「おまえ、芳川家のお嬢さんとはどうなっとるんだ。」
夜遅くまで困難な手術を手掛けていた父は、帰宅するなり恒例のマッサージを要求してきた。
今週はあと三回、予約が入っている。
元々筋肉質な身体ゆえ、適度な運動をしなければ凝りはどんどん酷くなるのだが、ジム通いは断固として嫌だと言う。
磨り減る神経と長時間の立ち仕事。
やはり医者ってのは楽じゃあない。
「彼女とは何でもありませんよ。見合いも断ったと知っていますよね?」
うつ伏せになった父へと跨がり、逞しい両肩に手を置く。
10時間にも及ぶ大手術に疲弊した身体は、こちらの‘気’を全て持っていかれるような感覚が襲ってくるため、決して油断ならない。
「そりゃあ分かっとる。だが、病院には週刊紙の噂を真に受けた人間が多くてな。やれ、式はいつだの、あちらへ婿入りするのか、だの。まったく、五月蝿くて敵わんわ。」
ぼやく気持ちもよくわかる。
うちの病院には、各業界の名士や経済界のご隠居が多く入院しているため、暇をもて余す彼らが、井戸端会議代わりに噂話の真相を聞きたがるのだ。
以前、悠理と婚約した時も、看護師達が辟易するほどの騒ぎだったらしい。
「申し訳ありませんね。万が一結婚するにしても、相手はもう決まっていますよ。」
父を安心させる為の台詞だったが、もちろんそれは本心だ。
強張った背中が少し柔らかくなる。
「彼女は今回のことで機嫌を損ねとらんかね?」
悠理の機嫌もそうだが、何よりも母親の怒りが恐ろしい。
今のところ報復措置に打って出た、という情報は耳にしていないが、あの笑顔の下に隠された般若の様相を思い浮かべるだけで背筋が凍えた。
彼女のプライドは、名峰エベレストよりも遥かに高い。
「そちらは……………何とかします。」
珍しく曖昧な返事をする息子に、何か思うところがあったのだろう。
緩慢に振り返った天才外科医の拳が、僕の眉間を軽くヒットする。
「痛いですよ!」
「清四郎。ご婦人を舐めていると、これよりも痛い目に遭うぞ。おまえはまだまだ知らんことが多い若造だ。謙虚になれ、謙虚に。」
舌打ちしたい気持ちを堪え、
「…………心得ておきます。」
と、苦し紛れの返事をする。
━━━━謙虚。
それは、僕の辞書に最も欠けている言葉であることは確かだ。
・
・
・
・
「ふーん。清四郎が初恋の相手ねぇ。」
大学の部室にて━━
あからさまに不機嫌な可憐が呟く。
仲間に全てを語るつもりはなかったが、嘘や誤魔化しばかりでは解決の糸口は見つからない。
今回、僕は本気で「芳川美春」と縁を切るための手段を模索していた。
「しっかし、見た目からは想像も出来ないほど口の悪いお姫様だね。悠理も可哀想に。好きで馬鹿に生まれついたわけじゃないのにさ。」
美童のあけすけな慰めに気を良くするはずもなく、悠理はブスッと口を尖らせたまま、そっぽを向いた。
そんな顔も愛らしい。
「どーせ、あたいはあいつの言う通り馬鹿だもん。」
「拗ねない、拗ねない。あんたの良いところは他にもあるんだから、いちいち気にしなくていいじゃないの。」
「・・・・たとえば、どこ?」
「え?あー・・・そうね。わりと顔は整ってるでしょ?無駄に体力あるし、身体能力も高いし、呆れるほど単純な性格で……底無しの胃袋だし………むしろ胸は底上げした方が良いような気もするし………」
「おい、ちっとも良く聞こえないぞ?」
「あ、あら。これは言葉のアヤよ。ほほほ。」
誤魔化すように口笛を吹く可憐の横で、沸々と育ててきた怒りをぶちまけたのは野梨子だった。
「わたくし、こういう遣り方、大嫌いですわ!!さほど親しい間柄でもないくせに、他人をそこまで貶めるなんて………傲慢過ぎますわよ!」
「確かにそうだ。基本、特権階級の人間は人を見下すような教育は受けてないはずなんだがな。まぁ………今回の厄介なポイントは、お姫さんが清四郎に惚れてるってとこだろ?普通なら男冥利に尽きるんだろうが………素直に喜べねぇな。」
頭を掻き苦笑する魅録に、美童が便乗する。
「過ぎた恋心は狂気に結び付くからねぇ。僕みたいに上手くかわさなきゃ、おまえ、いつか刺されちゃうよ?」
自分では上手く断ったつもりだが、人から見ればどうやら緩いらしい。
手の内を見せぬまま、蜘蛛のように絡め取ろうとして来る相手に、一体どのような防御方法が有効だと言うのか。
