アキ視点:決着

今のママには話していないが、私が騙された男は一人じゃない。

最初の男は、私がネオンの世界へと飛び込む切っ掛けを作った、根っからのジゴロ。
彼は私への愛を囁きながら他の女を選び、結局隠していた金を探し当て、消えた。
それはたかだか数十万円の事。
しかし、未熟な私が負った心の傷は深かった。

二番目の男は雇われバーテンダーだった。
夜の世界で生きるにしてはちょっと真面目な、優しい男。

『自分の店を持つんだ。』
そんな夢を、ベッドの上で何度も語ってくれた。

共に暮らし始めて半年経った頃。
男は故郷の山形へ帰ると言い出し、付いて行くと言った私をあっさり捨てた。
風の噂では、実家に戻ってすぐに結婚したらしい。
地元では有名な旅館の娘と・・・。

ハタチそこそこで、男に希望が持てなくなっていた私。
腰掛けのつもりだった水商売。
しかしようやく、この道で生きていこうという考えに至る。

3軒目のラウンジは客層も悪くなかった為、しばらくは腰を落ち着かせようと、勉強も始めた。
人の良いママは手取り足取り教えてくれ、何よりも娘の様に可愛がってくれた。
もちろんお客との距離感も・・・・。

二度の離婚歴がある彼女。
まだ小さい子供が二人居た。

『もう、男も結婚もこりごりだわ・・・』

そんな台詞を耳にタコが出来るくらい聞かされたが、不思議と彼女はいつも恋していた。
相手は全部既婚者だったけれど。

『アキちゃんが居てくれたら、すごく助かる!』

その言葉を心から信じ、頑張って行こうと前を向いていた矢先、一人の男と知り合う。

――――ああ、そういえば、彼にほんの少しだけ似てるわね。

輸入業を営んでいると紹介された時、彼は一つのプレゼントをくれた。
それは美しい音を小さく奏でるオルゴール。
胸に染み入るようなその音は、泣きたくなるほど優しかった。

心惹かれるようになるまで時間はかからず、気付けば一緒に暮らしていた。
ママには再三に渡って忠告されたが、「今度こそは」と根拠のない自信を抱いたまま、突っ走る。
「22歳の私」はやはり愚かだったのだろう。

事業が傾いていることも知らず、私は盲目的に彼を愛した。
一年が経った頃・・・いつの間にか連帯保証人にされていた事に気付く。
そして、彼は消えた。
私の前から永遠に・・・・。
残ったのは多額の借金だった。



こんなにも裏切られ続けて、どうしてまた男を求めるのか。
それも、妻が居ると知りながら・・・何故?

理由は一つ。
諦めていたから。
もう自分に普通の幸せはやって来ないと絶望していたから。
彼の様に見目麗しく、経済力のある男の愛人になれば、少なくとも心は潤う。
突き放したような態度は、今の私にむしろ心地良かった。

偽りの愛など要らない。
私が欲しいのは安定した安らぎ。
ホステスとして生きている今、正しい何かを求めるなんて事はあまりにも馬鹿げている。

そういう意味で、彼は打って付けの男だった。

私を金に見立てることもなく、その冷徹な目で見つめながら、それでも優しく抱いてくれるだろう。
裏切ることがない安心感を、きっと与えてくれるはずだ。
そう確信していたのに・・・・。

しかし彼は、完璧なポーカーフェイスの持ち主だったのだ。
唯一心を許した妻の前だけで、その仮面を剥ぎ取る。
そして激しい愛情を注ぎ込み、他の全てを拒否し続ける。
そんな一途過ぎる愛の持ち主だった事は、私にとって大いなる誤算だった。



「アキちゃん、ご指名。」

バックヤードへと入って来たママが、珍しく複雑な表情を浮かべながら、小さく耳打ちする。

「剣菱様よ。」

―――まさか!

手にしていたルージュがテーブルの上を転がり、赤く細い帯を引く。

―――まさか、彼が!?

姿を想像するだけで胸が波打ち始め、震えるほどの歓喜が全身を襲った。

―――会える。

さっきまでの自暴自棄な気分が霧散していく。

――ああ・・・私はやはり彼を求めているのか。

そんな自分の単純さを浅ましいと感じたが、それでも喜びを抑える事は不可能だった。

『会いたい!会ったらきちんと謝って、もう一度お客様になっていただこう。今はそれだけで充分だ!』

紅を引き直し、髪を整える。
微かに震える手は、滑稽なほど綺麗に磨かれていた。
お気に入りの香水を一降りした後、ドレスの皺を伸ばし、逸る心を抑えながらヒールを鳴らす。

―――少しでも美しく見られたい。

しかしそんな女心はフロアに出た瞬間、粉々に砕け散ってしまった。

「おく・・・さま。」

慌ててママを振り返るが、苦々しい表情のまま顔を背ける。
そこで悟ったのだ。
今や、私の味方は居ないのだということを―――。

「‘アキ(あんた)’を指名したのはあたいだ。」

煌めく照明に負けない存在感。
彼女は、ぴったりとした革パンツとロングブーツに包まれた長い脚を悠々と組み、緋色のソファに深々と腰掛け、こちらを射抜くように見つめていた。
たくさんのスパンコールが光る金色のシャツの中心には、真っ黒なドクロマーク。
本当に人妻なのか?と疑いたくなる服装だが、それは恐ろしく似合っていた。

