剣菱の屋敷は夜でもそれなりの輝きを放っている。
厳重な警備体制に加え、家の主による装飾が一般家庭とはかけ離れているからだ。
やたらと広い玄関アプローチには、青銅で作られた龍が淡い光を浴びながらこちらを見つめている。
いつぞやの香港別邸を思わせるも、あまり良い思い出ではないため、敢えて視界から外した。
「これはこれは、菊正宗様。こんな時間にどうなさいました?」
「こんばんは、五代さん。夜分に済みません……少し悠理に話がありまして。」
老いてこそいるが、彼は有能な執事である。どれほど非常識な時間であれ、僕の訪問を否定することはない。
難なく悠理の寝室へ辿り着くと、立ちはだかる大きな扉はまるでホテルの会議場を思わせた。
念の為ノックを三回。
礼儀は守るスタイルだ。
「誰?」
いつもと同じトーンの声が耳に届く。いや、いつもより低い気もするな。
「こんばんは。」
扉を開ければ、ベッドに転がっていた悠理が目を瞠り、僕を見つめた。
「夜遅くに済みませんね……」
扉を閉めると同時、起き上がった彼女は、ほんの少し肩を震わせる。恐らくは異常事態を感じ取っているのだろう。
優れた野生の勘は未だ健在だ。
「な、なんだよ………?」
オドオドしながら立ち上がると、彼女は枕元の受話器を取り、飲み物とお菓子を運ぶよう告げた。
それこそこんな時間なのに──と思ったが、こいつの食欲は24時間年中無休だったな、と思い至る。
「体調はどうですか?」
「へ?体調?」
体調不良でズル休みを決め込んでいるくせに、その理由を忘れるとはさすが悠理だ。
一度うちの病院で詳しく脳を調べ、鳥頭の仕組みを解明しなくてはならないな、と本気で思ってしまう。
「……ま、それはさておき、話があります。」
「…………もしかして、あの日の続き?」
「悩ませてしまいましたか?」
「悩むっていうか………びっくりしたっていうか……とにかく、信じられないんだよ!」
プイとそっぽを向きつつ、こちらの反応を気にする辺り、決してこの会話を終わらせたいわけではなさそうだ。
「悠理。」
「な、なんだよ?」
覚悟を決めろ、清四郎。
この女を手に入れる為なら、どんな苦労も厭わないと決めたはずだ。
魅録の言葉通り、自分の心を正直にぶつける──
悠理が理解しやすいよう、何度でも噛み砕いて。
「おまえが好きです。嘘偽りなく、心から。」
「!!」
「僕の隣に立てる女はおまえしかいない。もちろん逆も然りだ。」
「せ、清四郎……」
「大事なんですよ、悠理が。この上なく………。気持ち、理解できますか?」
数秒間、目を泳がせる彼女がクッションを強く抱きしめる。
迷いと躊躇い。
それでも即座に否定する言葉が出ないことが、僕に自信を与えた。
「一生……おまえだけと誓うから……受け入れてくれませんか?」
男女の誓いをこんな場所で行うつもりはなかったが、今はそうも言っていられない。
悠理の心を掴む為には、全ての手札を使わなくてはならなかった。
緊張が走る。
背中を流れる冷たい汗は不快だった。
恐らくは歩んできた人生の中で一番、胸が張り詰めていると感じる。
「あ、あたい……馬鹿だぞ?」
ようやく開いた口が、ほんの少し震えている。形良い唇の滑らかな質感を早く味わいたいものだ。
「知っています。」
「下品だし、胸もないし、女っぽくもないし……大食らいだし……」
「ええ……。」
「おまえの話なんてちんぷんかんぷんだし、勉強も嫌いだし、説教もほんとに辛いけど………」
「………そうですね。」
目と唇をギュッと閉じた悠理は次の瞬間、覚悟を決めたように僕を真っ直ぐ見つめた。
「…………清四郎だから……信じるよ。」
「!!」
これはなんという感情だろうか。
『好き』と言われるよりも、満たされていく心。
嘘偽りない彼女の言葉が胸に突き刺さり、その傷口から全身に喜びが駆け巡る。
知らなかった──
きっと知らなかったんだ──
過去、幾度となく告白されたことはあるが、胸に響いたことは一度もなかった。
彼女(彼)たちが見つめる僕は、仮面をつけた空虚な器。
誰も心に切り込むような言葉を与えはしなかった。
それなのに今、悠理は僕への信頼を口にし、覚悟を決めた。
彼女は僕の醜さも欲深さも知っている。
多分誰よりもその本能で知り得ている。
そんな男に、”信頼“の二文字で飛び込む勇気は称賛に値するだろう。
いや、尊敬か?
僕は悠理を尊敬しているのか?
彼女の頬に掌で触れると、悠理はどこか諦めたように擦り寄ってきた。それは懐く猫のようであり、甘える女の仕草でもあった。
「悠理………好きだ………」
「う、うん……」
今はこれで充分。
彼女がいつか僕を愛してくれた時、熟しきった告白を聞こうじゃないか。
こうした経緯を経て、僕達は特別な関係に落ち着いた。仲間たちはこの事実をすんなり受け入れてくれたが、野梨子からは強く釘を刺された。
「わたくしは常に悠理の味方になりますわ。泣かせたら許しませんわよ。」
彼女の恐さは以前の平手打ちでよく理解している。
野梨子だけはいつも真っ直ぐ、僕の狡さを指摘し、正そうとしてくれるのだ。
貴重な幼馴染───
恋にはならなかったけれど、彼女もまた特別な人だ。
「せーしろーーー!飯食いに行こーよ!」
真っ白なワンピースとピンク色のレギンス。いつもより甘めのファッションで僕を誘惑する可愛い恋人。
無意識だろうが、悠理はほんの少し女っぽさを身につけた。
僕の前でだけ煌めくように笑い、その笑顔は間違いなく恋人にのみ向けるものだった。
あの日、咄嗟の嘘がきっかけで気付いた想いは、今もどんどん膨らみ続けている。
いつか大きな樹木となり、多くの果実をつけるのだろう。
恋が愛に変わるまで……
そしてその愛が永遠の絆となるまで……
僕達は嘘から生まれた真実を慈しみ、寄り添い続ける。