絶え間なく降り続く雨は
大都会東京をすっぽり包むよう
雨足を強めていく
剣菱が持つ超高層ビルの最上階。
その宝石を撒き散らしたような街を、今年26歳を迎える清四郎は眉を顰めつつ眺めていた。
”今夜も遅くなる”
そんなメールを愛する妻へ送ったのは、かれこれ2時間前のこと。
既読になったはいいが、返事がない。
恐らく不貞腐れているんだろう。
最近、一緒に食事をとらない日が確実に増えてきている。
それに対する妻の不満、憤り。
手当たり次第、仲間へ誘いのメールを送るが、皆もそれぞれ忙しい年頃であるからして、なかなかつかまらないのが現状だ。
「ご機嫌斜めなんでしょうな………」
頬を膨らませた妻の顔を思い浮かべ、清四郎はくすっと笑みをこぼした。
時差の関係で今からニューヨーク支社との会議が行われる。
それまでの数分の間、愛する妻の顔を思い出してもバチは当たらないだろう。
──────────
雨の中、互いの気持ちを確かめ合ったあの頃。
紆余曲折はあれど、二人は無事結婚にたどり着いた。
剣菱財閥の次期跡取りとして、当時のマスコミはこぞって騒ぎ立てたものだ。
清四郎にとってもそれは望んだ未来。
一度目の婚約は野心だけが先走り、己の未熟さを痛感させられたが……二度目は愛を基軸とし、この椅子に座る権利を得た。
剣菱の宝とも言える悠理を手に入れた若き獅子を、世間は一体どう見ているのだろうか。
「ふ………そんなことはどうでもいいんですけどね。」
仕事よりも妻の機嫌が気になる夫にとって、東京に降り続く雨はメランコリックな気分を連れてくる。
きっと……同じ気分で外を眺めているはずだ。
清四郎は小さなため息を零しつつも、暖かな感情を胸に抱いた。
──────────
悠理が夫からのメールに気付いたのは、深夜12時のこと。
1日中体調が優れず、とはいえいつも通り夕飯を食べた後ぐっすり眠っていた。
「あ……返事してない……」
眼の前のちらし寿司にがっついていた悠理は夫からのメールに視線を飛ばしただけで、返事はしなかった。
ちょっとした意趣返しのつもりで。
「何日目だぁ?……ったく、残業残業って。」
無論、忙しいのは理解している。
剣菱は世界に通用する財閥で、その中枢に居る人間は働きアリのように忙しい。
ああ見えて万作もわりと仕事をしているのだ。
兄、豊作に任せることも多いが、ここぞという時は出張っている。
そうじゃないと回らない大きな渦。
今は清四郎もその渦中の一人で、慣れない環境に身を置いている。
ストレスだって溜まるだろうことは、悠理にだって理解できていた。
「にしても眠いな……。なんか頭もぼ~っとするし……」
食欲は通常運転。
しかし睡眠欲はいつもの倍ほどある。
「ま、いっか……寝よっと!」
メールの返事すら諦め、悠理はベッドに潜り込む。
──眠い……とにかく眠いんだ……
朝方、清四郎が慌てた様子で帰宅するまで、彼女の瞼は開かなかった。
────────
「妊娠六週目あたりですね。」
都内でもトップクラスと呼び声高い菊正宗病院。その診察室で四十路の女医はそう告げた。
ごく淡々と、しかしモニターの影を指差し「おめでとうございます。」と祝う。
「にん……しん……」
ポカンと口を開ける悠理に対し、清四郎はモニターに映し出された命を眺めながら「よし」と小さく声をあげた。
一年前から意識的に子作りに励んできた夫にとって、それは待ちに待った日だったのだ。
いくら計画通りとはいえ、これは天からの恵み。
歓ばずにはいられない。
「安静に、食べ過ぎにも気をつけてください。今が大事な時期なので。」
そう言って手渡された小さな写真を悠理はぼんやり受け取った。
何が何だかわからないが、夫にはしっかり見えているのだろう。
新しい命の形が……。
「こんなちっこいのが……赤ちゃんかよ……」
「大きくなるんですよ、これから。」
清四郎の断言は間違っていないだろう。
今は何も感じないお腹を見つめてみるが、間違いなくここに新たな生命が宿っているのだ。
「あたいが……産むんだよな。」
「まあ……そうなりますね。」
とんちんかんなやり取りだが、悠理としては上出来である。
その直後、廊下を駆ける大きな足音が聞こえ、二人は反射的に身構えた。
ドタドタドタ………バンッ!
診察室を無遠慮に開ける人間はこの病院でたった一人。
「清四郎!」
そう、院長である菊正宗修平だ。
「騒がしいですよ。」
豪傑な父親を窘め、清四郎は小さく睨みつける。自然と悠理の体を庇うようにして。
「そんなことより、でかしたな!」
息子の肩を思い切り叩いた修平は直後、ベッドの上に腰掛け呆然としている悠理を躊躇いなく抱きしめた。
驚く女医と看護師たち。
これほどまでに感情を隠そうとしない腕利き院長は初めて見る。
「悠理くん、よくやった!!すぐに剣菱さんたちも駆けつけるからな……!」
「父ちゃんたち?」
「ああ、直ぐにだ!」
清四郎が愛妻から父親を剥がすと同時、廊下を駆ける複数の足音。
言わずもがな、仲間たちの足音も含まれている。
バン!!
「「「悠理!!!」」」
万作と百合子を筆頭に、こぢんまりとした診察室は一気に窮屈な空間となった。
両親に挟まれ、抱きしめられ、仲間にお祝いの言葉を羅列された悠理は、ようやく実感したかのように笑顔を見せる。
「あたいが”母ちゃん“になるんだ……」
喜びを噛み締めたようなその台詞は、皆の涙を誘った。
「悠理、あんたに先を越されるなんてちょっとアレだけど……とにかくお医者様の言う事を聞くのよ?わかった?母親になるんだからね!」
可憐の泣き笑いが皆を更なる感動の渦に誘い込む。
優しくも騒がしい面々。これも見慣れた光景である。
ありったけの幸せが訪れたその日。
数日降り続いた雨はようやく止み、雲の合間から眩い光がこぼれる。
こうして悠理と清四郎は新たな人生のステージを歩み始めたのだ。