gaze(熱視線)

抜けるような青空と、輝く太陽。
東京の初夏にしては爽やかなその日。
聖プレジデント学園幼稚舎では、子供達の甲高い声と親たちの歓声が響き渡っていた。

赤と白。
オーソドックスに分かれた二色のハチマキ。
クラス対抗リレーは小さなトラックで行われ、アンカーだった悠歌は3人抜きで当然の如く一等賞。
晴れやかな表情を見せながら、ピクニックシートの上に座る母の元へと駆けこんで来た。

「ママ!見てた?」

「当たり前だろ?よくやった!」

指にも絡まぬ艶めいた黒い前髪。
汗で張り付いたそれを悠理はこの上なく愛しそうに掻き分けた。
『運動会』というキーワードは、彼女の心を何よりも浮き立たせるが、今回の主役はあくまでも悠歌だ。
アメリカでの仕事を理由に、参加出来なかった祖父母と清四郎の分も、張り切って応援しなくてはならない。

「さ、飯だぞ。たくさん食べて、午後からも頑張れよ。」

「うん!今度はゆか(悠歌)、玉入れと借り物競争に出るの!」

眩しいほどの笑顔と男子顔負けのお転婆ぶりは、悠理の幼い頃とそっくりだ。
性格まで似通って来ている娘を、清四郎は日々、複雑な心境で見守っている。
‘トラブルメーカー’という厄介な性質まで引き継ぐなよ、と切に願いながら。

「やぁ、剣菱さん。」

快活な印象の声で挨拶してきたのは、事ある毎に悠歌と張り合っているクラスメイトの父‘伊能 省吾(いのうしょうご)’。
白いポロシャツにジーンズと、若々しさを見せつけるラフなスタイルで、利かん気な息子と共に弁当を広げる場所を探しているようだ。

「何ならここ座って良いよ?あたいたちだけだし。」

「それはそれは、ありがとう。助かるよ。」

二人は父兄参観などで顔を合わす程度だが、お互いの波長が合うからか、今では年の差を感じさせないほど気安い関係になっていた。

‘腹減った’と喚いていたはずの息子、剣吾(けんご)が、悠歌を見て早速からかい始める。
しかし父はここぞとばかりに威厳を示そうと軽く拳骨を落とし、それを諫めた。

「あれ?今日、奥さんは?」

犬猿の仲でもある伊能の妻。
悠理は異常なまでに神経質な母親を、キョロキョロと探す。
二人の関係は相も変わらず水と油だった。

「朝から熱を出してね。足元がふらついていたから無理矢理諦めさせたんだ。」

「へえ・・・それは残念。楽しみにしてただろうに。」

同じ母として少しだけ同情した悠理だったが、次に聞いた伊能の言葉にそんな気持ちも霧散する。

「’悠歌ちゃんにくれぐれも怪我をさせられないように!’と口酸っぱく言い含められましたよ。ハハハ!」

「はは………」

乾いた笑みで誤魔化すが心中は複雑だ。
そんな心境を読み取った上で、心底おかしそうに笑う伊能。
数多くの保護者の中で唯一、腹を割って話せる彼のこんな豪胆さが悠理のお気に入りだった。

お互いの立派すぎる弁当を広げ見比べた後、子供たちが涎を垂らさんばかりに手を伸ばす。
伊能の手前、普段と同じような勢いでがっつくわけにもいかず、悠理は空腹を誤魔化そうと水筒に入っているアイスオーレを二人分注いだ。

「ご主人は来なかったんだ?」

「ああ、外せない仕事で無理だった。」

「相変わらず忙しいねぇ。俺なんか優秀な社員に仕事任せっきり。ふらふら出来て楽だよ~?」

「あいつは……清四郎は完璧主義者だから、全部自分でやりたがるタイプなんだ。」

「うんうん、それは良いことだ。上がしっかり働かないと部下はついてこないからね。」

そんな矛盾した発言に思わず笑ってしまう。
この男、決して馬鹿ではない。
その証拠に、代替わりしてからの彼の会社の業績はすこぶる良いと聞いている。

━━━━食えない男だよな、ったく。

悠理はそんなところも憎めないと感じていた。

差し出された冷たいコーヒーをイッキに飲み干した伊能は、ふと胸ポケットにある携帯電話に手を伸ばす。
取り出せば、それは微かに震えていた。

「おっと・・・失礼。電話だ。」

大人達の会話を気にもせず、ガツガツと弁当を平らげていく子供たち。
悠理は自分の分はあまり残らないだろうなと落ち込んだが、彼らの楽しそうな表情にはさすがに勝てない。

