忘れられない女(1)

 

その日はやたらと暑く、購買部に詰め掛ける学生はこぞって冷たいスポーツドリンクを求めていた。

学園の購買部は3箇所に分散しており、それぞれ品揃えは違っているものの、お金持ちの子息子女が好む商品が並べられてある。

特に最近発売されたミネラル入りスポーツドリンクはいつも品薄で、体育の授業を終えた生徒が買い占めるといった現象まで生まれているのだ。

恐らくはコマーシャルに起用されているアイドルが火種だと思われる。

……とはいえ、有閑倶楽部の部室には渦中のドリンクが山のように積まれていた。

スポンサーは言わずと知れた剣菱物産。

悠理はそれらを運び込み、高みの見物とばかりにバカスカ飲んでいる。

金持ちの嫌味と言われても仕方がないが、それこそが彼女の日常であるからして……

「確かに飲みやすいですがね、それなりに糖分が入っているので加減しなさい。」

そんな小言は追いやって、悠理はポテチとそれを交互に口へと運んでいた。

「ほんと、あんたってなんで変わらないのかしら。ウエストも細いままだし、太ったことなんてないでしょ?」

「羨ましいですわ。わたくし、先日のケーキ食べ放題で1kgも太りましたのに。」

「こいつの化け物じみた代謝能力は今更じゃねーか。」

「野梨子も水泳でも始めたらどうかな。きっと素敵な身体になると思うけど?」

「美童ったら、目つきがいやらしいですわよ。」

いつもの他愛ない会話。

六人は高校生活最後の夏を楽しむべく、旅行の計画を立て始めた。

てんでばらばらの意見をまとめあげるのはやはり、清四郎である。

「ここは一つ、ニュージーランドなんてどうです?それなりに都会で、美しい自然や多くのアクティビティ、肉も魚も美味いと聞いていますがね。」

「へえ、悪かねえな。」

「ニュージーランドかあ………確か日系人のアイリちゃんが住んでたはず………♡すごく性格が良くて胸も大きくて……ムフフ」

「それは見事な星空と聞きますわ。」

「何よりイケメンが多いのよ!子供の頃から美青年揃いなんだから!」

面食い可憐のダメ押しで、とりあえず行先は決定した。

いち早くパソコンで情報を調べ始めた悠理は、山脈を渡るジップラインにくぎ付けの様子。

広大な空も海も山も、彼女の故郷であるかのように魅力的である。

「とはいえ夏休み前のテスト勉強は欠かせませんぞ。今日も我が家に集合ということで。」

「あ~、思い出したくないわあ。今回、英語が特に難しいのよね。」

「地理と歴史なんて範囲が広すぎて困っちゃうよ。」

「今からやればそれなりに結果が出ますわよ。」

「あたい、どうすりゃいいんだよ………」

「おまえさんは………清四郎に猛特訓してもらえよ。」

ということで、菊正宗家ではテストに向け、一泊二日の勉強合宿が繰り広げられた。全科目赤点の悠理は当然、地獄の鬼教官付きである。寝る間を惜しんで机にかじりつくほかない。

「うう、わかんない~!どの公式使うんだよ…」

「さっき教えたばかりでしょうが!おまえの記憶媒体は腐ってるんですか?」

通常運行。

いつも通りの殺伐としたやり取りだが、なんとこの二人、交際二ヶ月の初々しいカップルなのだ。

狂おしい想いに気付いた清四郎があの手この手で捕獲した珍獣は、思いの外素直にその位置へと収まった。

しかし周りから見れば何ら変わらぬ関係で、特に恋愛体質の可憐はやきもきさせられていた。

(これが恋人って言えるの?ありえないわ。)

もちろん隣家の幼馴染も不安を隠せない。

(清四郎が恋をするなんて、天と地がひっくり返るほどの衝撃でしたけど、やはり変わりませんのね…。悠理、苦労しますわよ。)

