「悠理、いい加減にしなさいよ!あんた朝からずっと寝てるじゃない?」
高校生活も残すところ、あと数か月。日々寒さが増していく季節の中、剣菱悠理はタマフク柄のクッションを抱きしめ、机に突っ伏していた。
お昼休みも終わり、時計はすでに午後一時を過ぎている。つまらない授業を前に、眠気と戦う気にもなれず、朝から部室にやってきたわけだが……生理痛の可憐が先ほどから強く当たってきて居心地は悪かった。かくいう彼女もさぼっているのだが……。
「寝させてくれよ……頼むぅ……」
「それならどうして学校に来たのよ?」
「……………。」
勉強はこの世で一番嫌いだが、学園自体はわりと好き。
更にここ最近退屈の虫が疼きだしている為、どこかに面白いネタが転がっていないかアンテナを張り巡らせている状態の悠理。
とはいえ、常日頃からスリリングな事件などあるわきゃない。
その現実が軽い絶望を呼ぶ。
「悠理ってば・・・」
「うっさいな~、学食のカツカレーが食べたくなったんだよ。」
「はぁ?」
そんな理由に納得できるはずもないが、可憐は矛先を変えるべく、テレビのリモコンを押した。すると最近観ない日はないと言われている俳優”T”が、女優”Y”と不倫関係にあったと騒ぎ立てられている。
昨今の週刊誌は騒ぐだけ騒いで、後の責任など取らないわけだから、この先二人は間違いなく苦境に立たされることだろう。
「あら~、この人そんなタイプに見えなかったのに、残念だわ~。人は見かけによらないわねえ。」
浮気男は女の敵!と言わんばかりに憤慨する可憐の言葉に、耳だけ動かす悠理だったが、さほど興味がないため、再び眠りに沈み込もうとした。
しかし………
「ふふん、もしかすると清四郎もこんなタイプかもね。」
それはあくまで冗談だったのだろう。単細胞の友人を刺激するためのちょっとしたジョーク。
が、可憐の思惑は外れ、悠理は全く反応しない。
いくら裏表のある恋人だとしても、今は自分にべた惚れなのだからそんな心配はまったくもって必要ない……と彼女は思っている。
「ふふん……そりゃあ今はいいわよ。まだ付き合ったばかりなんだし。でも1年後、2年後はわかんないわよ~。」
腕組みする可憐のセリフはどことなく真実味があった。
悲しいかな。悠理とて先の話は分からない。ただ今を信じて、清四郎と交際しているだけ。それ以上のものを求めているわけでもない。
「あの男、わりとモテるから気を付けたほうがいいかもね。この間クラブで知らない女に声かけられてたでしょ?」
その言葉に、ピクリと反応する悠理。それは穏やかな眠りを妨げるような不快な記憶であった。
あの夜───
確かに清四郎へと近寄ってきたのは、どこもかしこも完璧に整えられた美女で、可憐に引けを取らないナイスバディの持ち主だった。艶やかな唇と赤い爪、美しいデコルテを露わにしたワンピースに足首を美しく見せるハイヒール。彼女は自分に似合うものを知り尽くしていた。
清四郎の隣でカクテルグラスを揺らすその姿にモヤっとし、慌てて傍に行こうとしたところ、清四郎が彼女から離れたのだ。経験値を感じさせるスマートな断り方で───
それは見事としかいいようがなかった。相手を不快にさせることもなく、穏やかな空気を漂わせたまま、彼は見知らぬ美女から遠ざかる。背中に突き刺さる熱い視線には気付いていただろうに。
悠理にとってこれが初めての恋だ。清四郎もそうであってほしいと願うが、謎多き男の過去など分からない。
’今が全て’・・そう理解してはいるものの、ああいう場面を見れば、どれだけ女に言い寄られてきたのかが読み取れる。
悠理の知らない清四郎。女に興味がない振りをしつつも、それなりの経験がある男は、想像を超えた場数の持ち主だろう。
それがちょっぴり悔しかった。
「───あいつがあたいを選んだんだから、そんなの気にしてない。」
いつもよりハリのない声だったが、悠理はきっぱり反論した。
「まあねぇ。あんたは元々清四郎のペットだったわけだし、それが出世するのもアリだわね。」
ペット───
確かに長い間そんな扱いをされてきたが、それでも清四郎を嫌いになんかなれなかった。むしろそういう立ち位置のほうが楽だとも感じていた。
馬鹿にされても小突かれても、女扱いされなくても、結局は居心地がよかったのだ。間違いなく──
「でも油断しちゃだめよ?男なんて裏で何してるかほんっとわかんないんだから。」
「う、うん………」
可憐の気持ちもひとまず落ち着いたのだろう。悠理はようやく惰眠の続きを貪ることが出来た。
とはいえ─────
「なんです?」
恋人の膨れっ面が気になり、清四郎は読書を中断する。彼の手にある書籍は基本、悠理の興味から程遠いものばかり。たとえ目を通したとしても、1ミリとて理解できないだろう難解な本だった。
ここは悠理の寝室で、溜まっていた宿題を終えた後、まったりとした時間を二人で過ごしているところだ。頭を使うとどうしても甘いものが欲しくなり、悠理は先ほどパンケーキを食べたのだが、いつもよりおいしくは感じなかった。日中可憐から聞いた言葉が脳裏を横切るからである。
(こいつ、表裏激しいし……もしかしたらってこともあるのか?)