「ママもほら、おにぎり食べて。猫ちゃん型の海苔がくっついてるの!」

朝からお抱えシェフが渾身の作品を作り上げたことに感謝はしているが、ここまで拘らなくても・・・。
驚くほど繊細なキャラ弁を見て、悠理は溜息を吐く。
子供達の要求がどんどんとレベルアップしていく中、おにぎりすらまともに握れない自分がちょっと後ろめたかった。

「え!?それで状態は?あぁ、…………うん、そうか。」

何やら不穏なやり取りを交わす伊能に、悠理の意識が傾く。

「解った・・・出来るだけ早く向かう。ああ・・・なんとかなるさ。うん、気を確かに。」

電話を終えた後、彼はいつになく神妙な面持ちを見せた。

「すぐに帰らなくては。」

「え?なんかあったの?」

「長野の別荘に滞在しているおふくろからだった。親父が・・・・山で大怪我をしたと。命に別状はないらしいが、少しパニックになっていて・・・・。彼女は昔から不安定なところがあるんでね。」

「マジで?・・・大変じゃん!」

そわそわと捲し立てるように説明した伊能に悠理は目を瞠る。
さすがにその表情は硬かった。

「剣吾、帰るぞ。」

「え?」

そそくさと弁当を片付け始めた父に、息子がかけた声は不安に縁取られている。

「なんで?」

「おじいちゃんが怪我をしたんだ。お見舞いに行かなきゃダメだろ?」

「おじいちゃん!?」

ポロリと溢れるおにぎり。
それを悠理はすかさずキャッチする。

「車で4時間半はかかるんだ。急ぐぞ。」

「う、うん。」

それでも後ろ髪を引かれるような子供の気持ちを、悠理はなんとなく理解した。
折角の運動会。
楽しみにしていた分、気落ちも激しい。
空気を読んだ悠歌も心配そうだ。
そんな中、伊能自身も両親を心配し、全身から逸る気持ちが滲み出ている。
悠理はふ、と思い立ったように携帯を取り出した。

「待って。ヘリ用意してやるよ。」

「え?」

驚く伊能に目配せをしながら電話を架ける。
そして2コールで出た五代に、まるでハイヤーを呼び出すかの様な気軽さで話し始めた。

「ああ、五代?母ちゃんのヘリ一台。うん、超特急で。いや、別に何もないってば!違うって、あたいじゃないよ!場所はそだな・・・高等部のグランドにでも。そそ、よろしく!」

得意気に電話を切った悠理を、伊能は呆気に取られたまま見つめている。

「これで長野なんかあっという間だぞ?」

「・・・・・・さすが・・・・・天下の剣菱だな。いや、本当にありがとう。」

注文通り、ものの10分もしない内にヘリは到着し、息子と共に乗り込んだ伊能は何度もお辞儀しながら空へと飛び立っていった。




そんな出来事があった翌週の日曜日。
剣菱邸には、言わずと知れた本格的な室内プールがある。
強化ガラスに覆われた温室のようなそこで、母と娘はいつものように仲良く水泳の特訓をしていた。
悠歌は幼いながらも泳ぎが大の得意。
25mくらいなら浮き輪無しでも余裕で泳ぎ切る。

「ママ、競争して!」

「ふふん、ばーか。あたいが勝つに決まってんだろ?」

「だいじょ~ぶ!’はんで’?、もらうから。」

「おまえ・・・・んな言葉、誰に聞いたんだ?」

「パパに教えてもらったもん。」

競争事にはシビアな男がそんな入れ知恵をするだなんて・・・・
娘にとことん甘い顔を見せる夫に、内心舌打ちをしながら、「もっとたくさん泳げるようになったらな。」とはぐらかす。
実際、娘と勝負して手加減することなんて出来ない。
悠理は自分の負けず嫌いな性格に苦笑した。

「嬢ちゃま、伊能様という方がいらっしゃいましたぞ。おぼっちゃまも一緒に。」

五代が暑さにうんざりした顔でハンカチを額に当てながらプールサイドから覗き込む。
まるで熱帯雨林のようなそこは、年寄りには堪えるのだろう。
すぐにでも立ち去りたいといった表情だ。

