檜山澄恵(ひやますみえ)は包帯に隠れた脚を見つめ、そっと溜息を吐いた。
明日にはこの白い布ともおさらばだと聞いている。
だがこの白い布のお陰で毎日のようにあの人が声をかけてくれるのだと思えば、いつまでもこのままにしておきたいと望んでしまう自分がいる。
怪我をしたあの日。
本当は彼の前で眩暈を起こすだけのつもりだったが、運動神経の悪さから捻挫までしてしまった。
流す予定がなかった涙も、その痛みから。
どちらにせよ彼の気を引けたことは大成功なわけで、澄恵は想定以上の扱いを受け、ほくそ笑んでいたのだ。
大きな背中の温もりは今でも覚えている。
菊正宗清四郎───言わずと知れた聖プレジデント学園の生徒会長で、学園始まって以来の天才と称される彼が、見た目通りの堅物ではないと気付いたのはいつだったか。
有閑倶楽部のリーダー的存在。
あんな個性あふれる面々を上手くまとめあげるなんて、彼にしかできないことだ、と澄恵は常々思っていた。
恋にまで発展するとは想像していなかったが、同じクラスになってからというもの、彼の横顔を見てドキドキしていた。周りはきっとミーハーな感覚で見つめているのだろうが、自分はそうではなかったのだ。
菊正宗病院に付き添ってもらった時も、想いを押し殺すことだけで精一杯。
次の日には学園で噂になっていると聞いたが、喜びを隠して微笑むだけに留めた。
「随分と治りが早いようですね。」
彼の的確な見立てを聞き、少し残念に思ったあの日。
想いを伝えようか迷っていたが、結局弱気な自分が顔を出し、言葉を飲み込んだ。
もし、あの時、あのタイミングで告白していたなら、何かが変わったのだろうか。
それとも───
有閑倶楽部の看板があるその温室は、渡り廊下で繋がっている。
ひと目清四郎を見ようとうろついていたところへ、帰り支度をした美童グランマニエと黄桜可憐がこちらへ向かってきた。
二人の華やかさはあまりにも目に眩しくて、澄恵は慌てて校舎の陰に隠れるも、彼らの会話は丸聞こえ。
「………にしても悠理がねえ。」
「あら、それを言うなら清四郎でしょ?あの男、ほんっとポーカーフェイスなんだから!ちっとも気付かなかったじゃないの。美童、あんたはいつから知ってたの?」
「う~ん………明確には覚えてないけど、たぶん一年の時かな?」
「………そんなにも昔から?」
「ま、なんとなくだけどね。」
「そりゃ、あたしだって二人が結婚したらいいな、くらいには思ってたけど、まさか恋するなんて。」
「そっちの方がより自然じゃないか。」
「ま、ね。少なくとも清四郎は悠理にべた惚れみたいだし、ちょっと安心したわ。」
「悠理もああ見えて、べた惚れだと思うけど?」
「ふふ………可愛いったらありゃしない。あの二人、これから楽しみだわ。いつ頃キスしちゃうのかしらね。」
澄恵はハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
想像もしていなかった二人が両想い?
今の話からすると、もう付き合ってるってこと?
軽くパニックに陥るも、呼吸を整え、冷静さを取り戻す。
確かに過去、降ってわいたかのような婚約話が持ち上がったこともあった。
代理とはいえ、天下の剣菱の後継者として活躍する彼。
だがその後、いつの間にか話は立ち消えとなり、二人は以前と変わらぬ高校生生活を送っている。
だから安心したのだ。
彼がいつもの生徒会長に戻った時、距離感がクラスメイトのそれになり、澄恵は以前のように安全な場所から彼を見つめることが出来た。
そんな小さな幸せが、いつしかもっと大きなものを要求するようになってしまっていたことに、衝撃を受ける。
「私、馬鹿みたい………」
どう足掻いても剣菱悠理には勝てない。
あの圧倒的存在感を放つ麗人に勝てるはずもない。
ここはもう、諦めるしかないのだ。
わかってる。
「悠理、そろそろ帰りますよ。」「ほーい!」
旅行の予定を粗方立てた二人が、ようやく帰路につこうとしていた。
悠理のご機嫌ぶりはいつも以上で、清四郎としても自分の提案が正しかったことを自覚する。
旅行………いつもなら6人揃って計画するはずなのに、恋人同士になった彼らはもはやお互いしか見えていないようだ。
特に清四郎は我慢してきた分、悠理を独り占めしたいのだろう。
愛情という名の縄で、雁字搦めにしてやりたいとすら願っている。
もちろん己の全てを曝け出せば、さすがの悠理も及び腰になるため、そこは上手くコントロールしなくてはならない。
あくまでも紳士的に……。
獲物を捕獲する爪は隠したままで。
「そーいえば、せいしろちゃん。」
「なんです?」
「おまえのクラスメイト、ほら、ケガしちゃった女いただろ?」
「ああ、檜山さんですか。」
彼女の面倒は保険医に任せてもよかったが、檜山家といえば、代々厚生労働省の幹部クラスを輩出している家で、父の病院のことを考えたら、ここで恩を売っておくのも悪くないとの打算が働いた。
もちろん彼女の気持ちは気付いていたし、自分に注がれる熱い視線も認識していた。
かといって、何かが変わるわけでもなく、自分の気持ちが揺れるわけでもない。
檜山澄恵はあくまでクラスメイトの一員。
それ以上でもそれ以下でもない。
「そ!その女。」
「彼女がどうかしましたか?」
「あいつ、おまえの事好きだよな。」
「………………。」
「ふん、その様子だと気付いてたんだ。」
「……まあ、あそこまであからさまだと、さすがにね。」
悠理の口が尖がる。
「もし………」
「ん?」
「告白されたら、どうしてた?」
「断りましたけど?」
「ほんと?あたい、あん時、達也と付き合ってたじゃん………それでも?」
「当然です。なぜ好きでもない相手と付き合う必要性があるんです。」
その言葉は悠理の罪悪感に突き刺さったが、もちろん清四郎も分かった上でのこと。
「だいたい、そんな相手とキスしたいですか?抱き合いたいと思いますか?」
またしても突き刺さる言葉の槍。
まるでブーメランのように戻ってきて、胸が痛む。
悠理はあの夜の達也を思い出し、顔を歪めた。
「お、思わない!」
「でしょう?」
「う、うん。」
「卑怯かもしれませんが、僕は欲望に正直に振舞いました。あの時、悠理の気持ちをしっかり確認もせず、唇を奪ってしまった事、反省しています。」
「あ、いや……でもあたいも好きだったから………」
強烈なキスを思い出すと、今でも頭が沸騰する。
「よかった……。とことん卑怯な男になりそうで、本音は怖かったんですよ。」
清四郎が肩を抱きしめ、悠理はホッと彼を見上げた。
真っ直ぐに見つめ返してくれる美しい男。
この目の中に、自分以外の女は映ってほしくないとすら思う。
「悠理………好きです。今までもこれからも、お前しか欲しくないんだ。」
「清四郎………」
重なり合う唇。
何度もこれを繰り返すことで、一体何が生まれるのだろう。
悠理に分かることはただ一つだけだった。
清四郎への恋心がどんどん膨らんでいく。
付随する独占欲はさておき、今はこの幸福感に身を浸したい。
「あたいも───好き。」
素直な想いが飛び出せば、もはや些細なジェラシーなどどうでもいいと感じる悠理であった。