女を一生保護する相手。
あの時、あの両親に選ばれた自分は、もしかするとかなり栄誉な事だったのかもしれないな、と清四郎は自嘲した。
────────
「たっだいま~!!腹減ったじょ~!」
元気な声が屋敷全体に響き渡る。
小学生のように乱暴に靴を脱ぎ捨て、いい香りがする台所へ直行しようとする姿はこの先もずっと変わらない。
「おかえり。魅録は?」
笑いを堪えながらも優しく出迎えた清四郎は、悠理のシャツと短パンが濡れていることに気付く。
どうやら釣りだけでは物足りなかったようだ。
川遊びでほぼ全身びしょ濡れ状態、艶のある床に足跡までついている。
唯一頭だけはスポーツタオルに覆われているが。
「魅録は外で釣り道具の手入れしてるぞ!」
「で、成果は?」
「……ゼロ。」
「なるほど。濡れネズミが一匹帰ってきただけか。」
「しょーがないじゃん……あの川綺麗なだけで、ちっとも魚いないんだもん。」
不満を口にしながらも鼻をひくひく動かす彼女は、昼ご飯のメニューに意識を奪われているのだろう。
お味噌汁の香り、厚揚げの香ばしさ、卵焼き、ご飯の炊ける甘い匂い。
どれも悠理の好物だった。
さっき目の当たりにした幽霊らしき子供のことなど頭から消し去ったのか、空腹をどう満たそうか、それだけに集中している。
「とにかく体を拭いて着替えてきなさい。」
「え~?腹減ったんだけど……」
食欲が何よりも優先される悠理に対し、清四郎はスッと指を差す。
「透けてますよ。」
「ん?何が……」
指し示す方向を見下ろした悠理はカッと顔を染め、慌てて両腕でそれを隠した。
「み、見たな!!?」
「……不本意ながら。」
「清四郎のスケベ!!」
「強制的に見せられたこちらが被害者ですよ。」
そんな皮肉を口にしながらも、清四郎の脳内は「悪くない」という評価で満たされている。
常日頃から女性らしさとは無縁の女だが、それでも彼にとっては可愛いペット。特別な存在だ。
彼女の秘められた部分に興味を持つことは決しておかしくなかった。
「だいたい下着くらい着けなさい。」
「川遊びするのに邪魔じゃんか!」
「あのねぇ、来月から大学生でしょうが……少しは恥じらいを……」
「無駄ですわよ、清四郎。」
エプロン姿の野梨子が呆れたように会話を区切った。
手には大皿いっぱいの煮物。
綺麗に飾り切りされた根菜、照りのある鶏肉、彩りのフキなどが大量に詰まれていた。
手が込んでいるとひと目でわかる。
悠理の目は途端に輝き、涎を垂らさんばかりに覗き込む。
「え、すっごく美味そう!!野梨子が作ったのか?」
「剣持の奥様からの差し入れですの。さ、手を洗って着替えてらっしゃいな。」
「うん!」
風の如き速さで洗面所へと駆けていった悠理の背中を見つめながら、野梨子は清四郎の腕を肘で小突く。
「なんです?」
「鼻の下、伸びてませんこと?」
見透かされたのか、と一瞬焦る清四郎だったが、そこは長年鍛え上げたポーカーフェイスを発動。
「まさか、あり得ません。」と切り上げ、涼しい顔で食卓へと向かった。
「悠理、雨降ってきたぞ。」
「え?マジ?」
どうやら午後からの天気予報は外れたらしい。
暗雲がたちこめ、縁側から見える庭にはすでに水たまりが出来ていた。
「釣りは諦めるしかねぇな。」
「ちぇ。詰まんない。」
魅録の背中にしがみつきながら、何か暇つぶし出来るアイテムは無いかと尋ねるも、魅録はすっかり昼寝モードに入っていた。
いつも以上の満腹感。
美童と可憐が帰ってこない為、余分なおかずを食べる羽目となったのだ。
もちろんそのほとんどは悠理の胃袋に収まったが。
「おまえものんびりしとけよ。何なら勉強でも教えてもらえ。清四郎も野梨子も居るんだしよ。」
「絶対やだ!!」
当然の返答を叫ぶと、悠理は鬱陶しげに暗い空を見上げた。
このまま夕方まで降り続きそうな雨。
かといって、じっとしているのは性に合わない。