「伊能親子が?」

「ここへお通ししてよろしいので?」

「ん、別にいいよ。」

そそくさと出て行く五代を見送った後、「勝負!勝負!」と喚く娘を宥め、悠理は一人水から上がった。
目立たぬほど小さな猫が刺繍された白いビキニは悠歌とお揃いである。
タオルが敷かれたラウンジャーにどっかり座ると、丸テーブルに用意されていたアイスティを一気に啜る。
子供と一緒になってはしゃいでいたからか、小腹が空いたと感じた為、サンドウィッチを頼むべく内線に手をかけた。
そこへ━━━━━

「こんにちは。図々しくもお邪魔させてもらったよ。」

想定よりも早く現れた親子に悠理は驚く。
こちらも息子とお揃いの派手なチェック柄のシャツとジーンズ姿。
手には大きな紙袋を下げている。

「よぉ!いらっしゃい。」

「この間は本当に世話になったね。ありがとう。」

「どーいたしまして。親父さん、どだった?」

「おかげさまで・・・・全治二ヶ月程度の怪我で済んだよ。おふくろも何とか落ち着いてくれたしね。」

心から感謝しているらしい。
伊能は深々と頭を下げ、手にしていた土産を悠理に渡す。

「頭下げんなよ。んな大したことしてねーんだし。それよりさ、これ土産?何入ってんの?」

「シュークリームさ。妻のお気に入りの店だから美味しいと思うよ。」

「やった!おい、悠歌!こっち来い!」

水の中から剣吾を見つけた悠歌は一瞬だけ嬉しそうな顔をして見せたが、直ぐに唇を尖らせ、「何しに来たのぉ?」といつもの憎まれ口を叩いた。
しかし剣吾はいつになく神妙な顔つきで父親の側に立っている。
何てことはない。
剣菱の家には初めて来たのだ。
その圧倒的なスケールに先ほどから度肝を抜かれ、彼は完全に萎縮していた。
大人しい剣吾など見たことがない悠歌は、甚だ不満げな様子だ。

「ママ!剣吾となら勝負していい?」

「勝負って・・・・まだ泳ぐのかよ?」

「うん!」

とはいえ、剣吾は当然水着を持っていない。
恐る恐る見上げる息子に父は、「パンツで泳げば良いさ!」と豪快に提案してみせた。

「いいの?ママ、怒らないかな?」

まだ幼いのに母親の機嫌が気になるらしい。
そんな健気な心配を、父は笑い飛ばす。

「いいから行ってこい!こんなでっかいプールを二人っきりで遊べるなんて、なかなかないぞ?」

そこでようやく嬉しそうに笑った剣吾はいそいそと服を脱ぎ始める。
まだ少しも焼けていない肌。
過保護な母親があまり外で遊ばせない所為だろう。
悠理は省吾に気付かれぬよう溜息を吐いた。

「そこ座って。アイスティでいい?」

伊能は促されるまま隣り合わせに並んだラウンジャーに座り、軽く体操をした息子が元気よく飛び込む姿を見届ける。

「あんたも泳ぎたくなるだろ?この暑さだもん。」

「俺、実は泳げないんだ。大昔、海で溺れてから水が苦手でね・・・。」

意外な暴露話に悠理が笑う。

「へえ、んなガタイ良いくせに勿体ない。」

「息子には内緒で頼むよ。その他のスポーツには自信があるんだけどな。」

ちょっと照れたように言い訳をする伊能が可愛く見えた。
鈍く光る銀色のアイスペールの中から氷を3つほど入れ、鮮紅色の紅茶を注ぐ。
カラリと音を立てたところで、悠理はそれを目の前の丸テーブルに置き、次に紙袋の中から箱を手に取る。

「じゃ、遠慮無く頂きます。ちょうど腹減ってたんだよね。」

「どうぞどうぞ。」

言いながら、伊能は土産に目を輝かせる悠理を、横目で盗み見ていた。
まるでモデルばりのスレンダーな身体に白の水着は眩し過ぎる。
若くて張りのある肌は玉のような水を弾き、引き締まったウエストには見事なまでに贅肉が見当たらない。
それでいて、どことなく柔らかな印象を与える身体に、伊能は男の本能を刺激される思いだった。
自分より五つ以上年下の彼女はそれ以上に若く見え、そしてあまりに美しい。
普段は保護者のベールを被りながらの関係だったが、今のこの距離は少し違って感じる。
もっとプライベートな部分に踏み込んでしまいたくなる気持ちを、どうやって蹴散らそうか・・・伊能は悩んだ。

一つ年上の妻は元来身体が弱く、彼女とは対照的に青白い。
自分にそっくりな顔立ちの剣吾を、慎重に育てる気持ちも解らなくもないのだが、それは息子にあまり良い影響を与えるとは思えない。
普段から教育方針で諍いが絶えないことは、彼が抱える最大の悩みでもあった。

