清四郎視点1

―――失敗した。

待ち合わせたカフェで彼女の顔を見た時、僕は激しい後悔に見舞われた。

二日前。
見覚えのない番号に出たのは、それが仕事用の携帯電話だったから。
耳に飛び込んできた軽やかな声と上品な口振りを聞いて、すぐにあの夜のホステスだと思い出す。

―――ノルマが、厳しくて。売り上げが少し足りない。
―――同伴をお願いしたい。

多忙を理由に断れば良かったのに引き受けてしまったのは、その切羽詰まった声色と、この間の不義理を果たすため。
たった一時間で慌ただしく席を立った僕たちに、最後まで愛想よく見送ってくれた彼女のプロ意識に報いる為だった。

しかし―――

この一週間の間、一体何があったというのか。
彼女の目には、狂おしいばかりの恋情が見える。
あの夜の凜とした態度は少しも感じられない。

―――厄介だな

思わず舌打ちしたくなった。
こんなことなら秘書の進言通り、断れば良かったとさえ思う。

『一流のホステスがそんな浅ましい理由で誘っては来ません。きっと下心があるんです。仕事を理由にあっさりと断ればよろしいのでは?』

30半ばの彼女の言葉は正しかったようだ。

「剣菱様!」

そんな風に頬を染められても、こちらとしてはただただ困惑してしまう。
今からでも用事を見繕って、帰るべきなのだろうか。
しかし予約した店は一流の鮨処。
あまつさえ義兄が贔屓している店なので、易々とキャンセルも出来ない。
結局、僕は自分の任務を果たすことにした。
危険信号は脳内に鳴り響いていたのだが・・・・。

カフェを出て、まだ夕暮れ時の街を歩き始めると、彼女は遠慮がちに、それでもしっとりと腕を絡めてきた。

―――振りほどくのも無粋か。

そう思い無抵抗でいたが、やはり罪悪感に囚われる。
妻にしか許していない場所に、違う女が縋り付く違和感。
違和感なんてもんじゃないな。
むしろ不快感に近い。
腕を振り解くタイミングを見計らっていると、彼女は上目遣いでそっと媚びるように見つめてくる。
自分がどうすれば魅力的に見えるか、十二分に自覚している女の仕草だ。

―――やはり面倒くさい。

今更ながらの後悔は、さらに大きく膨れ上がった。

義兄のお気に入りなだけある。
完璧な江戸前の鮨は本当に美味しかった。
日本酒を、一人で三合ほど口にした彼女は、ご機嫌な様子で店を後にした。
しかし・・・・・
他愛もない話をしながら、「さあクラブへ向かおうか」と促した僕を強引に引き留め、その上、海へ行きたいとごね始める。
正直、眩暈がした。

「海?もうすっかり夜ですよ?」

「夜の海、良くないですか?」

酒の勢いで言う我儘は質が悪い。
これが悠理なら、何でも言うことを聞いてやるのだが・・・。

「しかし時間も遅いですよ?九時には入店しなくちゃならないんでしょう?」

そう確認したところ、「何時でもいいんです、本当は。」と、これまたあからさまな嘘を吐かれた。

―――ああ、付き合いきれないな。

そう思い、引導を渡す覚悟をしたのだが、彼女は一歩早く勝負に出た。

「私の気持ち、解ってらっしゃるんでしょう?」

「………どういう意味です?」

「私、剣菱様が欲しいんです。お客としてじゃありません!男性として―――」

「あり得ません。」

ここはきっちり線引きをする。

「僕は貴女に何の感情も持っていない。クラブでの仕事ぶりは評価に値するが、これは明らかにルール違反だ。」

「解ってます………私は、もうとっくにホステス失格です。」

消え入るような声で開き直る。
そんな風に打ちひしがれた姿はさすがに哀愁を誘うが、応えられない以上、優しくするのはNGだ。

「――店に行きましょう。今日はそういう約束でしたから。」

そう言って踵を返した瞬間、背中にドンと衝撃が走る。

「嫌です!嫌です!!私、本気ですっ!奥さまと別れてほしいんじゃありません!ただ、側に居て抱いて欲しいだけです!」

それほどさほど大きな声ではなかったが、悲鳴のように耳を突き抜けた。

「何でもします!お願いっ!」

ぞっとする執着に、瞬間、鳥肌が立つ。

――もしかして僕が悪いのか?

自分の行動を省み、発言を振り返ったが、全く理由が解らない。
確かに恋心とは理屈抜きに発生する為、彼女自身、相当苦しんでいるのだろうが・・・。

小さな嗚咽が背中を震わす。
夜の空気がじっとりと重く感じ、僕は振り返らぬまま、そっと苦虫を噛み潰した。