女性二人の心配を他所に、美童と魅録は楽観視していた。

捻くれ者の清四郎のこと。胸の内を悟らせない能力は人一倍長けている。

悠理を選んだことだけは褒めてやろう、と彼らは尊敬に近い思いで見守っていた。

何せ恋愛とは縁遠い二人だったのだから、その速度は他よりも遅くて然るべき。

────しかし

彼らの判断は間違っていたといえるだろう。

夜、皆が寝静まったあと、清四郎の寝室では悠理がクッションを背に寛いでいた。

何時間も勉強させられた後、夕食の焼肉に舌鼓を打ち、お風呂までしっかり頂いてからの安らぎタイム。

後は寝るだけ──なのだが、実はここからが恋人時間である。

「ふひぃ、つっかれたー。」

「よく頑張りましたね。」

悠理の頭の悪さに辟易することはあれど、清四郎は決して諦めたりしない。

勉強嫌いの生徒にはそれなりの教え方というものがあり、むしろそういった努力は彼の探求心を刺激する。

ある意味、悠理のような生徒はいい研究材料なのだ。

互いにパジャマ姿でベッドに横たわる。

二人が共寝するようになり一か月ほど経つだろうか。

初々しさを残しつつも、覚えたての子羊は清四郎の手の平であれやこれやを仕込まれている最中。

悠理はとても良い生徒であるからして、清四郎も教え甲斐があるとほくそ笑んでいるのだ。

「眠いですか?」

「うん、少し。あんなに英単語突っ込まれたら、オーバーヒートしちゃうぞ?」

「中学生レベルでしたけど?」

「ぐっ…」

馬鹿な子ほど可愛いと言うがその通りだな、と清四郎は思う。

悠理への想いが恋かどうか悩んでいた時期も確かにあったが、間違いなく自分は彼女に執着しているのだ。

他の人間には譲れない。

そう確信してからの行動は速く、単細胞な彼女をしっかり丸め込むまで約2週間。

清四郎は人が変わったかのように、真摯に想いを伝え続けた。

そのおかげもあってか、悠理は過去のいざこざをどこかに置き去り、恋人枠にきっちり収まった。

清四郎を味方につければこの先何かと生きていきやすい、そんな損得勘定が働いたのかもしれなかった。

そんなこんなで、二人は今が一番楽しい時期と言っても過言ではない。

ようするにラブラブなのだ。

可憐と野梨子が悲観するようなことは何もなかった。

「まあ、それでもよく耐えていたので、ご褒美をあげましょう。」

「どっちのご褒美だか。」

「さぁ、どっちでしょうね……」

クスクス

この先に待ち構えている愉しいことを予期しながら、二人は唇を重ね合わせた。

 

 

 

翌日は土曜日だった。6人は息抜きがてらドライブに出ようと準備していたところ、そこへ突然客がやってくる。

それはもしかすると招かれざる客だったのかもしれない。

少なくとも清四郎にとっては──

「お邪魔いたします。」

鳴海冴子(なるみさえこ)は殊更丁寧に頭を下げた。

最初に出迎えたのは病院に出勤しようとしていた菊正宗修平。鳴海は清四郎の姉、和子の高校時代の先輩であり、長きにわたるドイツ留学を経て、つい先日、日本に帰国したばかりだという。