中性的な顔立ち。
化粧ひとつしていない素肌は透き通るように白く、マスカラの必要を感じられない長い睫に美しく彩られた大きな瞳は薄茶色のガラス玉。
淡い桃色の唇は、何も塗っていないのに驚くほど艶めいている。

―――完璧な美しさだ。

あの夜は暗くて判らなかったが、一切無駄のない肉体美は、モデルと言われてもなんら疑問に思わないだろう。

私は唾液を飲み込むと、対峙する覚悟を胸に彼女の真向かいへと座った。
背中に流れる冷や汗は、サテンのドレスを不快に感じさせる。
それでも背筋を伸ばし、ホステスとしてにこやかに笑った。
もしかすると多少、ひきつっていたかもしれないが―――。

そんな私に対し、自ら作った酒を豪快に飲み干す彼女。

カン

バカラのグラスが、音を立てガラステーブルに置かれる。
それこそが、ゴングの鐘だったのかもしれない。

「ふふ、清四郎だと思ったろ?」

「――――はい。」

「あたいで悪かったな。」

「・・・いいえ。」

「あからさまに落胆してただろうが。」

粗雑で挑発的な口ぶり。
彼女は大きな瞳を輝かせた。

「あんたは、あたいから清四郎を奪い取ろうとしてる―――だよな?」

「――――違います。」

「じゃ、なに?金目的?」

「そ、それも違います。」

声が微かに震えるのはどうしようもない。
こんなところにまで乗り込んでくる女は初めてだったから。

クラブの女に入れ込む夫を、激怒した妻が電話してくるなんてこと、よくある話。
こっちは100%営業メールのつもりが、相手にとっては不埒な泥棒猫にでも見えるのだろう。
確かに仄めかす言葉は甘い。
そこに特別な感情などあるはずがないというのに。

けれど、今回は違う。
私は明らかに心を優先させ、仕事を利用した。

「あいつのことが好きなんだろ?」

「・・・・・・はい。」

「あたいと張り合うつもりなのか?」

「・・・・いいえ。」

「嘘だな。」

彼女は脚を組み替えると、またもや酒を作り、それを舌先で舐めた。
猫のような愛らしい仕草。

なるほど―――
彼は彼女のこんなところを好きなんだろうか。

「あんたの目はまだ清四郎を欲しがってるよ。」

―――それは図星だ。いまだに胸が疼いている。

「ふ・・・・なんで解るかって?だってあたいもそうだからさ。」

「え・・・?」

そう言って、私の前にその綺麗な顔をグッと近付ける。

「あんたと同じで、あたいもあいつが恋しい。」

―――恋しい?
妻なのに?
既に彼の愛を完璧なまでに手に入れているというのに?

「清四郎が欲しいんだろ?」

彼女は同じ質問を重ねた。

「・・・・そう言えば、あの方を下さるんですか?」

熱に煽られたように、そんな言葉が口から滑り出す。

―――馬鹿らしい台詞。

私はこの野生の獣のような女に敵わないと知りながらも、みっともなく足掻いて見せた。

「ばーか。んなわけあるか!」

彼女は隣に置いたリュックの中から、帯付きの札束を五つほどテーブルに乗せると、ふんぞり返ったまま不敵に笑う。
無造作な金の扱いに少しだけ苛立った。

「この札束であんたの借金くらいになるよな?」

「!!?」

「だから選べよ。この金を受け取ってとっとと店を辞めるか、あたいと今すぐタイマン張るか。」

「タイマン?」

「あたいはあいつの妻だ。死んでも負けるつもりはない。だけどもしあんたが本気で奪いに来るっていうならタイマン張るしかないだろ?」

耳を疑うような持ちかけに、私は思わず硬直してしまった。
そして次第に笑みが溢れる。

――――貴女は誰よりも強い立場のくせに、私のような女とですら真っ直ぐに闘おうとするのね。

完敗だった。
こんなにも純粋な愛を提示されたら、敵うはずがない。
彼女の心意気は私を充分なまでに打ちのめした。
卑怯な手を使い、打算を巡らせ、彼の心をかすめ取ろうとしてしまった私は、本当の泥棒猫になるところだったのだ。

「さ、どうする?」

愛されてる事に胡座を掻こうとせず、素直に’恋しい’と口に出した彼女は、陽の光よりも眩しい輝きを放つ。

「奥さまと張り合うような権利は、私にありません。」

そう言って机の上にある札束から、そっと二つだけ手に取ると、深々とお辞儀した。

「これ、お借りします。もちろんここも今夜限りで辞めます。」

こんな事態になって続けられるはずもないけれど。

「そんでいいんだな?」

「――――はい。」

「わぁった。金はいつでもいい。返したかったら返せば良いし、あたいから取り立てることはないから。」

彼女は最後まで‘男前’な発言を残し、帰っていった。

金を握りしめた私は惨めな涙を零す。
女としての格を見せつけられ、今まで築いてきたものは砂上の楼閣だと気付いた。

―――恋しい。

それは今でも変わらない。
だけど果たして何を恋しがっていたのだろう?

手に入れることの出来なかった愛?
それとも純粋だった過去の自分?

解らない。
それは解らないけれど―――
次、恋するときは彼女のような心意気で、真っ直ぐ前を向きたいと思う。

きっとまだ遅くはない。
夜咲くネオンへの恋しさも、いつしか消えていくことだろう。

私の胸は、久々の温かさに優しく包まれていた。

「恋しがる女」(完)