悠理視点1

その夜、清四郎は鼻に付く強い香水を纏って帰宅した。
時間は夜九時を回ったところ。
いつもよりは早い。

「飲んで来たのか?」

「ええ、ほんの少し。」

すぐにバスルームへと向かう辺り、気を遣っているのだろう。
ソファに投げられたスーツを手にすると、やはりきつめのムスクが薫る。
夜の女が好む香りだ。

―――接待なんだろうな。

兄と一緒に帰宅したのだから、その可能性しか考えられない。

皺にならないようハンガーに掛ける時、パラリと一枚の名刺が落ちた。
小さな蝶が描かれた薄い紫色の紙。
そこには店と女の名前。
しかし裏面には手書きの携帯番号があった。

―――ふん、相変わらずモテるこって。

破りさろうと思ったが、何故か出来なかったのは、その文字があまりにも美しかったからかもしれない。

この手の嫉妬は数えきれないほど経験してきた。
大学での交際期間中、浮気を疑い過ぎて別れを切り出した事もある。
その都度、清四郎は幼い誤解を解いてくれた。
恋愛に慣れていない自分を諭し、導いてくれた。
だけど結婚後、あいつが剣菱に入社してからも、そう言った誘いは絶えることがない。

『いちいち相手してたら、胃に穴が空くかもな。』

心を押し殺し、そう達観するようになったのもここ三ヶ月の事だ。

清四郎は浮気をしないと断言している。
だけど、それを100%信じているわけじゃない。

昔、母ちゃんが妬いていた有り得ないヤキモチ。
今はその気持ちが痛いほど理解出来る。
母ちゃんはそれほどまでに、父ちゃんの事を愛しているのだ。
あんなにもモテなさそうな父ちゃんを疑うだなんて、愛とは人間を盲目にしてしまうのだろうか。

父ちゃんとは違い、清四郎は明らかにモテる。
大昔からずっと。
男にも女にも。
年上にも年下にも。
恋する前は知ろうともしなかったその事実。
えらい男に惚れてしまったと気付いた時、もう抜き差しならないほど清四郎に溺れていた。

「いつまでこんな気持ちを味わうんだろうなぁ。」

もちろん、清四郎の愛は痛いほど感じている。
信じたいと思っている。
けれど、その心と、気を揉むという事は全くの別問題だ。
安心と言う名の浴槽にどっぷりと浸かることは、まだまだ出来そうもない。
時々、そのせいでイライラさせられるけど、それこそが清四郎への愛のバロメーターでもあるような気がして、むしろそんな自分を可愛く感じる。

「何を考えてるんです?」

いつの間にか風呂から上がり、背後に立たれていた。
驚いた所為で振り向き様、名刺を落としてしまう。

「な、なんでもない。」

落ちたソレを長い指先で拾い上げ、清四郎はふっとほくそ笑む。
下りた前髪が小さな滴を垂らしていた。

「なかなか良い女でしたよ。」

ズキン!
胸が音を立てて痛む。
いくら真実でも、他の女のそんな評価は聞きたくない。
そんな意地悪な清四郎は嫌いだ。
かといって、感情のまま喚く事も出来ず、じっと床を見つめた。
なけなしの忍耐を総動員させながら。

ぽたり・・・・

それが涙だと先に気付いたのは清四郎だった。

「悠理。」

覗きこまれて慌てて顔を背けるが、それを大きな掌が引き戻す。

「泣くくらいなら怒れ。お前らしくもない。」

「な、なんだよ!!この浮気野郎!」

「他には?」

「誰彼なしに誘われやがって!!」

「それで?」

「こんな名刺、持ち帰んな!捨てて来いよ!!」

「わかりました。捨てましょう。」

そう言って清四郎は目の前でそれを真っ二つに破った。

「ようやく吐き出せましたね。ここのところ随分我慢していたでしょう?」

「うっ、うっ、だってぇ………」

涙腺は呆気なく崩壊し、ボタボタと流れ落ちる涙は、清四郎の唇で次々に吸い取られる。

「素直なおまえを愛してます。もっと心を曝け出していいんですよ?夫婦なんですから。」

「い、いつまでもそんな嫉妬深い奥さん、嫌になんない?」

「誓ってならない。絶対にだ。」

盤石な言葉。
清四郎はいつもこの安心を与えてくれる。

「ふ、ふえ~ん、せぇじろぉ!!」

抱き寄せられた胸は、広くて暖かい。
その揺るぎない場所に、沈んでいた心はゆっくりと定着する。

「心配することなんて何もありません。」

「・・・うん。」

「僕の心も身体も、おまえだけのものなんですから。」

「うん。」

「無意味な我慢をするのだけは止めてくださいね?そんな悠理は見たくない。」

ゆっくり見上げると、清四郎の細められた瞳から、赤面するほど分かりやすい愛情が溢れ出していた。

―――それが全てだ。

辿り着いた答えに、ようやく心からの笑顔を見せることが出来た。