クラブMのママ視点

アキが去って一ヶ月。
その夜、店を訪れたのは剣菱豊作と見慣れぬ一人の客だった。
私は新しく入ったカオルを連れ、彼らの席に着く。
時間帯のせいか、客の入りはまだ浅い。

「やぁ、ママ。今日は羽振りの良い客を連れてきたよ。」

「あら、嬉しい。」

紹介された男は、父親の代からの設計事務所をここ三年ほどで急成長させたやり手らしく、精悍な顔立ちをした二枚目だった。

「福太(ふくた)といいます。よろしく。」

30半ばであろうか。
穏やかな物腰、切れ長の目と撫で付けられた黒髪に、自然とあの男の事を思い出した。

「この間は悪かったね。」

カオルの、いつもよりも数段高い媚びた声が響く中、剣菱豊作は小声で私にそう告げた。

「妹が大暴れしたみたいで……。大事なホステスさんを失ったんだって?申し訳ない。」

「とんでもございません。私の教育不足で本当にお恥ずかしいです。剣菱様には大変ご迷惑をおかけしました。」

言葉を選んでいるのだろう。
彼は背中を曲げ、指先で目の前のガラステーブルをトントンと叩く。
眼鏡の下の横顔を見る限り、彼もまた整った顔立ちをしていることが判る。

「誰に似たのか、嫉妬深い妹でね。」

「いえ・・・義弟様も、男冥利に尽きるのでは?」

「はは、彼は僕と違ってモテるからね。妹も気が気でないらしい。」

私はお酒を作りながら、あやふやに相槌を打った。
確かにあの手の男はモテるだろう。
寂しい女にとって、すがりたくなるような、妙な色気と包容力を感じる。

━━━そう。
アキは寂しい女だった。
本当は水商売に向いていなかったのかもしれない。
出会う男さえ良ければ、きっと早々に温かい家庭を築いていたタイプだろう。

「妹さんはその後お代わりなく?」

「あぁ、お陰さまで。今頃ハワイでのんびりしてるだろうな。」

「あら、羨ましい。ご旅行ですのね。」

「亭主を強奪して我儘放題さ。まったく、皺寄せは全部こっちに来るんだけどね。」

彼はやりきれないとばかりに、酒をあおる。

「仲の良いご夫婦で……いいじゃありませんか。」

宥めるようそう言うと、ふ、とシニカルな笑みを溢した。

「あの二人はねぇ、元々どっちも天の邪鬼だったんだよ。今じゃ考えられないけどね。恋愛とも縁遠かったくせに、いつの間にやら磁石みたいにぴったりくっついてさ。他の誰も必要としないくらい愛し合ってる。」

酒が進むにつれ、饒舌になってゆく。
彼もまだ独り身。
やはり羨ましく感じるのだろうか。

「だから、あの女の子は欲しかったんじゃないかな?」

「ええ……そうかもしれませんね。」

男の纏う幸せそうな愛に惹き寄せられ、そのぬくもりを少しでも味わいたい。
そんな風に恋しがるアキの姿が目に浮かんだ。

━━━今頃どうしているのかしらね。

どこか寂しげな背中を思い出し、私は罪悪感にかられた。

「ええ?福太さんってお子さんまでいらっしゃるんですかぁ?」

「見えない?これでも学生結婚してるんだよ。」

「お若くてカッコいいから、てっきり独身を謳歌してらっしゃるのかと・・・。」

「独身はともかくとして、人生を謳歌してるのは正しい。貴女みたいな可愛い女の子と知り合ったりして、ね。」

言い慣れた口説き文句。
それが社交辞令であると判っていても女は気分が上がる。
案の定、カオルの頬がポッと赤く染まった。

「駄目だよ、福太さん。勘違いさせちゃ・・。」

剣菱豊作は苦く笑いながら、言葉を挟む。

「実は、こう見えて愛妻家なんですよ、彼は。」

「あ~あ、バラさないで欲しかったなぁ。折角悪い男になろうと思ったのに。」

「よく言いますね。さっきも奥さんへ電話してたでしょう?‘遅くなるから先に寝ててくれ’’しっかり戸締まりするんだぞ’って。」

二人の男達のやり取りに、ホステスとしてまだまだ未熟なカオルは、詰まらなさそうな表情を浮かべた。
しかし、私はホッとしていたのだ。
面接でカオルを選んだ時、その美しい顔立ちにアキを重ね合わせた。
それは少しでも罪滅ぼしがしたかったからかもしれない。

あの夜、私はアキに情けをかけなかった。
一切、庇おうとしなかったのだ。
まさか上客との間でトラブルを起こすだなんて。
信じていた分、ショックも大きかった。
それも相手は剣菱。
その気になればうちの店などすぐに揉み潰されてしまう。

しかし乗り込んできたあの奥方は、アキとの直接対決を強く望んだ。
意を決した真っ直ぐな瞳と、キュッと結ばれた口元に、私は成す術なく頷いたのだ。

どう見ても、アキに勝ち目はなかった。

店から去る時、彼女はこの世界から足を洗うと誓った。
餞別に少し多めのお給料を渡し、元気で、とだけ言葉を添える。
相変わらず寂しげな笑顔と共に、彼女はネオンの街とは逆方向へと歩いていく。

私は心の中で応援した。
これからの彼女に相応しい幸せが訪れるように、と。
そして、素晴らしい伴侶に出会えるように、と。

夜の男に惑わされてはならない。
寂しさを埋めるように惚れてはならない。
カオルもそれを徐々に知っていくことだろう。

「ママ、海藤様がお越しです。」

「わかりました。ここにルミちゃんを呼んで頂戴。」

黒服にそう告げて、私は静かに謝罪する。

「では、ごゆっくりお寛ぎください。剣菱様、福太様。」

夜の街で生きる覚悟をした私と、そこから抜け出したアキ。
果たしてどちらが幸せなのだろう。

そんな眇たる考えは、俄かに活気づいてきた店内によって、あっという間に消し去られた。