優秀な医者として帰国したわけだが、この先、菊正宗病院で働きたいとの要望を口にし、修平を驚かせた。

「心臓外科医として先生を尊敬しております。是非、私を雇ってください。」

ショートカットの黒髪。

意志の強さを感じる瞳。

飾り気こそないが、小さなダイヤのピアスが形良い耳を飾っている。

チャコールグレーのスーツを着込んだその美人は、和子より年上にも関わらず、不思議と若く見えた。

遅れて玄関に辿り着いた和子もまた、急な再会に驚きを隠せない。

時折メールのやり取りはしていたものの、顔を見るのは本当に久しぶりだった。

「冴子先輩………向こうで結婚したんじゃ………」

「久しぶりね、和子。人生いろいろだわ。半年で終わっちゃった。」

苦笑しながらもどこか清々した様子の冴子を和子は慌てて家へと迎え入れる。

「とにかく話はまた日を改めて聞こうじゃないか。」

修平は迎えの車に乗ると、自分の職場へと向かった。

一連の様子をそっと陰から見守っていた6人は、いきなりの来客がとびきり美人であることに目が釘付けとなる。

唯一可憐だけは「大したことないわ」と鼻息荒くぼやいていたが。

「知的美人だねえ……♪それもバツイチか。」

品定めした美童の口元が緩む。

「あんなに若くで、もうお医者様なんですのね。」

同じ女性として尊敬に値する存在だ。

「飛び込みで雇ってくれとは、なかなか豪気な女だぜ。」

魅録は素直に感心した。

そんな中、悠理だけは清四郎の様子を気にかけている。

先ほどから表情が強張っていて、何か考えているような怯えているような、そんな雰囲気を醸し出しているのだ。

「清四郎?」

思わず声をかければ、一足早く「何でもありませんよ」と答える男。

とてもそうは思えないが、その時の彼女はそれ以上追及することを諦めた。

「清四郎!皆を客間に呼んで頂戴。お土産を頂いたの。」

和子の一声が原因で。

 

四十畳ほどあるモダンなリビングでは、お手伝いさんが冷たいグリーンティを並べた後、冴子はずらり揃った見目麗しい若者たちを順番に見つめた。

彼ら全員が自分の後輩であることを認識した上で、挨拶する。

「皆、とっても綺麗な子たちね。ドイツでもなかなか見かけないわ。」

「こう見えて、かなりの問題児たちなのよ。」

和子は苦笑して見せた。

「あら、貴女の弟はとっても真面目な優等生じゃなかったかしら?ね?清四郎君。」

真っ直ぐ射貫くような視線を受け、対角線上に座っていた清四郎はわざとらしく咳払いする。

「こちらも色々あったので………」

「ふふ、あれから随分経つものね。すっかりいい男になっちゃって、少し寂しいわ。」

どうやら二人は初対面じゃないらしい。

それも一度や二度会っただけではないような………その事実が悠理の胸を波立たせ始めた。

「ああ、そうよね。あんたは冴子さんに勉強見てもらってたんだっけ?」

「……ほんの少しの間だけですよ。」

歯切れの悪い清四郎を疑問に感じたのは悠理だけではない。

幼馴染である野梨子もまた、彼の様子を気にかけ始めた。

苦手意識?

それとも照れくささ?

どちらにせよ、いつもの清四郎ではない。

冴子が持参したバームクーヘンがそれぞれに割り当てられている時も、清四郎はわざとらしく庭を眺めていた。

「冴子さん、うちの病院で働くって本気?」

「もちろん。先生ほど見事な腕前の心臓外科医はそうそう居ないもの。胸を借りるつもりで勉強させてもらうわ。」

「確か旦那様も外科医じゃ……あ、元旦那様でしたね。」

「そう、ケヴィンも優秀な外科医だったわ。残念ながら他の女に心奪われちゃったけど。」

その胸はどれほど深く傷ついているのだろう。

されどおくびにも出さず微笑む冴子に、可憐は尊敬の念を抱いた。女として見習いたい。

「しばらく実家住まいなの。和子も一度遊びにいらっしゃい。」

「もちろん、そうさせていただきます。」

それからも和やかな歓談が続いたが、清四郎だけはその輪から外れたように始終無表情を貫いた。


 

