『僕たちもそろそろ落ち着く所に落ち着きましょうか。』
まさか、それがプロポーズの言葉とは……
剣菱悠理27歳。
結婚適齢期と言えなくもないお年頃。
友達以上彼氏未満の男が一人。
気の合う仲間はその他大勢。
自由大好き、刺激大好き、遊ぶこと大好き。でもなによりも食べることが命。
世界中旅して、世界中の美味しいものを追求し続ける道楽娘。
そんな奔放過ぎる金持ち令嬢のSNSはいつしか世界中の人気を集めていて、あれやこれやとスポンサーが群がる毎日。
インフルエンサーとして、あらゆる企業が目を付けるのは当然のことであった。
しかしながら金に困ることのない身分であるからして、悠理は当然のように無関心を決め込む。
煩わしいことはごめんだ。
余計な関係に縛られたくない。
有り余る金とそれを惜しげもなく使える環境。
剣菱悠理はまさしく、世界一自由でゴージャスな女なのだ。
「なぁ……清四郎。」
「なんです?」
長い間、友人としての立場を維持してきた男は、周りから「そろそろ身を固めては?」とせっつかれることが多くなった。
菊正宗清四郎27歳。
高スペックな男だからこそ、皆こぞって世話を焼きたがる。
無論、黙っていても女は寄ってくるのだが、如何せん彼は多忙を極めていて、どうでもいい他人に割く時間など皆無であった。
未だ独身の姉からは「とっとと結婚して家(うち)の跡取りを作りなさいよ!この親不孝者!」と不条理な罵りを浴びせつけられていて頭が痛い。
自分が自由で居たいが為の犠牲を実の弟に強いる極悪な姉。
生まれる順番さえ逆だったならば……と、自身の運の無さを常々恨んでいた。
病院の実権を狙う姉も、なかなかお眼鏡にかなう従順な婿養子が見つからないらしい。
年齢は三十半ば。
当然であるが目ぼしい男はみな売り切れている。
彼女自身の賞味期限も切れかけているが、そのことには頓着しない強気な和子であった。
菊正宗病院の経営に口出ししつつも、清四郎の本職はとある外資系製薬会社の「研究員」だ。
比較的自由な社風、それに加え、親しい知人が口利きしてくれたことで融通のきくポジションに立てたことが、大きな決め手だった。
試薬を存分に作れることは清四郎にとってこの上なくありがたい話である。
研究者としての血も騒ぐ。
ともあれ、何かにつけ忙しい二人ではあるのだが月に数度、近況報告をする為、盛大に飲み会を開いていた。
もちろん馴染みの友人たちを誘って。
自衛隊に入隊した魅録や、家元修行中の野梨子。
美容コンサルタントをしながら婚活に勤しむ可憐に、世界中の女優やモデルと浮名を流す美童。
6人はそれぞれの道を歩きながらも、昔と変わらない絆で結ばれている。
そして社会人となった今でも、あの頃の刺激ある日常を懐かしんでいるのだ。
もう二度と戻れない自由過ぎる青春時代。
それでも失いたくない宝物たち。
6人は互いの生活を尊重しながらも、たまに膝を突き合わせ語り合う時間を大切にした。
時々ではあるが、清四郎は悠理だけを飲みに誘うことがあった。
旨いメシを鼻先にぶら下げれば喜んで飛びついてくる犬のような性質。
そんな単純な女と何の気兼ねもなく酒を酌み交わすことは、清四郎にとって貴重な息抜きだったのかもしれない。
相手は悠理。
間違いなど起こるはずもなく……
たとえ一晩中部屋で呑んだくれたとして、目が覚めれば大いびきをかく友人が無造作に転がっているだけ。
眉を顰めるようなあられもない姿は昔も今も変わらない。
そう……清四郎が悠理を女と意識することはないのだ。
それは仲間を含め、周りの人間全てが認識している事実であり、その関係は不変であると信じられていた。
どこまでいっても孫悟空とお釈迦様。
猿回しと猿。
鬼教官と出来の悪い生徒。
立ち位置は決して変わらない。
そう思っていた。
本人たちでさえも。
「お前、そろそろ結婚しないのか?」
悠理がその問いかけを口にしたのは、初めてのことだ。
「結婚」の二文字を誰よりも嫌う彼女にとって、これは触れることを躊躇われる質問と言えるだろう。
そんな過去のトラウマは目の前の相手が原因でもある。
尊重されなかった意志と、強要された花嫁修業。
悠理にとって、忘れたくても忘れられない記憶だ。
「結婚……ですか。」
知性を感じさせる清四郎の瞳が細められた。
すだれた前髪を掻き上げ、まだ酔いも回らぬ友人の顔を興味深げに見つめる。
27歳の悠理。
彼女こそそういった年頃だろうに。
世界中から持ち込まれる見合い話を片っ端から断っていると聞いたのはつい最近のことだ。
あの強力な母親が、フランス人形のような孫欲しさに「結婚話」を持ち上げたのは高校時代であった。
無茶な提案にまんまと乗せられたものの、肝心の悠理には真っ向から闘いを挑まれ、横槍に入った和尚には地べたの土を舐めさせられた。
傷つけられたプライドは今でこそ修復しているが、それでも不意に思い出すと苦々しい。若気の至りと一言でくくるには、清四郎のプライドは高すぎた。
断固として拒否する悠理の泣き顔。
あの表情は未だ脳裏に焼き付いて離れない。
「まあ……良い御縁があれば話も進むんでしょうが、今のところありませんな。」
「ふ〜ん……」
興味があるのか無いのか。
気の抜けた返事をする悠理の胸の内を、いくら清四郎とはいえ推しはかることは難しかった。
「おまえ、女の趣味うるさそーだもんな。」
「そんなことは………」
『無い』と言い切れないのは、過去の女性遍歴を振り返れば明らかだ。
高校時代は後腐れのない一夜限りの相手を。大学に入ってからは利害関係に合致する女性を自然と選んできた。
多少の性格の悪さはお互い様。
程よい距離と少しの刺激を楽しんだ後は、忙しさを理由に別れを切り出した。
スマートな大人の関係であるからして、揉めたことは一度も無かったように思う。そこまで相手にのめり込むこともなかった。
‘女の趣味がうるさい’__といえばそうかもしれない。
ただし、貴重な時間を共にする相手に多くのものを求めることが悪いとも思えない。
美しさ、慎ましさ、賢さ、夜の相性。
合わないと思えばそれきりにしたほうがお互いの為でもある。
結局は合理的な関係が一番楽なのだ。
(となると___)
清四郎は顎に手をやり、思案を巡らせた。
今、こうしてこのバカ娘と飲んで語り合っていることは、果たしてどんなメリットがあるのだろう。
古馴染みの気安さから?
