彼の思惑

※ショート

 

「あっちぃなぁ。なんで夏休みに補習なんか受けなきゃなんないんだよ!」

日本有数のお金持ち、剣菱財閥の令嬢・悠理くんを悩ませる問題。
それはお勉強が出来ないということ。

―――くっそ…、ほんとなら今頃、南の海でバーベキューしてたはずなのに!!

高等部初めての夏休み早々、スパルタ教師の洗礼をどっぷり受けておりました。

「そのプリントが終わるまでアクビもトイレも禁止ですからね。」

───三十を迎えた女教師が鋭い視線で牽制する。
わりといい大学を出て教職についたものの、若い頃は異性に興味が湧かず、ふと気付けばこの年齢。
焦っても足掻いても、優良物件は既に売約済みとなっていて、今さら結婚を意識したところでなかなかお相手は見つからない。
そうなると仕事に打ち込むしかないのだが、相手は日本の将来を背負って立つトップクラスのガキばかり。
優雅にバカンスの話なんてされた日にゃ……、芽生えるどす黒い感情を抑え込むのは至難の技だった。

「だいたい一年生の内からこんな成績でヘラヘラしてるのがおかしいでしょう?古文、現国、世界史、数学、英語………全部が赤点だなんて!恥を知りなさい。」

悠理とて、自分が頭の悪い生徒であることを猛烈に自覚している。
友人の可憐だって、たまに赤がつくことはあっても基本は平均点を採っているし、その他の仲間はみんな優秀すぎるほど優秀だ。

だからといって恥だの何だの、他人からとやかく言われたくはない。
ただでさえ夏休み中はクーラーが切られているのだ。
不快な暑さと目の前のヒステリー女に対する苛立ちは、刻一刻と積み重なっていった。

「うるせぇ。」

「なんですって?」

「ギャンギャンうるせぇって言ったんだよ。盛りのついた猫だって、もちっとおとなしいぞ!」

「き、き、教師に向かって……なんて言い草!」

まさに怒髪天をつくといった顔で、女教師“鏡山 ”は机を叩いた。
飛び上がる鉛筆。
膨大なプリント用紙が宙を舞う。

貴重な夏休みを犠牲にしている悠理にとってこの時間はあまりにも過酷過ぎた。
だからこそ相手がどれほど激怒しても、吐き出した言葉を呑み込むなんてこと出来やしない。
そしてそれを後悔するような性格でも当然ない。

「恥がどーだの、あんたに言われたくないね。親じゃあるまいし、余計な説教は不愉快だ。」

問題児として有名な彼女は、もちろん教師たちの頭痛の種。
目を剥くほどの寄付金があるからこそ、この学園に在籍していられるわけで、本来ならとっくに退学ものである。
それを小百合は知っている。
無論、学園の全員が知っていることだ。

「剣菱さんっっ!!あなたね!!目上の人間に対してその………」

「たかだか先公のくせにうっせーやい!あたい帰る!」

憤慨する教師の顔は仁王並みに赤かった。
きっちり結ばれたはずの黒髪が、静電気でふわりと広がるほど、小百合は怒りを露わにする。

「あなたっ……いい加減にしないと………」

震える拳は悠理に向かって今にも振り下ろされそうだった。
たとえ振り下ろされたとて、人並み以上の反射神経を持つ悠理にとって躱すことは造作もない。
喧嘩慣れした彼女は、女教師の腕を容易に捻り上げることも出来ただろう。

「おっと。その辺にしていただけますか?」

しかし悲劇は起こらなかった。
教室の扉から顔を出し、スマートに制止したのは、学園きってのエリート男、菊正宗清四郎である。
険悪な空気を醸し出す二人の側にやってきた彼は穏やかな笑みを浮かべ、教師の細い手首をそっと掴んだ。
あくまで優しく。

中等部を卒業した辺りから、瞬く間に身長は伸び、今や悠理とて清四郎に歯向かおうとはしない。
更に仲間になってからというもの、彼の底深さを思い知らされ、どうせなら飼い犬に徹している方が得策だと考え始めている。
その点、損得勘定の働く娘なのだ。

「何しに来たんだよ!」

湯沸かし器の如く頭から湯気を出す友人。
その間に割り入った男は、まず教師の怒りをさらりと鎮めた。

「暑い中……デキの悪い生徒の相手はさぞやお疲れのことでしょう。鏡山先生。」

「え……えぇ………」

小百合に生えたツノは労いの言葉に小さくなり、掴まれた手から力が抜けた。
何せ相手は菊正宗清四郎。
どんな手強い教師ですら、巧く丸め込むやり口を知っている。

「彼女の勉強については、僕に任せてもらえませんか?夏休み明けのテストでそれなりの点数を採らせますので。」

「え?」

「なに……いつもと違った環境で勉強させるほうが効率的だと思いましてね。我が家の別荘で缶詰合宿を実施しようと考えています。」

「げっ……!」

清四郎の助け舟に一旦嫌悪感を見せる悠理だったが、此処よりはずっとマシだ、と考えを改め、不満げな声を瞬時に引っ込めた。

「あなたが面倒をみるの?」

「はい。責任を持って。」

「…………わかりました。そこまで言うのなら、夏休み明け期待してるわよ。彼女にみっちり基礎を叩き込んでちょうだい。」

眼光鋭く言い放った小百合は床に散らばるプリント用紙を拾い上げる。
もちろん清四郎もそれを手伝い、如才ない笑みを浮かべ教師を見送った。

「さて………」

蒸し暑い教室に二人きり。
清四郎の大きな手が、怒りの余韻で広がる悠理の髪をよしよしと撫でる。
友人として日の浅い関係だが、知り合ってからは随分となる。
猪突猛進で単細胞なその性格を清四郎は時として好ましく感じていた。

「別荘、行くのか?」

「その方がいいでしょう?あいつらも居ることですし。」

「……勉強するんだ?」

「程よく勉強、程よく遊ぶ。これこそ正しい夏休みの在り方ですよ。」

片目を瞑る茶目っ気ある顔。
心を許した仲間にしか見せない表情に、悠理はようやく気持ちを落ち着かせた。
「しゃーねーな。」と唇を尖らせたものの、彼の助け舟は悠理にとって喜ばしいものだ。
クーラーの効かない教室でヒステリックな教師と行われる補習より、数億倍マシである。

「あたい……馬鹿だぞ?あんな約束しちゃって大丈夫なのか?」

問題はそこ。
上目遣いで見つめると、彼は愉快そうに目を細めた。

「満点はともかく、及第点くらい狙いましょうか。良かったですね、優秀な友人が側にいて。」

「じ、自分で言うなよな…!」

以前は鼻につく野郎だと毛嫌いしていた悠理も、認識を改めざるを得ない。
事実、菊正宗清四郎の実力は多分野にわたっていて、あの魅録ですら手放しで感心するほどなのだから。

補習プリントを鞄に突っ込んだあと、ムワッとした教室を後にする二人。
廊下はほどよく涼しかったが、さすがに汗がひくことはないようだ。

「やっぱ、あちぃ!かき氷食いたい!」

「ふむ……。なら寄り道して帰りますか。」

「あれ?そーいやおまえ……なんでガッコ来てたんだ?」

問われた清四郎はニヤッと笑い、悠理の耳へ顔を近付けた。

「ようやく仲間になれたんです。貴重な夏休みを無駄になどしたくありませんからね。」

「??」

悠理が彼の真意を知るのは、随分先の話。
優秀な男の少々歪んだ独占欲から、すっかり逃れることが出来なくなった頃である。