眼の前に広がる不快な光景。
初めはなんの冗談だ、と魅録を窺っていたが、どうやら嘘や新手のジョークではないらしい。
“達也”と呼ばれる男はよほどのお気に入りなのか、魅録は終始、満面の笑みで彼らを茶化していた。
この夜の始まりは彼の一言から。
「久々に飲みに行かねぇか!」
何も知らされず訪れたナイトクラブは繁華街から少し外れた場所にあった。
何故か別行動だった悠理は先に到着しており、バツの悪そうな表情で皆を迎える。隣には見慣れぬ青年がいて、奇抜な格好の彼女に合わせてか、独特な色合いのジャンパーを羽織っていた。
「魅録ぅ……!」
顔を合わせると同時、唸るような声と、母親譲りの睨みをきかせる。
その意味は?
「びっくりするなよ?実はこいつら付き合ってんだってさ。」
───はっ?彼は何を言っているんだ?
頭に届かない。この優秀な僕をもってしても、その言葉はあまりにも唐突で想像しがたい内容だった。
悠理の隣に立つひょろ長い男が交際相手だって?
いやいや、なんの冗談だ、これは。
名は達也………藤澤達也といい、驚くべきことに彼は悠理の恋人として正式に紹介された。
恋人?
悠理に恋人?
“あり得ない”と喚く可憐たちの気持ちがよくわかる。確かにあり得ないだろう。
”あの“悠理が恋をするなんてこと………あり得なさすぎて失笑してしまう。
いや、それより何より、何故彼なんだ?
彼女の好みからは程遠いビジュアル。顔はそれなりに整っているものの、少なくとも悠理のタイプではない。たとえ喧嘩慣れしているとしても、魅録や僕には遠く及ばず、恐らくは悠理のほうが数十倍強いはずだ。
一体、何があった?
皆に囃し立てられている間も、彼女の表情にいつもの明るさは見当たらず、僕は注意深く見つめる。野梨子たちの追及にはヘラっと笑い、躱すも、それが上手くいっていないことは明らかだ。
「もういいだろ!おまえらしつこいんだよ!」
最後はそんな捨て台詞を残し、男と二人、別の店へと逃げていった。
ははは……有り得ない。
悠理に限って、こんな状況は有り得ない。
胸の中で湧き立つ憤りと虚しさ。とめどなく押し寄せる後悔。
なんのために、待っていたのか。
なんのために、我慢していたのか。
彼女の自由を奪わぬため、
せめて高等部を卒業するまで、
自分の想いを押し殺し、
膨らみ続ける欲望に蓋を閉め、
恋愛の二文字を敢えて遠くへ追いやった。
それなのに、彼氏だと?
握った拳が怒りに震えるも、それを悟られぬようポケットに収める。
「驚きましたわね……まさかあの悠理が……」
紅潮した野梨子の顔が、その不自然さを物語っていた。
「あの子ったら、いつの間に……!この可憐さんにも言わないなんて、薄情すぎるわよ。」
「まあまあ。……悠理だって恥ずかしかったんじゃない?」
“とても恋してるようには見えないけど“
美童の呟きは的を射ていた。
そう……悠理はあの男に恋をしていない。
彼の方はひと目見てわかる。
ベタ惚れだ。
脅されたのか?
それとも絆されたのか?