「今日はラッキーだな。」

「ん?」

あっという間もなく、三つ目のシュークリームに手を伸ばす悠理。
驚くほど食欲旺盛な人妻を、男は眩しそうに見つめる。

「いや・・・そんな素晴らしい水着姿を見せて貰ったら、手土産だけじゃ御礼にならなかったな、と思って。」

「は?変な事言うなよ。」

「ご主人が羨ましいね。」

それは本心だったのかもしれない。
自分でも思いがけない台詞が飛び出し、取り繕う余裕すら生まれない。

やはりこの距離は拙い。
元々彼女には好印象を抱いていたのだ。
底抜けに明るくて、飾り気や虚栄が一切無く、話していてとても清々しい。
改めてそう認識した伊能の身体を熱いものがこみ上げる。

子供達は水音を立て、夢中で泳ぎ続けている。
親としてそちらに半分意識を奪われながらも、しかし目の前の人妻から視線が離せない。
ジリジリと焼けつくような熱気に、今直ぐにでも服を脱ぎ去りたくなる。

悠理は、というと、不意に訪れた異様な雰囲気を敏感に感じ取っていた。
自宅だから………という理由で水着のままだったが、よくよく考えれば、大胆な行動だったのかもしれない。。
彼に対して男を意識したことなど一度も無かった上、子供の存在もある。
あくまでも保護者同士、気の合う関係だと信じていた。

しかし…………

━━━━━もしかして、油断していたのだろうか?

親という名のベールを取り払った男を前にして、悠理は身を竦ませた。
二人の子供達は夢中で競争をしている。
こちらを振り向く気配は微塵も無い。

薄っぺらな白い水着が、まるで下着の様に感じ始め、悠理は今すぐにでもカゴの中のバスローブに手を伸ばしたくなった。

伊能は一軒無骨だが、決して悪くない顔立ちをしている。
首もがっちりと太く、体格も良い。
長い足で見事にジーンズを履きこなしているし、服のセンスも悪くないのだから、女にだってそこそこモテるのだろう。
こういったお世辞を言い慣れているほどには………。

 

思わぬ事態に焦り始めた悠理は、ゴクリと喉を鳴らした。

「君は・・・・すごく綺麗だ。とても子持ちとは思えないね。」

男としてのスイッチが入った伊能は自然と距離を縮め、グラスを持った悠理の手首を掴む。

「こ、こら!」

「・・・・・一度くらい、ご主人に内緒で遊んでくれないか?」

引き剥がそうとしてもその力は意外と強く、悠理はもう片方の手で伊能の手の甲を叩こうとした。
さすがに子供の前で父親をぶん殴るワケにはいかない。

「離せよ。怪我すんぞ!」

出来るだけ声のトーンを抑え、恫喝するが、調子に乗った伊能はさらに手首を引き寄せる。
悠理は目を剥いた。

「俺たち、きっと相性が良いと思うけど?」

「アホか!マジでぶん殴るぞ?息子に無様なかっこ見せたいのかよ?」

「そう簡単には殴られないさ。こう見えて、そこそこ鍛えてるんだ。」

見た目通り・・・省吾の胸板は厚く、腕の筋肉も相当なものだ。
その上、どこか修羅場慣れした雰囲気も漂わせている。
悠理とて本気で立ち向かわないと、さすがに勝てる自信はなかった。

「・・・約束してくれたら手を離すよ。」

「するわけないだろ!?」

「じゃあ、悠歌ちゃんの前でキスしようか?」

からかうよう脅しと指が食い込むほど強引な力。
悠理はおぞましさに眉を顰める。
唇だろうが、手首だろうが、清四郎以外に触れられることを許してはいない。
こみ上げる嫌悪感に肌が粟立つ。

「・・・・っざっけんな!」

悠理はもう片方の手で思いきり拳を握り、腕全体をスイングさせる。
こうなれば、子供の前であろうと遠慮などしていられない。

━━━━思い知らせてやる!

