「あらまあ!!剣菱のご令嬢じゃありませんこと?」
振り向けば、紫色のワンピースを着た少しふくよかな中年女性が目を見開きこちらを見ていた。
大ぶりのイヤリングと真珠のネックレス。化粧は年相応に濃い。
悠理は記憶を辿るも、何も出てこなかった。とりあえず形式的に頭を下げるに留め、相手の出方を見る。
「ほほ、急にごめんなさいね。うちの主人が剣菱マテリアルに勤めておりますの。だから思わず声をかけてしまって……ところで、お独りでご旅行?」
なるほど社員の家族か。そりゃわからないはずだ。
「いや、一人じゃなくて……」
悠理は言葉を濁し、辺りを見回す。昼間から酒が飲めるダイニングレストランは、ほとんどの客が高齢夫婦で埋め尽くされていた。
高級な酒、珍しい酒。洋酒、日本酒、グラッパ、テキーラ、何でも揃う。気の利いたアテも用意されており、客船の中でも人気の店と言えるだろう。
清四郎は隣のブースで、どこぞの紳士とチェス対決しているはず……。
かれこれ三時間は経つが、相手もなかなかの手練れなのか、決着が遅れていた。
「ご家族と?あ、それとも……いつものご友人とかしら?」
婦人は隣の席にどっかりと腰を下ろし、会話を続けようとする。
「ま、そんなとこかな……。」
”恋人“と公言するには一抹の照れが生じてしまう為、悠理は横目で清四郎を確認した後、誤魔化した。
「さすがですわねぇ。うちは勤続30年の休暇を頂きまして、ようやく家族旅行が実現しましたの。こんな立派な船……一生に一度の経験ですわ。ほほほ!」
ベラベラと甲高い声で喋り続ける婦人に、どうしたら去ってもらえるか考えるが、なかなかいいアイデアが見つからない。
仕方なく甘いカクテルを追加オーダーし、彼女の話を聞き続けることにした。
「うちはお嬢様と同じ年頃の息子が二人おりまして、親が言うのもなんですが、顔の出来が良くて……大学でもモテモテで、ほら、今韓国で大流行のグループあるでしょう?あの中心メンバーに似てるって………」
まったくもってどうでもいい内容に耳を塞ぎたくなったが、彼女も興が乗ってきたのか、息子自慢を延々と続ける。一体誰に似たんだろう。少なくとも母親ではない気がした。
(ちぇ……ツイてないや)
そうこうしていると、彼女の夫らしき人物がこちらへやってきて、悠理を目にした途端、深々と頭を下げた。
「まさか……お嬢様も乗船されているとは……いやはや驚きました。」
白髪混じりだが毛量は多く、どことなく優しげな雰囲気の紳士。妻よりはずっと穏やかな口調だ。話を聞けば、部長に昇進したばかりだという。
腰の低い、わきまえた感じの中年男性と、空気を読まない妻。
悠理は自身の両親を含め、“夫婦って面白いな”と改めて思った。
チグハグながらも、何故かしっくりくる二人。きっと性格も価値観も違うくせ、不思議と長い時を共に過ごすのだ。
(いつかあたいも清四郎と結婚しちゃったりするんだろうか?)
雛壇に並んで、フラッシュの光を浴びて……
ブルブルと首を振り、あの時のやるせなさを思い出す。
絶望しか見えなかった”結婚“の二文字。それなのに今は、清四郎の隣に座ることを夢見ているなんて───それこそ摩訶不思議だ。
(あたいも単純だよなぁ……)
空気が読める夫はかしましい妻を引き摺り、ようやく悠理の前から消えてくれた。おかげでゆっくりとツマミを噛じれる。
ナッツとスモークサーモンのサラダはクリームチーズに絡まって美味い。
そこへようやく待ち人来る。
「待たせましたね。」
悠理の肩をごく自然に抱き、清四郎は隣の椅子に座った。珍しく紅潮した頬が、闘いに勝ったことを示している。
「なんか飲む?」
「ではビールを。」
寡黙な、しかし動きに無駄のないスタッフが注文を取り、冷えたドイツビールがたちまちテーブルに現れた。
よほど緊迫した闘いだったのだろう。清四郎はそれを一気に飲み干す。
「結構、苦戦したんだな。」
「ええ……。後から聞いたんですが、アジアの元チャンピオンでした。」
「え!?あのじいさんが?」
「それも八年連続とか……。相当な腕前でしたよ。」
「で、そんなじじいにおまえは勝ったんだ?」
「もちろん。今度ディナーをご馳走してくれるそうです。」
敵は強い方が俄然盛り上がる。清四郎もまた、その誘惑に勝てない男だ。
目を輝かせる恋人を見つめ、悠理は複雑な思いを抱いた。
趣味、知識欲、武道──どこまでも貪欲な男に、自分は今どんな立ち位置なんだろう、と。
この恋は果たして、きちんと実を結んでくれるのだろうか……と。
「清四郎……」
「ん?」
悠理は躊躇することなく彼の耳に唇を近付けると、小さな声で、しかしはっきりと告げた。
「早く……おまえのものになりたい。」
「…………え?」
それは先程までの高揚感を凌駕する一言。
揺れる視界。
高まる動悸。
手の中のグラスがひび割れんばかりに力がこもる。
「悠理……?」
清四郎は目を見開き、恋人を見つめた。そして何度も喉を鳴らし、彼女の目に真実を探す。
酔っているわけじゃない。
見たところまだ四杯目だ。
それも甘いカクテル系。
ウワバミの彼女がこれしきで酔えるはずがない。
酒に濡れた艷やかな唇が、誘うように開く。いつもの悠理だというのに、そうじゃない雰囲気が漂ってくる。こんな“色”を見せつけられるとは予想だにしていなかった。
「清四郎こそ……とっとと覚悟決めろよ。」
胸の鼓動がけたたましい。何もかも見透かされているような視線の中、清四郎は一旦息を整えた。
「そんな挑発………どこで覚えたんだか。」
精いっぱいの虚勢と共に、それでもゆっくり悠理の手を取る。
───望んだのは、いったいどっちだ?
「…………泣き言は無しでお願いしますよ。」
「ふん、当然。」
そうして二人は、新たな扉を開くため、騒がしい店を後にしたのだ。