いや……そんな男の欲望に甘んじるような女ではないはず。
少なくとも魅録のお気に入りなわけで、彼女にとって害になる輩ではないだろう。
しかし───
「清四郎。」
気付けば、美童の透明感ある瞳が僕を覗き込んでいた。
「なんです?」
「おまえ、顔色悪いよ?」
「………気のせいでしょう。」
「それにしてもびっくりだよね。」
「そう……ですね。」
「こういうの、日本では”トンビに油揚げをさらわれる“って言うんだろ?」
確信ある言葉と意味深な笑み。
彼は知っていたのか。
隠し通せると思っていた僕の想いを。
「…………参りましたね。さすがは恋愛の貴公子。」
「まあ、ね。」
フフンと鼻を鳴らす美青年に、一杯食わされた感がどうにもやるせない。
「どのみち相手は悠理なんだ。おまえはチェスの駒をひっくり返すのは得意だろ?」
そう言って金髪を翻す彼の陰なる応援に、僕は何と答えればいいかわからない。
だが………
黙って指を咥えているわけにはいかないのも確かだ。
手遅れにならぬよう、
慎重に、そして速やかに、
彼女の心を捕らえ、
僕のものにしてやる。
覚悟が決まれば話は早い。
目の前に置かれたグラスを一気に飲み干すと、燻っていた闘志に火がついたような気がした。
隣りにいる男が恋人である自覚は無いに等しいが、今日は全てが暴かれてしまい、もはや逃げようがないと苦い諦めが横たわる。
魅録を恨みがましく思えど、時間の問題だったことは確かで……
あの時、清四郎はどんな顔をしていたのか、悠理はそれだけが気になって仕方なかった。
「悠理さんの友達はみんな素敵な人ばっかっすね。」
達也は恐らく圧倒されたのだろう。
美童も、可憐も、野梨子も、群を抜いた美形だ。清四郎はそれに加え大人びた雰囲気を纏っているし、高圧的で手に負えない男だと一目見てわかるはず。
圧倒的な強さと教養、挫けぬ精神の男は、いつも倶楽部のリーダーとして率いてくれている。
そんじょそこらには転がっていない男……
「あ、もちろん、悠理さんが一番カッコいいっすよ!」
交際したら何が変わるんだろうと身構えていた悠理だが、彼は特に変化することもなく、いつも通り親しげに接してくれている。それが有り難かった。
こういうのが男女交際なのか?
美童や可憐とはまた違った世界に足を踏み込んだような、不思議な感覚。何が正解かなんて、悠理の辞書には載っていなかった。
「正直言うと………あんな人達が周りにいるってだけで、俺、不安になるっす。」
「そんなの、余計な心配だよ。」
「特にあの人……魅録さんが認めてる黒髪の……あんなパーフェクトな人が近くにいて、ほんとに何も思わないんっすか?」
ドキッとした。
釘を打ちこまれたかのように。
「せ、清四郎のことか?あいつは確かにスゲーやつだけど……性格がひねくれてて厄介な男なんだよ。」
「ふ〜ん……それっぽいかも。」
「……だろ?」
そんな男に恋をして、そんな男を忘れようと、おまえと付き合い始めたんだ……
悠理の罪悪感は膨らみ続けているが、それでも今、達也と離れることは出来ない。
もう少し……
もう少し、何かが変わったなら、清四郎のことも”あれは気のせいだった“と笑えるかもしれないのに。
逃げるようにクラブを飛び出した後、選んだ先は程よくアダルトなバーだった。
自分たちには少々早い気もしたが、正直どこでもよかったのだ。
気合いの入ったカクテルを差し出され、渇いた喉をどんどん潤してゆく。気が付けば、それなりにほろ酔い状態となっていて、隣の達也もまた熱い息を吐き出していた。
「悠理さんは……ほんっと、美人っすね……」
よほど自分の顔が好きなんだろう。思い起こせば、彼の隣を歩く女は皆スッキリとした美人ばかりで、面食いなんだなぁと感じた覚えがある。
彼の誘うような視線に絡め取られ、その意図を明確に読み取ってしまう悠理もまた酒に酔った証。
(ま……いっか……)
清四郎の顔を一瞬思い浮かべたが、このまま次のステップに踏み出せば、気持ちを塗り替えられるかもしれない。
それなりの年頃。
それなりの経験。
決して悪くはない。
そんな安直過ぎる考えで、達也の想いを受け入れようとしたのだが……
彼の手に触れられただけで背中に怖気が走り、顔が近づいてきただけで鳥肌が立つ。
刻一刻と接近する唇。
覚悟を決め目を閉じた悠理だったが、
「うぅ〜〜〜っ!!!やっぱ、ごめん!!」
脊髄反射というものだろうか。
彼を思い切り突き飛ばした後、風のように店から立ち去る。
ごめん……!
ごめん……達也!!
あたい駄目だ……やっぱ駄目だった!
罪悪感なんてもんじゃない。もはや絶望に近い思いを感じながら、夜の街を走り抜ける悠理。
きっと傷つけただろう。
最後に見た彼の目は驚愕に満ちていた。
くそっ!どーにかしてくれよ……清四郎!
暴走する想いを持て余しながらも、結局彼女の頭にはあの男しか浮かんでこなかったのだ。