そう覚悟し、大きく振りかぶった瞬間・・・・・・・・・・・

目の前から男が一瞬で消え去った。
と同時に耳へと届く派手な水音。
ゼンマイ仕掛けの人形の様にぎこちなく首を動かしプールを見遣れば、そこには溺れかけの男が一人、バシャバシャと水飛沫を上げていた。

「おや、彼は泳げなかったんですか?」

氷のような声が悠理の頭上へと降り注ぐ。
再びゆっくりと首を元に戻したところ、目の前で姿勢良く立つ長身の男。
それは紛れもなく夫、清四郎であり―――彼はこの蒸し暑さの中、スーツ姿で涼しい顔をしている。
纏う冷気はアラスカの冬よりも冷たいだろう。
言うまでもなく、彼が伊能をあっさりと蹴り飛ばしたのだ。

「せ、せいしろ・・・休日出勤じゃなかったのか??」

「ええ、その通りですよ?それが何か?妻子の為、急いで仕事を終わらせるような出来た夫にはもっと優しい言葉が必要だと思いませんか?」

穏やかな話し方とは裏腹に、清四郎の瞳には猛烈な怒りが宿っており、身の危険を感じた悠理は心の中で念仏を唱えながら溺れる男を振り返った。

「あ、子供達に助けられてる。」

「ふん。・・・情けない男だ。」

悠歌は剣吾と協力しながら、大の男を一生懸命プールの縁まで引っ張ってくる。
悠理は慌てて立ち上がると、直ぐ様水の中へと飛び込んだ。



「あんた・・・・ほんとに泳げないんだな。」

多少水は飲んだものの、伊能は大したダメージを受けずに済んだ。
プールの外にあるテラスへと移動した大人達。
涼しい風がそれぞれの頬を撫でる。
遊び疲れた子供達もまた、広大に広がる芝生の上でシュークリームを美味しそうに頬張っている。
服を乾燥させるため、メイドが用意したバスローブを羽織り、情けない顔で俯く男を、悠理は気の毒そうに、そして清四郎はいまだ険しい表情で見つめていた。

「・・・・・頭が冷えたよ。本当に悪かった。」

謝罪する伊能に、清四郎は容赦しない。

「これから妻とは個人的に会わないで頂きたい。二度目はありませんよ。」

「・・・・・・・・・・・はい。」

そんな言質を貰ったところで、嫉妬深い夫の怒りがおさまるとは思えないが、悠理はホッと胸を撫で下ろした。
彼がこれ以上、伊能に対して攻撃することは無いと確信したからだ。
どちらかといえば、自分の身が危ない。
先ほどから肩に回された腕に恐ろしい力が込められている。

「服が乾いたらお引き取りを。さ、行きますよ、悠理。」

「・・・・・・・あ、うん。じ、じゃあ・・・気をつけてな。」

気落ちしたままの伊能は微かに微笑み、片手を上げた。
息子の前でこの上なく情けない姿を晒したのだ。
親の威厳も何もあったもんじゃない。

「悠歌!行くぞ?」

「ええ?もうちょっと遊びたいよ!!」

あれほど犬猿の仲だったくせに・・・・子供というものは簡単にその結びつきを強める。

「遊んでも良いがプールはダメですよ?」

「うん!パパとは後で遊んであげるね!」

キラキラと輝く無垢な笑顔に、清四郎とてそう簡単には勝てない。
親はどうであれ、子供には何の罪も無いのだから………。




「さて、どういった言い訳が聞けるんですかね?」

寝室に入った途端、壁際に押し付けられた悠理は未だバスローブ姿だ。
無論、その下は白い水着のままである。

「い、言い訳?」

「あの男の前でそんな姿を晒していた言い訳ですよ。」

「・・・・・し、しょうがないじゃん。悠歌と泳いでたんだし・・・」

後ろめたさで尻すぼみとなる言葉。

「ほう・・・・・」

「な、何?」

目を細めた清四郎は悠理の鼻先にまで近付くと、そこに軽く歯を立てた。

「いで!!」

「逆の立場に立って想像してみなさい。水着姿の僕がプールサイドで妙齢の女性と親密な距離で過ごしているところを・・・・」

そんな光景を一瞬で脳裏に浮かべた悠理は慌てて首を振った。

「や、やだ・・・・」

「でしょう?」

清四郎は素直に頭を働かせた悠理をヨシヨシと撫でながら、しかし逃げ道を与えようとはしない。

「あんな男に触れさせたこと、反省していますか?」

「う、うん・・・・・ごめん、せいしろ・・・」

「言葉だけの反省など必要ありません。もちろん態度で示して貰います。」

『あ・・・・やっぱり?』

それは想定内の発言で・・・・悠理は自分の落ち度を認識していた為、余計な反論はしない。
先ほどから穏やかに見える夫は、実のところかなりの怒りを胸に秘めていると解っているからだ。

