狐の婿入り〜第十話〜

狐の婿取りシリーズ


 

競うかのような鈴虫の音。

池には鴨の番(つがい)が優雅に水をかいている。

ススキや萩が冷たい風に揺れ、秋の庭を彩る。

いつしか深まっていた季節の中、悠理はただただ暇そうに庭を眺めていた。

いつも側にいるはずの魅録は牛や馬の手入れをしているようで、目の届くところには居ない。彼は働き者であるからして、屋敷でも重宝されているらしい。古参の褒め言葉もよどみなく溢れる。

──夕餉の時刻に戻ってくるか

悠理は独り、今流行りの甘味を味わいながら暇を持て余すしかなかった。

(……母ちゃんたち、心配してるかなぁ)

元々、互いを干渉しない種族であるが、悠理は“長の娘”。ある程度の自由と束縛が課せられている。

今回の旅について、妖力の使い手である叔父はあまり良い顔をしなかったが、両親……特に母は「これもいい経験になるでしょう。気をつけていってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた。

妖力の安定しない娘とはいえ、腕っぷしの強さは長老のお墨付き。妖狐の雄たちを平伏させるほどの力とその胆力を持っていれば一人旅も問題ないだろう。

両親はそう考えているはずだ。

とはいえ、まさか……

まさか………人間の男と結ばれ、子まで授かるとは、さすがに想像出来なかったろう。

ましてや相手は帝の血筋。敵といっても過言ではない男なのだ。

普段から、”年頃なのだしそろそろ結婚しろ“と言われることはあれど、実際どう思っているかは分からない。

娘を溺愛する父親はいつまでも側に居てほしいと願っているし、母もまた相応しい男が現れるまで無理強いするつもりはないはずだ。妖狐の寿命は人のそれより遥かに長いのだから当然といえば当然。

「………あたい、ど〜すりゃいいんだろうな……」

未だ平たい腹を無意識に撫でると、そこにいるはずの新しい命が、悠理の手を押し返すよう温めてくれたような気がした。

「恐れ入ります……」

不意に声をかけられ驚かぬはずはない。悠理が身構えると、御簾の向こうに佇む影を見留めた。

日頃、世話をしてくれる官女の声ではない。

「誰だ?」

「お殿様の遣いでございます。」

そう言って御簾をくぐり、静々とやってきた中年女の顔色は青く、体は痩せ細っている。

(腹でも壊してんのか?)

悠理は思わず首を捻った。

血管の浮き出た手には、桐の盆に乗った二枚貝の入れ物。

「これ、なに?」と尋ねると、「大変貴重なもので、皇室に伝わる“腹の子に良い妙薬”です。」と女は答えた。

開けてみれば、木の実よりも小さな丸薬が二つ転がっている。

「我が殿が、いち早く届け、飲ませるようにと申されて………」

そう言って、女は部屋の隅にある水挿しから茶碗一杯ほどの水を注いだ。

(ふーん……まあ、清四郎がそう言うなら……)

悠理はその怪しげな薬を無造作に手に取る。色は濃い草を思わせ、さほど強い匂いではない。

「ささ、この水で……一気に飲んでくだされ。」

「………わかったよ。」

ゴクン、ゴクン……

「お飲みになられましたな?」

「………うん。」

「これで元気な“やや”を産むことが出来ます。」

安堵したのか、にっこり笑った女は、腰を低くし、そそくさと部屋から出ていった。

まるでねずみのように。

「ふん。妙薬、ねぇ。」

遠ざかる女の足音を確認し、悠理は口の中へとおもむろに指を突っ込む。嗚咽と共に吐き出したのは、先程の丸薬だ。

「ペッペッ!………やっぱこれ、毒じゃん。」

その小さな二粒の薬は、妖狐の里でも滅多に手に入らない毒草から作られていた。

幼き頃、その草を粥に混ぜ食べようとして、仲間にえらく怒られた記憶がある。

それからだ。

食べて良いもの、駄目なもの。

悠理はとことん調べ尽くした。

この薬は即、死を迎えるほど強力ではないが、毒が全身に回ると意識を失い、目覚めるまで相当な時間がかかるという。

無論、その間飯を食えないのだから、いつかは弱り果て、あの世へ旅立つことになるだろう………。

 

───あの女、一体何者なんだ?