ジト目で見つめていると、清四郎はゆっくりと近付き、悠理の頬に手を添えた。
長い指に広い掌。
悠理のそれより遥かに大きい。
「言いたいことがありそうですね。」
優しい口調だが、それはあくまで心の内を暴こうとする手段でしかない。明敏な知性を感じさせる黒い瞳が、小さな変化も逃すはずはないのだから。
「………べつに。」
「ごまかそうとしても無駄ですよ。」
ぐっと言葉に詰まり、悠理は上目遣いで恋人を見上げた。
「好きだ」と告げられてから約二か月が経つ。自分でも不思議だが、当時、彼の気持ちを疑うことは出来なかった。
清四郎の表情には恐ろしいまでの真実味があったからだ。
野生の勘が、ここで茶化してはならないと警鐘を鳴らす。命の危険すら感じてしまうのは、普段の関係性が理由なのだろう。
いつ、どこで、どんなところを好きになったのか、全くもって解らない。
「長い人生、一緒に歩いていくにはおまえしかいないと思ったんです。」
そんな先を見据えた告白を聞き、悠理の中に僅かながら存在する乙女心が疼く。
自分だってそうだ。自分だって清四郎の側にいて、思いっきり冒険し、刺激ある世界に飛び込んでいきたい。清四郎の頭脳や機転は人生に欠かせないもの。
ただ、それは果たして恋なんだろうか。友人として、仲間として、誰よりも頼りにしている男へ、恋なんて括りが当てはまるとは思えない。
それでも悠理の心に彼の言葉は間違いなく響いた。
──好きなんです
男からの告白など、生まれてこの方受けたことがない。
相手はまさかの清四郎。恋愛よりも趣味を選ぶはずの男。
悠理は心の何処かで嬉しかったのだ。飼い主に認められたペットのように……
「可憐がさ・・・清四郎だっていつかは浮気するかもって言ったんだ。」
「───は?」
「男は見かけによらないからって。」
頬にあった手がゆっくりと離れ、次に向かったのは悠理の鼻先だった。ギュッと摘ままれ、「いだッ!」と声を上げる。
加減されているとはいえ、かなり痛い。
「……ったく。」
呆れた顔を隠さずに、清四郎が近付いてくる。
高い鼻、きれいに整った眉、知的な目。唇の形までもが美しい男。
「そこまで暇じゃないんですよ。おまえの心を繋ぎとめるだけでも全神経を遣っているんだから。だいたい……」
自分が抓っておきながら赤くなった鼻を気の毒に思ったのか、清四郎の唇がそっと触れる。
「僕は、おまえの家族に殺されるようなリスクは負いたくありません。人生これからだってのに───」
決してロマンティックな台詞ではないが、清四郎の覚悟が伝わってくる。
いつまでも一緒に居よう──人生の全てをかけて
そんな思いが滲み出ているのだ。
悠理はヘヘッと頬を緩ませると、自然に瞼を閉じた。そうすると鼻に触れていた唇がゆっくりと落ちていく。
パンケーキの甘い香りが漂ったままのそこへ清四郎のものが重なり、何度も繰り返してきた優しいキスが始まる。
(余所見など出来ませんよ。だいたい油断したらこっちが浮気される危険性があるんですから。)
破天荒でトラブルメーカーな悠理の手綱を握りしめているだけでも、相当な体力と精神力が求められるのだ。加え、剣菱百合子を敵に回したら最後、この地球上でまともに生きていくことは出来ない。
(───わかってるんですかねぇ?)
腕の中で喉を鳴らす可愛いペット………もとい恋人。
せっかく捕まえたのだから、解放してやるつもりなどない。
(まあ、おいおい分からせてやりますよ。僕の気持ちがどれほど強いのかを──)
策略、計略お手の物。
恋する男の本気を、近々その身をもって知ることになる悠理であった。