「な、何したらいいの?」

「決まっているでしょう?」

清四郎の手が悠理の肌からバスローブを滑り落とす。
すっかり乾いてしまった身体に張り付いた薄い水着。
背中の紐をゆっくり解くと、小さな胸がぷるんと揺れ、美しい素肌が露わとなる。
まだ膨らみきらぬ紅色の突起があまりにも可憐だった。

「・・・・・・・おまえはあの男に・・・・・・・この胸を想像させたんだ。」

ギリリ・・・と奥歯を噛み締めた清四郎は、悠理の両腕を壁に押し付けたまま、そこへと噛みつく。

「あ・・・・!!痛い!!!」

妻のそんな悲鳴を聞いても力を弱めず、歯と舌で柔らかかった部分をどんどん硬くさせていく。

「い・・いや・・・・痛いよぉ・・・!」

「痛いだけじゃないでしょう?」

一旦歯を離し、ふっと息を吹きかければ、悠理の顔から直ぐ様苦痛が消えた。

「長年かけて慣らしてきた身体だ。このくらいの痛み、快感に変わるはずですよ。」

清四郎の言う通り、じんじんと痺れた先は更なる刺激を求め勃ち上がっている。
悠理は恥ずかしそうに頬を赤らめると、コクンと頷いて見せた。

「怒らせた罰です。覚悟しなさい。」

「・・・・・・・・・・・・ハイ。」

期待と恐れが入り混じる中、清四郎の手ずから与えられる痛みと快楽に悠理は呆気なく溺れ、ついには気を失ってしまう。
ようやく覚醒した時、窓の外は夕陽で赤く染まり、清四郎の膝上で優しく髪を梳かされていた。

「・・・悠歌は?」

「遊び疲れて眠ってしまいましたよ。」

「あの二人も・・・・帰った?」

「ええ・・・とっくに。」

見下ろす瞳に怒りは見当たらない。
いつもの穏やかな双眸。
その優しい光を愛しく感じ、身を起こした悠理は、シャツ越しの胸板へ猫が甘えるかのように頬ずりした。

「せいしろ・・・・」

「ん?」

「ごめんね?」

「・・・・・もう良いですよ。悠理の責任ばかりではない。」

「でも・・・・」

「ただ・・・昔とは違うんです。おまえは随分と綺麗になりましたからね。男を簡単に惑わすほど・・・・」

自分の功績だと分かってはいても、清四郎はそのジレンマに悩まされてしまう。
しなやかで滑らかな身体は自分だけのもの。
細胞の一欠片すら独占したいという、強い思い。

果たして、この愚かで愛らしい妻は理解しているのだろうか?

「・・・・・・惑わすのなら、おまえだけでいい。」

悠理はこの上なく甘い声でそう囁いた。

「・・・・これ以上?」

「ん。もっと・・・・もっとあたいに溺れて?」

「悠歌からも奪ってしまいますよ?それでも?」

「・・・・・・・そ、それは、ちょっとこま・・・んっ………!」

解りきった答えなど聞きたくない。
清四郎は妻の口を強引に塞ぐと、再びシーツに押し倒す。

「今夜だけは独占させて下さい。」

黒い瞳を情熱に揺らめかせ、切ないほどの声色で懇願する夫が愛しくて堪らない。
悠理は静かに瞼を落とすと、それを返事の代わりとした。

~おまけ~

伊能家では・・・・
湿った空気を纏う夫を妻が出迎える。
それに反して息子は元気いっぱいだ。

「随分と長居してきたのね。」

「あ、ああ。剣吾が悠歌ちゃんと一緒にプールではしゃいでいたから。」

「あら、あなたも濡れそぼっているじゃない。水嫌いなくせに一体どういうわけ?一緒に泳いでたわけじゃないんでしょう?」

「パパは溺れたんだよ!」

何故か得意気に報告する息子を見て、父はさらに項垂れる。

「溺れた?」

「・・・・足を滑らせただけさ。」

「・・・・・・・・・ふーーん。珍しいこと。」

妻の訝しい視線を振り切るよう背を向けた省吾は、足早に自室へと向かう。
勘の鋭い妻のこと。
追及されればボロが出てしまうかもしれない。

たった一日で、男としての自信と父親としての威厳を粉々に砕かれた省吾。
自戒の意味を込め、仕事に邁進することを胸に誓ったが、「やっぱ惜しかったな」と反省の色を感じさせない呟きがポロリと口から洩れてしまった。

彼と悠理はこの先長い付き合いとなるが、二人きりで顔を合わせることは一度も無かったという。