僕はようやく、あのパーティへ参加したことを強く悔やんだ。
鼻先にぶら下げられた甘い人参は、その後の苦労を充分予感させていたというのに━━━
自分の愚かさを痛感する。
「何、グダグダ言ってんのよ!その女の鼻をあかしたいなら、あんたたちがとっとと婚約発表すればいいだけの話じゃない!既成事実だってあるんだし、おばさんに頼めば半日で雛壇を用意してくれるでしょ?」
可憐の大胆な提案に飛び上がった悠理は、目を皿にして驚いた。
僕は‘なるほど’と思うに留まったが。
「こ、婚約~!?」
「何驚いてんのよ?悠理。昔と違って、好きで付き合ってんでしょ?相思相愛だってとこ世界中にアピールしたら、芳川美春もこれ以上打つ手ないんじゃないの?」
「あ、そか。」
「わたくしも良いアイデアだと思いますわ。少なくとも疑惑を払拭するには有効な手、ですわね。」
「てか、ありきたり過ぎない?」
「ありきたりでもやる価値はあるぜ。こうなりゃ、どでかい婚約披露会と洒落込もうじゃねぇか。」
注がれる五人分の視線は期待に満ちている。
だが僕にはどうしても確かめなくてはならないことがあった。
「悠理。」
「な、なにが?」
「本当にいいんですか?今度はたとえ和尚を呼んできたとて、解消などさせませんよ。」
過去を思い出し、言葉を意味を噛み締めたのか、彼女は照れながらも小さく頷いた。
「んなもん…………良いに決まってんだろ。」
本当にわかっているのだろうか?
これは互いの人生を縛る約束。
気まぐれで解消することはもう出来ないし、絶対にさせない。
「あたい………おまえのこと、好きだし……………」
こみ上げる歓喜に思わず抱き締めそうになったが、ニヤニヤと笑う四人の視線に気付き、寸でのところで耐える。
奴等がいなければ、衝動のままに押し倒していたところだ。
「コホン。では早速、婚約指輪を選びに行きましょうか?可憐、お願いしますね。」
「え!?ゆびわ?」
「当然でしょう。昔からのしきたりですよ。前回はバタバタしていて買えませんでしたから、是非とも気合いを入れて選んでくださいね。」
目を瞬かせる悠理に可憐が割り込む。
「やだ、清四郎のくせに気が利くじゃないの!あたし、今からママに電話して何個か見繕ってもらうわ!」
可憐の意気込みは怖かったが、きっと品質に間違いはないだろう。
以前のようなイミテーションだけは、さすがに勘弁してほしいが。
その日、悠理が選んだイエローダイアモンドの指輪はとても彼女らしかった。
最高級の石を取り囲むブリリアントカットのホワイトダイヤ。
存在感抜群のデザインだ。
「これ、金持ちっぽくない?」
「本当の金持ちが言うと嫌みですよ?」
「へへへ。」
細い指に煌めく約束の証は、後にシンプルな結婚指輪と重ねるため、派手な装飾くらいがちょうど良い。
「清四郎ったら、頑張るわねぇ。」
「このくらいなら何とか。」
「ふふ。いやに男前じゃない。」
普段、ジュエリーには興味がないはずの悠理も、その華やかな色が気に入ったのか何度も空に翳し、輝きを見つめた。
意外と乙女なんだな、と改めて認識する。
「持ち帰りますか?」
「うーん、ちょっと緩いから無理かも。」
「もちろん、きちんとお直ししなきゃね。婚約会見までには間に合わせるから安心して?あら、そういえばいつなの?」
あきこ夫人の言葉に僕は苦く笑う。
「実はこれから、彼女の両親に挨拶する予定なんです。日程についてはまた後ほど連絡するということで・・・。」
「分かったわ。頑張ってね。」
夫人は茶目っ気たっぷりにウインクした。
二人に見送られ、ジュエリーアキを出たとき辺りは既に暗く、忙しなく帰宅する人々で通りは賑わっていた。
「なぁ、清四郎。」
悠理が喧騒の中、見上げてくる。
「考えたらさ、別に急いで婚約しなくても……あたいがあの女にきっちりケジメつけたら良いだけの話だよな?」
「…………どうしたんです?まさか婚約に尻込みしてるんですか?」
「ち、違うけど・・・・ただ・・」
「ただ?」
不安な表情で目を泳がせる彼女を、苛立つように急かす。
「………おまえさ…………あたいのこと、ほんとに好き?もしかして流されてない?」
「え?」
「ちゃんと、恋………してる?」
意表を突く質問にショックを受け、鼓動が強まる。
果たして僕はそんなにも口下手なんだろうか?