悠理は吐き出した薬を和紙でそっと包んだ。もちろん清四郎を疑うことはない。彼がそんな物を寄越すだなんて、天と地がひっくり返っても有り得ない話だ。

となると相手は……

“悠理を疎ましく思う者”

悠理の存在に脅かされる者だ。

「ま、ある程度覚悟してたけどな……。」

ごろんと横になれば、カサカサと音を立て枯れ葉が転がる。

さみしげな秋の庭。

今吹いた風は、悠理の胸の中のそれとよく似ていた。

───────

「悠理。」

馴染んだ大きな手が、彼女の頬をそっと撫でた。

「ん………………清四郎?」

鋭い嗅覚を持つ鼻が、たちまち彼の香りを察知する。

「これは……何です?」

喉の奥から絞られたような怒気をはらむ声。

その声を聞くなり、悠理は目をパッチリと開け、慌てて身を起こした。

いつの間に夜を迎えたのだろう。

魅録と夕餉を食べた後、珍しく考え事をしている内に本気で寝入ってしまったらしい。

清四郎の帰りを待つつもりだったのに

───それもこれも腹の子のせいかもしれない。

張り詰めた空気と、闇に揺れる黒水晶を思わせる瞳。

愛しき男の腕に抱かれながらも、悠理の背には緊張が走る。

ふと視線を流せば、床に広げられた和紙に先程吐き出した丸薬が転がっていた。

「あ……これ………」

確か、着物の胸元に入れたはずなのに……何故?

その答えは明白だ。

眠る悠理を、帝の住まいから戻ってきた清四郎が欲望のまま貪ろうとしたから。

愛しき女が眠る姿を前にして、理性など全くの無意味。

彼女の着物は清四郎の手で開けられ、その胸元にあった包み紙はあっけなく彼の目に留まってしまった。

特に隠すつもりはなかったが、誤算といえば誤算。

まだ見ぬ敵へ一人で立ち向かう決意が阻まれてしまう。

「毒薬の一種ですね。一体誰がこんなものを?」

目を細め追及する男。

「知らない女だよ。官女のフリしてあたいに飲ませようとしたんだ。」

悠理は素直に吐露した。

「官女の振りを?………どんな女でしたか?」

短い付き合いだが、彼女の性格は単純明解、分かり易い。どうせ一人で方を付けようとしたんだろう。

そんなことを許すつもりはないが。

「特徴はそんなに無いけど……顔色の悪い小柄な………おばさん?かな。」

「年は?」

「……結構いってると……あ、こら、ちょっと…………」

男の大きな手に収まるささやかな胸。

高鳴る心音を確かめ、安堵する清四郎の唇が、彼女の美しい輪郭を艶かしくなぞっていく。

「安心しろ、すぐに見つけ出します。そして八つ裂きにしてやる……」

そう、男は静かに怒っているのだ。悠理の予想を遥かに超える温度で。

もちろん、何の痛手も負っていない悠理にとって、この件は大したことではない。

無論、無視することは出来ないが、清四郎のように復讐心を滾らせることはなく、ただ相手の正体を掴み、真っ向から対峙しようと考えていた。

人間と妖狐───

果たしてそんな間柄で話し合いが上手くいくかどうかは分からないが。

深い闇色の髪を撫でながら、悠理は清四郎の憤りを宥めようとした。

「そんな怒んなくていいよ。あたいは妖狐だ。滅多なことじゃ傷つかない。相手にだってそれなりの理由があ……っ………んっ……」

容赦なく言葉を遮り、白い肌にかじりつく清四郎が愛おしい。

燻っていた欲望に火が灯ると、たちまち喉が鳴り始めた。

もうすっかり馴染んだ胸の甘い痛み。

男の美しい鼻梁が悠理の香りの全てを嗅ぎ取ろうとしている。

熱く湿った吐息が肌を、そして心を震わせた。

「………おまえを独り占めすると、困る女がいるんだろ……?」

その言葉を聞き、清四郎の動きがはた、と止まる。

───まさか?