「父ちゃん、帰ってこないかな……」
「接待を受けてるんです。どうせ宴会や何やらで夜遅くまで帰ってこないでしょう。」
気付けば清四郎が背後に立っていて、高身長な彼は軒先の雨どいを確認する。
見た感じ、去年の秋からの落ち葉が溜まっているらしく、樋がきちんと機能していないようだった。
「少し掃除してみましょうか。」
「え?雨だぞ?」
「万が一大雨になると厄介な事態に陥るので。」
そう言って一旦どこかへと消えた清四郎は、庭の倉庫にあった脚立を取り出し、一階の屋根に立てかけた。
「あたい、下で支えてやるよ。」
「また濡れますよ?」
「風呂入ればいいじゃん。」
「ではお言葉に甘えますか。しっかり掴んでいてくださいね。」
手に小さな箒を持ちながら難なく脚立を上った清四郎は、たちまち大量の落ち葉を踏み石の上に落とす。
どうやらこういった掃除の経験があるらしい。
たかだか数分で雨どいを流れる水に澱みがなくなった。
とはいえ全身はびしょ濡れ。
もちろん悠理も同じだ。
「まあ、二人とも風邪をひきますわよ!」
水仕事を終えた野梨子がやってきて、慌ててタオルを差し出す。
濡れネズミ二人を見つめながら、どことなく険しい表情だ。
そして「子供じゃないんだから」と言わんばかりに深い溜息を吐いた。
「直ぐにお風呂を沸かしますから、二人とも入ってくださいな。」
そう言って小走りに浴室へと消えていく。
「そんなやわな鍛え方はしてませんけどね。」
苦笑しながらも、清四郎は手渡されたタオルで悠理を包むと、更に自らの物も使い、彼女の髪を拭った。
「なんだよ?あたいだって丈夫だぞ?」
「一応女ですからね。冷えは大敵ですよ。」
そんな聞き慣れない労わりに、こそばゆい思いが駆け抜け、悠理はタオルの中で赤面する。
(なんか、最近、変だ‥‥)
時々──
本当に時々なのだが、彼の視線に友人以上の熱量を感じ始めている。
その本質が解らぬまま、いつも通り振舞ってはいるものの、今みたいに優しくされると胸の奥が絞られ、緊張が走るのだ。
(清四郎があたいに優しいなんて、どう考えてもおかしいのに……)
───それでも
もしかしたら
彼の中で何かが変化しているというのなら───
悠理とて育ちつつある感情の蓋を開け放ってみたいと思う。
「清四郎……」
「ん?」
息を詰めたまま悠理は口を開く。
「おまえ……あたいのこと、どう思ってんだ?」
彼の心を知りたいと願ったのはこれが初めてだった。
タオルから片目で清四郎を見上げる悠理は、いつになく真面目な面持ちで答えを待ち続けた。
強まる雨音はいつしか耳から遠ざかり、ただひたすら清四郎の言葉を待つ。
呼吸の欠片すら聞き漏らすまいと全神経を彼の口元に集中させた。
「…………僕の気持ちを聞いて、その後、どうするんです?」
「そ……それは、わかんないけど、いや……答え次第っていうか……」
滴る雨粒を長い指で払いのける清四郎の口角がほんのり歪む。
「僕こそ聞きたい。おまえは僕をどう思ってる?ただの友達か?それとも……」
タオルの端を引き寄せ、互いの顔が磁石のように近付いた時、清四郎は悠理の濡れた睫毛を見つめ、ふっと息を吐いた。
瞬間、吐息に震える瞼をほんの少し閉じた悠理に、彼は攻めの一手を見せる。
チュ……
まさしく先手必勝。
これ以上ない答えである。
「わわっ!おまえ!チューしやがったな!?」
「そっちこそ、僕の気持ちを知りたいと言ったでしょうに。」
「そ……そだけど、だからっていきなり……」
「間の抜けた……もとい、可愛い顔を無防備に晒しているのが悪いんですよ……」
ドスレートすぎる甘ったるい台詞。
悠理が反論する間もなく、二度目のキスは降ってきた。
すっぽりと覆われたタオルの中で、二人の唇は優しく触れ合う。
「好きです……」
離れ際に囁かれた告白が彼女の胸を強く打つ。
それは生まれて初めて受け止めた甘い衝撃だった。