そんなにも未熟な恋人なんだろうか?
たしかに心よりも身体が先行したことは否めない。
だけどすべてを覚悟し、想いを告げ、彼女を手にしたはずだ。
悠理の価値を再認識し、愛しさを噛み締めた上で、己の人生を全て賭けた。
それでもまだ『恋している証拠』が足りないとでも言うのだろうか?
「恋なんかくそくらえだ!」
思わず吐き出した答えは驚くほど刺々しかった。
「せ、せぇしろ?」
「僕はおまえが大事だと言っている!!好きだと言っている!いずれは人生を共にしたいと言っている!!これ以上何が足りないというんです!?」
「ち、ちがう!そんな意味じゃなくて……清四郎はその…………あたいと居て幸せなのかな……って………不安で…………」
怒声が怖かったのだろう。
悠理は涙目で首を振る。
━━━解りきったことを聞くな!
僕は人の目も気にせず、彼女を抱き締めた。
強く、
骨が軋むほど強く。
「恋かどうかなんてもう関係ないでしょう。僕はおまえしか欲しくないんだ。悠理が居ないと肌寒く感じるほど、側に居てほしいと願ってるんですよ。不安に思う前に肌で感じとりなさい!」
「う…………うん。わかった、わかったから…………恥ずかしいし、もうやめよーよ。」
そう言われても、簡単に離すことが出来ない。
己の狂暴性に驚きを覚える。
痛む胸は理解されぬことへの憤懣か?
それとも、恋よりも強い感情に囚われる苦しみか?
どちらにせよ僕はもう、悠理への執着でがんじがらめとなっていた。
たとえ誰に反対され、邪魔されようとも、徹底的に抗い、成就してやる。
背中に回した手から、激しい鼓動が伝わってくる。
戸惑いと羞恥、そして何よりも彼女の悦びが感じられ、僕は更に力を加えた。
痛みを感じるならそれでいい。
僕の想いは、決して冗談でも、気のせいなんかでもないんだ。
真っ赤な耳の内側に息を吹き掛ければ、悠理はぶるりと身を震わせ脱力する。
「さぁ、挨拶にいきましょう。」
「………うん。」
電話で呼び出された名輪がやって来るまでの間、僕たちは雑踏の片隅で、二人の世界を守るかのように、ずっと抱き合っていた。
「さぁ、ここにサインを━━━」
血管の浮き出た老人の手が、万年筆を差し出す。
あまり目にすることの無い、一枚の紙。
そこに書かれた不愉快極まりない名前。
机に置かれた小さなタブレットの液晶には、この世で一番愛しいと感じる女が存在する。それは怒りだろうか?
いつもの生命力に富んだ瞳が、暗く澱んでいる。
━━━悠理。待っていろ。
僕は与えられた万年筆を持ち、そこに自らの名を書き込む。
怒りに震える手は、それでも僕らしい文字を綴って見せた。
・
・
・
・
遡ること数十分。
大学の講義を終えた僕は、悠理との待ち合わせのため、駅前の喫茶店で文庫本を開いていた。
彼女は美容室に寄ってから合流すると言っていた為、恐らくは遅刻するだろう。
腕時計で時間をチェックしながら、コーヒーをお代わりする。
特に面白くもない内容に、それでも
読み耽っていると、テーブルの向こう側に人影が見えた。
━━━悠理?