いや、あの純粋無垢な姫がそんなことをするはずがない!

一瞬よぎったその考えに、首を横に振る清四郎。

籠の中で真っ直ぐ、美しく育った幼き姫は、利発で気品高く、そして誰よりも自分を慕ってくれている。

いつかは妻になると思っていたが、彼女が大人になればまた別の出会いが訪れるかもしれないからと、それまでの間、保護者に徹しようと考えていた。

兄と妹

父と娘

どんな関係であろうとも、信頼は崩れることがないと信じていたのに。そう信じたかったのに。

「………心当たりあるんだな?」

悠理の視線が全てを暴こうと輝く。煌めく金色の瞳はまさに妖狐らしさを表していた。

「………ありませんよ。」

それは彼にとって人生で最も下手な嘘だったかもしれない。

そんな嘘を隠すため悠理の唇を奪うと、速やかに抱えあげ、褥の上へ。

揺らめく高灯台の灯り。

寒さを感じさせぬよう、衾(ふすま)で半身を覆う。

滑らかな肌に手を這わせ、耐えきれず洩れ出す甘い喘ぎを存分に引き出す。

「はぁっ……ぅ……っ……清四郎!」

「…………ゆうり!」

決意は変わらない。

この愛しい女へ毒を捧げた者をこの世から抹殺してやる。

それがどんな人間でも。たとえ心を許した者であろうとも。

────

「ぁ……んっ…………せぇしろぉ……」

快感に咽び泣く悠理の奥深くへと、男は沈み込んでいく。今、彼女が狐の姿に戻ろうとも、止めることなど出来ないだろう。

それほどまでに燃え滾る情欲。

溢れ出す蜜の甘い香りが脳髄を蕩かす。

「ひ……っん……!あ、もう………無理……」

男の首に齧りつきながら、悠理は深く達した。肌がぴりぴりと震えるほどに。

しかし清四郎の動きはおさまらない。背を反らしながら持ち上がる女の細い腰を掴み、更に艶かしく抽送を繰り返し始める。

“溺れている”

そんな自覚はとっくにあった。

この妖狐に、己の人生を賭けることを。

この美しい女のため、今ある地位を捨てることを。

悠理と残りの人生を楽しめるのならば、他に何も要らない。

「貴女の命も……、この身体も……全ての情も………私のものだ……!」

白く果てる瞬間、清四郎はそう断言した。

そして、絶え間なく押し寄せる絶頂に微睡む悠理を抱きしめながら、優しく口づける。

「愛してます……悠理。離さない、絶対に!」

甘美で幸福なその瞬間。

懇願するような男の台詞を聞いた悠理は、抗えない眠りへと引きずり込まれていった。

────────

「おっしゃった通り、あの薬を与えてきました。」

「お疲れだったわね。」

乳母はそっと布袋を手渡す。

中身を確認した女は頭を深々と下げ、夜の闇へと消えていった。

中身は庶民が滅多に手に入れることのできない練香。町では恐らく高価な値が付くだろう。

「乳母や、何をしているの?」

野梨子は闇に佇む背中に声をかける。御簾を揺らす風が少し強くなってきていた。

「なんでもございませんよ、姫様。ほら早くお休みになってください。今夜は冷えますから火鉢を用意しておきましょうね。」

そんな心遣いにコクっと頷く野梨子姫を、満足そうに眺める乳母であった。