「おまえ、あの女とデキてたろ?」

その日の夜もまた、悠理は清四郎の部屋で勉強を続けた。

他の4人はそれなりに見通しが立った為、帰宅している。

和子は恋人の家へ。

修平は夜勤。

母親は3泊の伊豆旅行に出かけている為不在である。

唐突でありながらも断定的なその質問は、清四郎の鼓動を止めた。

恋愛事に疎かったはずの恋人がまさかここまで野生の勘を発揮するとは、驚きである。

「どうして………そう思うんです?」

掠れた声は彼らしくない。動揺するその視線もまた、悠理の確信を高めた。

「んなの簡単だよ。あいつ………おまえのこと舐めるように見てたもん。」

「!!」

清四郎は言葉を失う。

自分は敢えて彼女と視線を交えないよう努力していた。

だが相手はそうじゃなかったというのか。

そんなあからさまな視線で、悠理に気付かせてしまったというのか………

絶望その二文字に清四郎は項垂れた。

自分の過去など悠理に知られたくない。

好きだからこそ、僅かな不安を与えたくなかったというのに。思いもかけない再会はそんな希望を瓦解してしまった。

「お、おい。そんな落ち込むなよ………。そりゃいい気はしないけどさ、もう昔の事だろ?」

寛大な恋人の台詞がどこか上滑りしていることを、清四郎は察知する。

気にならないはずがない。

もし自分が逆の立場なら、どんなことをしてでも追及し、責め立て、過去の男を葬り去ったことだろう。

鳴海冴子───

そう、彼女は清四郎の初めての女だ。中等部時代、姉が連れてきた冴子は美しく、そして至極真面目な学生に思えた。

優秀な成績で学園でも一目置かれていた彼女は、将来医者を目指していると語っていた。

和子と話が合った理由もその辺りにあるのだろう。

医学だけでなく、ありとあらゆる教養を身につけていた冴子。

和子をまじえ盛り上がった日も多くあり、結局お節介な姉は家庭教師まがいの事を冴子に頼んだ。

教え方も上手く、そして清四郎はそれをどんどん吸収出来る頭脳の持ち主である。

週に三日が四日になり、ほぼ毎日顔を合わせるようになった頃、冴子は清四郎を誘惑した。

彼の部屋で……

思春期の男を誘う術をその頃の彼女は持ち合わせていたことになる。

互いに特別な感情があったのかは分からない。

強いて言うならば、好奇心。

少なくとも清四郎にとって冴子はいい勉強相手だった。

彼女は美しく清潔で、その上魅力ある体の持ち主だったし、性格を鑑みても、あと腐れない相手だと信じていた。

のめりこむ程の快楽はなく、ただ単純に欲望を発散させていた。

そんな中、時折見せる笑顔が幼く可愛かったことだけは覚えている。

乱れた関係を結ぶような女性には見えない純粋な笑顔。

「悠理は………僕を軽蔑しますか?」

「軽蔑?なんで?」

「好きでもない相手と………体の関係を結んだことです。」

「……え!?好きじゃなかったの?」

「当然でしょう?………僕の初恋はおまえなんだから。」

どこかやけっぱちにも感じるその口調に、悠理はどうしたもんかと首を傾げた。

確かに過去の女が目の前に現れ、それも意味深な視線を投げかけるなんてことは不快である。

だけど清四郎は居心地悪く顔を背け、決して女の挑発に乗ろうとしなかった。

悠理にとってはそれが全てで、清四郎の気持ちを考えれば責める気になれない。

「なら問題ないじゃん。今のおまえはあたいが好きで、あたいもおまえが好き。それだけでいいだろ?」

シンプルな頭でそう答えたら、清四郎は感動したように悠理を掻き抱いた。

彼女には何も隠せない。

隠せば隠すほど自分が矮小に感じる。

「その通りだ。僕はおまえが心から好きで、他の女なんか目に入らない。」

「清四郎………」

そう、何も不安に思う必要はない。

二人の強い想いが今こうして結ばれているのなら、怖がることなど何一つとしてないのだ。

「んっ…っ………!」

感極まった清四郎は悠理の唇を思い切り貪った。

会話の代わりに行われる深い口付け。

それは悠理の思考が溶け出すまで続けられた。