さざ波とも荒波とも言える、自分ではコントロールし難い感情の揺れ。
嫌悪感はなく、ただただ不思議な感覚に陥った。
冗談ではないのだ。
彼の目がそう物語っている。
だが想いを伝えられたとて悠理は何と答えたらいいのか分からない。
今、自分の中で渦巻く思い。
それは────
単純に清四郎の側に居たい。
彼を他の誰にも取られたくない。
そんな根本的な我慾にブレは見当たらず、しかしながらそれが恋かと聞かれれば難しいところだった。
子供じみた独占欲と言われればそれまでだが………
「わ、わぁった……」
「───それだけですか?」
「だって、あたい……わかんないんだもん。おまえとおんなじ気持ちなのかどうかなんて……」
「同じはずないでしょう。」
唐突に遮られ、悠理は驚く。
「同じはずがない。僕のこの気持ちが……この恋情が同じ重みだとは思わない。だけど今はおまえの気持ちが知りたい。ただそれだけなんだ。」
真摯な目に圧倒され、悠理の中にある不明瞭な思いが徐々に膨らみ始める。
今、それを伝えなくてはきっと機会を逃してしまうだろうことも、なんとなく予測できた。
「…………側に居てほしい。誰よりも近くに居てほしい。ずっと…………離れないでくれよ……」
選ぶ言葉は稚拙なものだったが、悠理は震える唇で必死に紡いだ。
その告白を受け入れた清四郎は天を仰ぎ、目を閉じる。
いつから────
いつからこの子ザルを好きになっていたのだろう。
認めたくない恋愛感情を突き付けられたのは、高校卒業間際だったような気がする。
春遠い、みぞれ混じりの雨が降ったその日。
濡れた路面に一匹の野良猫が横たわっていた。
視界が悪い中、運悪く車に轢かれてしまったとみえる。
下校時の悠理がそんな小さな命を見捨てることなど出来ず、傘と鞄を放り投げ、小走りに道路の真ん中へと飛び出していった。
僕と野梨子の止める声も聞かずに……。
躊躇いなく制服のスカートで包み込んだ彼女から、雨とは違う美しい涙が頬を伝う。
「くそっ!誰だよ、こんな……。」
憤りを迸らせる中、しかしその哀れな命は徐々に光を失っていった。
「清四郎!!助かるよな!医者に行けばいいんだろ!?なっ!?タクシー………いや救急車呼んでくれ!」
彼女自身、理解していたはずだ。
それでもその現実を受け止めたくなかったのだろう。
ポロポロと零れる涙をそのままに、間もなく悠理のスカートの中で小さな猫は息絶えた。
僕と野梨子は何も言うことが出来ず、ただただ立ち竦む。
悔しそうに奥歯を噛みしめながら、悠理は雨天を仰いだ。
その横顔に僕の心は絞られ、そしてそこに小さな愛が芽生えたのだ。
金輪際、こんな悲痛な表情をさせたくない、と。
震える身体を強く抱きしめてやりたい、と。
「離れませんよ。おまえがどれほど嫌がっても、僕はずっと……悠理の側に居たいんだ。」
二人だけの小さな会話は激しい雨音が消してくれる。
野梨子が戻ってくるその時まで───
潤む悠理の目に喜びが浮かんだのを確かめた後、清四郎はもう一度頬に唇を寄せた。
可憐と美童が戻り、皆で食卓を囲んでいると、可憐が突如として口火を切った。
「そういえば、剣持さんとこの奥さん、昔女優だったんですって。」
「へぇ……。ま、そう言われれば確かに美人だよな。」
「そこはかとなくオーラが漂っていますものね。」
野梨子と魅録が納得する。
「それだけじゃないの。今の旦那さんと結婚する前、大物政治家の愛人だったみたいよ?ほら、一度首相にまで上り詰めた毛内って人いたじゃない?」
「え、まさかあの’毛内俊二’ですか?」
それは誰もが知っている総理大臣の名で、清四郎は思わず眉を顰めた。
「そうなんだよ。噂じゃ彼女の母親も毛内と関係あったらしいんだけど、真相はわかんないよねぇ。」
美童の追随に今度は野梨子が眉を顰める。
まるで女性の敵と言わんばかりに。
