────肌寒い朝だった。
雨が降りそうだ……と思ったが、傘を持たずに玄関をくぐる。
気温は5度、いや8度はあるか。
今冬買ったばかりのコートはまだ少し早かったかもしれない。
街まで小一時間の散歩。
帰りはおそらく荷物になるだろう。
馴染みの本屋は明日からしばらく改装工事に入るらしく、どうせなら長く居座るのも悪くない。
丸一日、予定は空白。
好きな本に囲まれながら、じっくり過ごそうじゃないか。
我が家の本棚は様々な専門書で埋め尽くされているが、中には純文学や恋愛小説なども混じっている。
それらは当然母の趣味で、多忙極める父が不在の夜、リビングで楽しそうに読む姿を何度も目にした。
家族全員、読書好きなのは間違いない。
父の書斎だけでなく、あらゆる場所に本棚は配置されていて、子供の頃は片っ端から読み漁った。
多趣味たる所以はそこから。
今もジャンルを問わず、週に数冊の本を読破している。
読書……といえば、隣家の幼馴染も相当な読書家だ。
特に推理小説がお気に入りで、新作が出ると競うように読み進め、互いの推理を口にする。
彼女の洞察力は優れていて、時に驚くような解決予想を言い当てるから侮れない。
そういえば“あの作品”の下巻が発売されたかもしれないな。
手土産に買うとしよう。
本屋に辿り着けば、開店時間まで少し余裕があった為、三軒隣のカフェで珈琲を注文する。
白い湯気と共に立ち上る豊かな香り。
この店は美童が教えてくれたんだが、なかなかどうして、落ち着くじゃないか。
彼はこだわりの店を探すことに力を注いでいるからして、滅多にハズレはない。デートのためであることは明白だ。
銀杏の葉はすっかり落ちたか。
さみしげな街路樹を見つめながら、冬の訪れを実感する。
───高校生活最後の冬。
あと数ヶ月で思い出の詰まった学び舎から去ることとなる。
一抹の寂しさは拭えないが、それでも来年の春には新しい生活が扉の向こうで待っている。
相変わらずの面々が揃っているわけだから、何も寂しがることはない。
むしろ高校生の枠から脱出出来るのだ。より自由に、思うがままの人生を謳歌したい。
コーヒーカップに添えられた小さなクッキーは口の中でホロッと崩れ、苦味ある液体を優しく中和してくれた。
コンコン
ふと窓を叩く音に目を遣れば、そこには暖かそうなダウンジャケットを着込んだ悠理が立っていた。
色は飛び抜けて派手なピンク。
どこに居ても目立たぬはずがない。
『なにしてんの?』
窓の外から尋ねられ、美味しい珈琲を一気に飲み干す。
会計を済ませ外に出れば、嬉しそうに駆け寄ってくる彼女。
目の錯覚か、尻尾まで見える。
「おはようございます。おまえにしては随分早いですね。」
「へへ!実はこの近くにケーキ屋がオープンするんだ!初日限定、特大ホールケーキ、なんと半額!来るっきゃないだろ?」
「………。」
日本屈指の金持ちに生まれ、どうやったらここまでセコくなれるのか。
常々認識させられていることだが、あの両親の教育方針はどこか間違っている。
「一人で食べるつもり……ですよね。」
愚問だ。
「ん?清四郎も食いたいの?」
「いや…………」
「いいよ、2個買うから!どーせなら可憐ん家で食べようぜ。」
“要らない”……という言葉は彼女の提案にかき消された。
「僕は本屋に用事があるんで……」
「本屋ぁ?んなつまんないトコよりケーキだろ!」
呆れるほど身勝手な意見だが、食への情熱を火山のように燃やす悠理に勝てるはずもない。
それに───
「僕と二人きりで……という話なら賛同しますけど?」
「!!」
彼女は恋人であるからして、多少の我儘も聞いてやらなくてはならないのだ。
「どうします?」
「ふ、二人きり……って……どこで食うんだよ。」
真っ赤な顔で睨みつけてくる辺り、悪くない反応だと思える。
情操教育はまだまだ途中段階だが、少なくとも逃げることはなく、一応歩み寄りも見せてくれる。
充分充分。
「そうですね。ここはやはりホテルを……」
「だ、ダメだ!!今、あたい、生理だから!!」
「……………。」
公道で、それも大声で叫ぶ話題では決してない。
慌てて悠理の口を塞ぎ、一先ず店の前から離れることにした。
羞恥心の欠如も、この先の大いなる課題だ。
「あのねぇ……僕も毎回そんなつもりでいるわけじゃありませんよ。」
「嘘吐け!」
半分は正解。
「だいたいおまえの体調は知っていますし……何なら僕の家で食べてもいい。」
「………可憐ん家がダメな理由は?」
「そりゃあ、二人きりになりたいからに決まってるでしょう。本来デートする予定だったのに、まさかケーキ屋の半額サービスを理由に断られただなんて………なかなかひどい仕打ちだと思いませんか?」
バツの悪さに押し黙る悠理。
天秤にかけられるだけでもマシなのか?
「わ、悪かったよ。ゴメン……」
「素直でよろしい。」
「ホ、ホテルでも良いし!」
耳まで真っ赤にする恋人が精一杯の勇気を見せる。
正直、二人きりになれるならどこでも良かった。
公園の片隅でも、デパートの屋上でも。
「雨が……降りそうですしね。ケーキを買ったら、部屋を取りましょう。」
彼女の提案を有り難く受け取り、そっと手を繋ぐ。
特大ケーキは一つで充分。
極上のデザートは悠理で充分。
ケーキよりも甘い恋人との時間。
何よりも充実した冬の休日───