それとも簡単に扱える女だから?
男女のソレもないというのに、夜通し付き合う意味はどこからくる?
酒の勢いで過ちを犯すこともなく、ただただ互いの話をして時を潰す。
家に帰れば仕事は山程あるというのに、それを削ってまで悠理との時間を選ぶ理由は?
「あんまり選り好みしてたら、あっという間にオッサンだぞ?」
シャンパンをラッパ飲みし終わった悠理がニヤけ顔で清四郎を流し見る。歯に衣着せぬ物言いをする相手は片手ほど居るが、その筆頭が彼女だ。
「それはそれ。本来男は40代から色気が出るんですよ。」
決して負け惜しみではなかった。
たとえ中年になろうとも、『菊正宗清四郎』としての需要は決して減ることは無いと自負している。
無論、努力の方向さえ間違えなければの話だが。
「けっ!言ってろ。」
ツバを吐きかける勢いで悠理は悪態をつく。
自信が服を着て歩いてる男に何を言ってもムダ。
それに口で勝てるはずもない。
もともとの頭の出来が違うのだ。
次の酒を吟味しながらふと、悠理は自分が何故こんな質問をしてしまったのかと首を捻った。
今まで気にもしなかった話題……それも『結婚』なんて、忌避すべきワードでしかないはずなのに。
なぜ?
もし清四郎が結婚してしまったら、きっと今のような時間は激減するだろう。
どれほど仕事が忙しくとも家庭をそれなりに大切にして、夫の役目も果たして………恐らくは悠理には見向きもしなくなる。
それはきっと___
いや絶対につまらない。
そんな変化は求めちゃいないんだ。
こうした時間を当たり前のように過ごすことこそが悠理の望み。わがままで贅沢な令嬢が抱える最大の望み。
「結婚なんかすんなよ……」
「…………え?」
「ずっと……あたいの相手してくれよ。」
ワインオープナーをぎこちなく動かしながら、悠理の唇は尖っていた。
甘えている自覚はある。
それも子供っぽい甘え方。
いい年をして情けない気持ちもこみあげたが、取り消すことは出来なかった。
やるせなさと恥ずかしさの合間で、悠理は清四郎の目を見ることも出来ず、ただコルクの擦れる音を奏でる。
「悠理……それは…………」
出来ませんよ___
……と清四郎は言えなかった。
言いたくなかった。
寂しそうな彼女の横顔は決して冗談を言っているわけじゃない。
酒の勢いで零れた明らかなる本音。
ほんの少し頬を染める姿を目にし、清四郎は無意識に喉を鳴らした。
その瞬間、二人は確かに変化したのだろう。
気のおけない友人から男女を意識させられる関係へ、少しだけ足を踏み出してしまった。
特に清四郎は考え込む羽目に陥る。
今まで目を背けてきた‘何か’を知るために。
キュポン……!
コルクが抜けた瞬間、濃厚な赤ワインの香りが鼻を掠め、清四郎はハッと目を見開いた。
まだ酔ってなどいない。
でもこの酒の力を借り、今直ぐ、速やかに酔ってしまいたい衝動が胸の内を支配した。
そしてそのまま………なし崩し的に深いところへ。
己の意思の預かり知らぬところへ。
そうすれば自ずと答えが見つかるかもしれない。
無駄に考え込む必要もないだろう。
危険な思想に絡め取られた男は、本当のところ酔っていたのかもしれない。
そんな清四郎の変化に悠理が気付くはずもなく……なみなみと注がれた果実酒は、瞬く間に頑丈な胃袋へと消えてゆく。
「おまえもまだ飲む?」
差し出されたワイングラスを受け取ることに、清四郎は最後の迷いを見せた。
けれど結局は立ち上るアロマの誘惑に負け、手に取ってしまう。
どうにでもなれという自棄と、理性を保とうとする自我のせめぎ合い。
呆気なく空になった瓶をつまらなさそうに見つめる悠理は、またしても新たなワインへと手をのばす。
赤
白
赤
真剣に迷う彼女を抱き締めた時ですら、清四郎の心は戸惑いに震えていた。深い森で彷徨う旅人のように。
「…………清四郎?」
言葉は要らない。
今ここからは…………
少なくともこの夜は。
答えを知るまでは……きっと………
続く