日が短くなるのも秋が深まっている証拠。
野梨子は温かなミルクティを啜ると、窓の外をそっと見遣った。
紅葉もすっかり色を変え、遠くにある銀杏は眩しいほど輝いている。
美しい景色。
そしてその景色の中に、生まれたてのカップルが肩を並べて歩いていくのだ。
まるで昔からそうであったかのように、仲良く。
「幸せそうですこと。」
「羨ましいか?」
一人きりだと思っていた野梨子は思いがけない声に、まだ紅茶の入ったカップを落としそうになった。
彼に染みついた煙草の匂いは甘いミルクティーの香りにかき消されていたのだろう。
足音も聞こえないくらい、外の景色に意識を奪われていたこと、彼女はようやく気付く。
「魅録、驚きましたわ。下校したものとばかり………」
「ちょっと忘れ物だ。」
と片手に掴んだバイク雑誌は、昨日発売されたものだと聞いていた。
毎月発売される愛読誌。
昔は興味も湧かなかったのに、今は本屋で見かける度、ドキッとする。
「あいつらと一緒に帰りゃいいだろうに。」
「………よしてくださいな。そこまで無粋じゃありませんわ。」
「ははは………大変だな。」
ちっとも同情していない表情で、魅録は野梨子の隣に座る。
「旨そうな匂いじゃねぇか。」
「魅録も飲みます?」
「ああ、もらうぜ。」
突如訪れた二人きりの時間。
野梨子の心が弾むのも無理はない。
彼はわりと忙しい人間で、放課後もそそくさ帰宅することが多く、なかなかこういった時間はもてなかった。
ポットの茶葉を入れ替え、冷蔵庫からひんやりとしたミルクを取り出す。
お湯を小さな鍋で沸かし、時間を計りながらチラリと魅録を見れば、彼は持ち帰るはずのバイク雑誌に没頭していた。
─────私の気持ちなんて、百年経っても気付きそうにありませんわね。
鈍感な男………。他の事なら人一倍敏いのに。
とはいえ、口にしない想いなど伝わるわけがない。
誰もが美童のように恋愛のエキスパートではないのだから。
「はい、どうぞ。」
「お、サンキュ。」
雑誌から目を離さぬまま受け取ったミルクティーは、ビター好みの彼にはきっと甘く感じるだろう。
野梨子はその一杯に自分の想いを吹き込んだ。
まだ言葉に出来ない、切ない想いをたっぷりと。
「美味しい?」
「ああ、旨いよ。」
今はこんな時間が愛おしい。
いつかは彼らのように肩を並べ歩く日が来ると信じて────
野梨子はその日、少し足りない勇気を溜め込む覚悟を決めた。
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鬱陶しい雨ですこと────
シトシトと地面を濡らす雨。
ここ三日間降り止まないのは季節の変わり目だからだろう。
それまでは晴れ渡る秋空にうっとりしていたはずなのに、今は毎日足下を気にしなくてはならないほど。
地面が乾く暇もなかった。
「野梨子、今日買い物行かない?」
憂さ晴らしでもしたいのか。
可憐の前向きな誘いに野梨子は穏やかに首を振った。
「ごめんなさい。今日は母様のおつかいで出掛けなくてはなりませんの。」
「あら、そ。わかったわ。悠理………は、誘うだけ無駄ね。」
視線を流した先には、窓際でイチャつく一組のカップル。
他の誰よりも恋に溺れたのは、彼らだった。
今は暇さえあれば二人だけの時間を楽しんでいる。
「ねぇ、美童。新しく出来たモール行きましょ。あんたと歩くと気分いいから。」
「人を毛並みの良い犬扱いしないでくれる?」
可憐と美童がその後の約束を決めている中、魅録は携帯電話で何やら話し込んでいた。
相手は恐らく暴走族の仲間。
彼の交友関係は、野梨子には想像出来ないほど刺激的だ。
ヤクザの組長とも親しい間柄。
本当に警視総監の息子なのだろうか、と首を傾げたくなる。
野梨子は一つ溜息を吐き、立ち上がった。
約束の時間までに帰宅し、着替えを済まさなくてはならない。
「では、ごきげんよう。」
そう言って皆に会釈し、もう一度想い人を振り返る。
しかし電話に夢中の彼はこちらを意識した様子もなく───
野梨子はほんの少し寂しい気持ちで部室を後にした。
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用事は銀座のど真ん中。
老舗の和菓子屋で、週末に行われる茶会の菓子を注文することだった。
いつもなら電話一つで済ませるのだが、今回は新作の生菓子を吟味するため、わざわざ出向くことになったのだ。
母の手伝いを本格的に任されるようになって早半年。
こういった細かい決め事も大切な仕事の一つである。
遠くない将来、何の疑問も抱かぬまま野梨子は家元家業を継ぐだろう。
あらかじめ敷かれたレール。
幼い頃からそれが当然として生きてきたのだから、迷いはない。
萌葱色のワンピースの裾を気にしながら傘を差すと、辺りはすっかり日が暮れ、薄闇に包まれていた。
「急がなくちゃ。」
夕飯を待つ父母を思い、小走りに駆け出す。
この雨だ。
どうせならタクシーを拾えば良いかと、乗降場を探すべく振り返ったところ、野梨子はそこに思いがけない人影を見つけた。
「魅録………」
一台のタクシーから降りてきたのは魅録。
そしてその後に続くもう一人。
薄暗くてもはっきりとわかる。
自分達と変わらぬ年頃の華奢な女性だった。
────誰?
野梨子は足早に駆けていく二人の後ろ姿をただただ見送ることしか出来ない。
魅録が雨に濡らせまいと彼女の肩を抱き寄せている姿が目に焼き付き、胸が痛いほど絞られた。
決して気の利くタイプではない彼が、労りを見せる相手。
それは紛うことなき特別な誰か。
恋人の有無など、仲間内で尋ねたことはない。
秘密主義というわけではないが、進んで話をするタイプではない彼へ、誰もが聞くことを躊躇っていたのかもしれないが。
男友達に囲まれる魅録は決して恋をしない男ではないし、事実、’チチ’という過去があるのだから、年相応に恋人を作ってもおかしくはないのだ。
大切な誰かをその腕に抱いていても、ただ知らなかっただけのこと。
────わたくしは、愚かですわ。
本当はとっくに魅録への気持ちを自覚していた。
かつての初恋に気付く前からずっと。
素っ気ない外面に隠れた彼の優しさに惹かれるのは当然。
もしかすると初めて出会ったあの時から、幼い心に住みついていたのかもしれない。
雨が降る。
それは冷たい涙雨。
野梨子は握りしめた傘をそっと閉じ、水滴に打たれ続けた。
もはやこの恋は実らないのかもしれない。
全てが遅く、魅録にとって自分は友人でしかないという現実が横たわっているのかもしれない。
真実を暴くことは恐ろしい。
かといっていつまでも怯えていては何も始まらないのも確か。
もし僅かな可能性すらなくなったとして、果たして今まで通り友人で居られるのだろうか?
日々、彼に笑顔で挨拶出来るのだろうか?
千々に乱れる心。
不安に絡め取られる想い。
頬を流れる雨を拭い、野梨子はぎゅっと奥歯を噛みしめた。
続く・・・