「確かにあのじじい、女癖悪かったからなぁ……。今はもう引退してんだろ?軽井沢の別荘に引っ込んでるって聞いたぜ。」
頭の中から情報を引き出す魅録に、可憐は合いの手を打った。
「もっと怖い話なんだけど、あのパッとしない龍臣って息子いたでしょ?彼、もしかしたら毛内の子じゃないかって囁かれてるの。」
「いや、さすがにそれは無いんじゃ……」
魅録の訂正に可憐は首を振る。
「そうとも言い切れないんだって。あの奥さん、結婚してからも月に一回はここを離れて東京に出かけてたらしいわ。しばらく関係が続いてたんじゃないかって、村の皆はそう信じてるみたい。」
「もしそれが本当だとしたら、彼の肩身は狭いんじゃありませんこと?」
「そりゃそうでしょうね。毛内が認知してるんだったらともかく……針の筵でしょうよ。剣持の当主はそれを知っているのかしらね。」
どこまでが本当かわからぬ話。
けれど煙の無いところに火は立たないという諺通り、何かしらの真実は隠されているのだろう。
「そうなってくると、あの高校生のお嬢さんも怪しいものね。」
「可憐、この辺にしておきましょう。偏見による憶測はいい結果を生みませんよ。」
「はーい……」
渋々引き下がったものの、彼女がこの閑な村で余計な情報を仕入れてくるのは必然であった。
清四郎は空気を入れ替えるかのように咳払いする。
「話は変わりますが……」
「ん?」
仲間が注視する中、有閑倶楽部のリーダーは居住まいを正し、真っ直ぐに皆を見つめた。
その黒い瞳に冗談は混じっていない。
「一つご報告がありましてね。実は、悠理と特別な関係を結ぶことになりました。」
ポカン
悠理を含めた5人が同じ表情を浮かび上がらせる。
「と、特別な関係って、どういうことよ?」
「言葉通りの意味です。男女関係、交際関係、恋人関係……そんな感じですかね。」
聖人君子のような顔をして俗な言葉を吐き出す男に、美童と魅録は顔を見合わせた。
「せ、清四郎…………冗談だよな?」
「あまりこの手の冗談は好まないので、真実だと理解してください。」
ぴしゃりと言い放たれ、魅録の中に混乱が生まれる。
清四郎と悠理。
お釈迦様と孫悟空。
猿回しと猿。
鬼教官と出来の悪い生徒。
そんな二人に見合わない関係性。
「うそ、だろ………」
「清四郎、どういう成り行きでそんなことになったんだよ?」
美童も思わず詰め寄ったが、清四郎の表情に変化は訪れない。
「成り行きも何も………僕が悠理を好きだという以外何があるっていうんです?」
平然と言い放たれ、5人はたじろぐ。
清四郎と恋。
地球と冥王星ほど離れているような気がするのだが───皆は当然言葉を失った。
「あまりあれこれ詮索されるのは嬉しくないので端的に言います。悠理への気持ちに気付いたのは高校生活の終わりで、悩みに悩んだ末、それを受け入れ、悠理には先ほど伝えました。本人はまだ戸惑っている段階だと思うので、しばらく静観してもらえると助かります。」
はっきりきっぱり。
清四郎の言葉が皆を説得したかどうかは分からないが、それ以上の追及が出来なくなったのも事実。
何よりも悠理が真っ赤な顔で、今にも穴を掘って潜りたいという表情を浮かべている為、可哀そうになったのだ。
「わ、わかったわよ。とにかく二人は交際するってことね?」
可憐がそうまとめると、清四郎は深く頷いた。
どう考えてもチグハグなカップルだが、もしかすると結構お似合いなのかもしれないと思う仲間達。
「まさかそこに行きつくなんて………雷が落ちてきそうですわ。」
そう言いながらも、野梨子は納得したように微笑んだ。
もしかするとこうなることを、頭のどこかで予期していたのかもしれない。
人間味に欠ける幼馴染の些細な変化に気付いていたのかもしれない。
「雷でも嵐でも結構!清四郎、悠理を泣かせたらあたしがぶっ飛ばすからね!わかった?」
「あり得ませんが、肝に銘じますよ。」
6人は美童が開けたシャンパンで盛大に乾杯を交わした。