「嬢ちゃま、お客人がお見えですぞ。」
「あたいに?」
その日、剣菱邸に現れた人物は、夏の日射しを跳ね返すような、真っ白なワンピースを身に着けていた。
清楚な白一色。
肩にも届かない、真っ黒なショートボブ。
半袖から延びる小麦色の腕は適度な筋肉に覆われている。
「ご無沙汰しておりました。奥さま。」
子供を抱え出迎えた悠理は一瞬、誰だろうと首を捻ったが、
見覚えのあるえくぼに「ああ!あの時の………!」と合点がいった。
「久しぶりだなぁ。びっくりしたよ。」
まじまじと彼女の全身を見つめながら、ソファへと腰かける。
久々の再会。
だが、あの夜に見た面影はほとんど見当たらない。
「奥さまはちっともお変わりありませんね。お子さままでいらっしゃるのに。」
悠理の真向かいに座った晃子は、五年前と何ら変化の見られない美しい姿に、内心驚愕していた。
同じ小麦色の肌をしているというのに、その滑らかさは触れなくても判る。
自分はもう紫外線の洗礼をたっぷりと思い知り、日々増え続けるシミに怯えているのだが。
「あの時は、本当に申し訳なく………その上、大変お世話になりました。遅くなりましたが、こちらをお返し致します。ほんの少しですが御礼も添えさせていただきました。」
ローテーブルに差し出された封筒は、見なくとも判る。
彼女に渡した200万が収められているのだろう。
「わぁったよ。受け取っとく。」
悠理は中身を確認しないまま、子供をあやし続ける。
生後一年にも満たない幼子は、興味津々の様子で封筒に手を伸ばそうとするが、母は優しくその手を掴んだ。
「今、何してんの?」
アイスティを啜りながら窺うと、晃子ははにかんだように頬を緩ませる。
「実はあれから結婚しまして、今、北海道の牧場で夫と働いています。」
「へぇ、おめっとさん。だから日に焼けてんだ?」
「はい。もう、女を捨てて頑張ってます。」
そう言いながらも、悠理の目には充分女らしく見えた。
焼けた肌はむしろ健康的。
以前の化粧で塗りたくられた青白い顔より、断然好ましい。
「子供は?」
「二人。男の子二人です。」
「やんちゃだろ?」
「ええ、びっくりするほど。」
「こいつもまだ一才にもなってないのにやんちゃなんだ。目が離せないよ。」
「お一人なんですか?」
「うん。やっと、ね。」
照れ笑いする彼女はとても三十路には見えない。
晃子はそんな幼さの残る悠理を眩しそうに、そして羨望の眼差しで見つめ続けた。
「ご主人様も………お変わりありませんか?」
「ああ。元気だよ。毎日忙しくって、夜も遅いんだ。遊んでる暇もない。」
「それでも……奥さま、お幸せそうです。」
「うん………まあな。こいつが出来てからバタバタしててそれどころじゃないし、いつの間にか日が暮れてる。でも、あんたも幸せそうだ。」
晃子の瞳にあの頃の‘恋に飢えた’様子は見られない。
その事が悠理の胸を落ち着かせた。
二人は過去のわだかまりを伏せながら、差し障りのない世間話を続ける。
「北海道かぁ。いいよなー。今度、遊びにいってもいい?」
「是非。お子さまがもう少しだけ成長すれば、ポニーにも乗っていただけますし。」
「また五年後くらい?」
「そうですね。」
五年など、あっという間だ。
悠理は晴れやかに笑うと、晃子に手を伸ばした。
「んじゃ、これからよろしく!」
目を瞬かせた晃子はその手を恐る恐る握る。
あの頃も思った。
この女性には決して敵わない、と。
いつも真っ向から挑んでくるその姿勢は、強さの象徴だ。
夫である彼を素直に「恋しい」と言い切った瞳は、今でも晃子の中に強烈な記憶として残っている。
━━━きっと彼も、奥さまのこんなところが愛しいのね。
女の私だって焦がれてしまう。
美しく輝く彼女の姿が、全てを物語っている。
愛し愛される存在として━━━
晃子が帰った後、悠理は札束の入った封筒をポケットに突っ込むと、子供をメイドに預け、名輪の車に乗り込んだ。
「嬢ちゃま、どちらへ?」
年老いた五代が訝しげに尋ねる。
「せーしろーんとこ。夜飯要らないから!チビの世話、頼むな!」
辺りはすっかり夕暮れ時。
剣菱本社に到着した悠理は、携帯電話で夫を気軽に呼び出す。
ラフなTシャツにオーバーオール。
彼女の顔を知る社員とて、二度見してしまうほど若々しい印象だ。
「悠理、一体どうしたんです?」
たった二分で駆けつけた清四郎は、思わぬ場所に座る妻へ何事かと詰め寄る。
「今から遊びにいこ?」
「は?」
「だからさっさと仕事終わらせろよ。香港にする?それとも……」
「ち、ちょっと待て。そんな急に………だいたい、あいつはどうしたんです?」
慌てる清四郎のネクタイ掴み、悠理は強引に端正な顔を引き寄せた。
「おまえが欲しいんだ。二人きりになりたい。」
「!!!」
誘うような、それでいて挑むような瞳。
しかし、そこには紛うことなき、‘女の欲望’が秘められている。
久々に見るその光に、清四郎は思わず唸る。
子供が産まれてからというもの、妻からこんなにも激しく求められたことは彼の記憶になかった。
「清四郎が恋しいよ。」
「ゆ、悠理………」
ここは会社だというのに━━━
清四郎の胸に熱いものが波打ち始める。
今すぐにでも搔き抱いて、無茶苦茶に口付けたくなる衝動を、理性という名の力で押し止めた。
「解りました。どこへでもお供しましょう。スケジュールを空けてきます。」
「ん。」
ネクタイを締め直した清四郎の背中を、悠理は呼び止める。
「せぇしろ!」
「はい?」
「今夜は寝かさないで?」
「!!!!」
完全無欠な男を、ここまでぐだぐだにさせる女はこの世に一人しかいない。
真っ赤な顔で戻ってきた上司を有能な秘書たちは目を丸くして迎えたが、その原因は一つしかないな、とすぐに思い当たった。
『今日は早く帰れるかも』、そんな期待を抱きながら、再び仕事へと向かう。
そしてその予想が裏切られることはなかったのだ。
帰宅する社員達の探るような視線を感じながらも、悠理はうーんと伸びをする。
戻ってきた金はきっと、今から向かう先で遣いきってしまうことだろう。
封筒の中身はあの夜見せつけた女の意地。
それが再び、’女の意地’として返ってきたのだ。
悠理は晃子に感謝する。
思い出させてくれたのは、あの頃の感情。
清四郎が恋しくて、恋しくて、堪らなかった切ない日々。
━━━忘れちゃいけないんだ。あの強烈な恋心を。
哀しみに似たその想いは、全身をほろ苦く満たしてゆく。
それを甘く覆す事が出来るのは夫(彼)だけ。
悠理は痺れるような夜を期待しながら、ゆっくりと瞼を閉じた。