そんなわけないか。
彼女はいつも騒がしく、「待った?」とも聞かず、椅子にドカッと腰かけるのだから。
ゆっくり見上げるとそこには想像もしていなかった人物が…………。
あの忌まわしきパーティ以来の再会。
老黄忠を思わせる男、『桧生原文伍(ひさはらぶんご)』だった。
「お邪魔しても良いかね?」
低く、しゃがれた声で問う。
モスグリーンのジャケットに水色のシャツ。
パーティの時よりも柔和に感じるのは、きっとネクタイを締めていないからだろう。
一目で高級と判るスネークウッドの杖を携えていた。
「……………どうぞ。」
これが魅録の言っていた、相手側の出方か。
そう納得して、椅子を勧める。
中途半端な時間帯のせいで、店内はがらんどう。
すかさずやって来た店員に、彼はブルマンを注文し、穏やかな視線で僕を見つめた。
「ほう。カントを読むとは………」
「あまり好みではありませんがね。」
「わしもだ。二冊ほど目を通して投げ捨てた。」
僕は本を閉じると、ブルマンと共に運ばれてきた珈琲に口を付ける。
「偶然………ではありませんよね?」
「偶然の方がよかったかね?」
「さぁ?どちらとも………。」
出方を探るよう言葉を濁しながらも、僕はこれが偶然ではないと確信していた。
果たしてこの老人、何を考えている?
「君は………美春を気に入らんか?」
単刀直入。
用意された答えは一つだ。
「そのことなら、彼女にはきちんとお断りしたはずですが?それに僕はもう婚約を交わした相手がいます。」
「知っておるよ。だがもう一度考え直すべきだと、わしは思うがな。」
「…………僕はそこまで執着されるような男じゃありませんよ?」
明らかに謙遜と解る言葉に気を良くしたのか、彼の手からカップが離れ、口元が緩む。
「以前も言ったが、わしはあらゆる業界に顔が利く。美春を選んでくれたなら、悪いようにはせんよ?総理大臣の座すら与えてやれる。」
「・・・・・・。」
どうやら彼には、‘芳川美春’を特別に可愛がる理由があるらしい。
「何故そこまで、彼女の我儘に付き合うんです?」
ストレートに尋ねた僕へ、彼は目を細めて笑った。
「我儘………なるほど。確かに我儘なんだろう。しかしこれは、あの子が初めて言った我儘だ。わしはどんなことをしてでも叶えてやりたい。」
「人の心を無視した遣り方でも?」
「……君がその台詞を言うのかね?」
━━━━狸ジジイめ。
どうやら事細かに調べあげているらしいな。
僕の過去を。
恐らくは悠理とのことも。
「そんなにも彼女が可愛いんですか。」
「そりゃあ可愛い。目に入れても痛くはないほどに。………あの子はわしの大切な娘だからの。」
「………………え?」
「美春はまさしく宝。姉にそっくりな美しい娘に、将来わしが持つ何もかもを与えるつもりでおる。」
娘?
どういうことだ?
動揺を隠せず瞠目した僕をそのままに、老人は記憶という名の物語を語り始めた。
「他界した妻は体が弱く、息子一人を産むのが精一杯でな、わしは強く娘を望んだが、妻が二度目の出産に耐えられるはずもなく、諦めるしかなかった。」
彼の遠い目が揺らぐ。
「知人に紹介された美春の母親と、初めて情を交わしたのは、あの子が生まれる二年ほど前のこと。美しい黒髪と涼しげな目元が姉に似ていて、わしは一目で気に入った。」
どうやら彼は、‘他界した姉’とやらに、ことのほか執着しているようだ。
━━━おぞましい。
何故こんな話を聞かされているのか。
不快感がこみ上げてくる。
「妊娠を期に、長く独身だった美春の父親と縁を持たせた。どんな不満も洩らせないほどの持参金と共にな。美春の父親は少々冷たい男だったが、親としての役目はきちんと果たしてくれた。おかげで美春は良い子に育ち、あとは幸せな結婚をしてもらえればそれで満足だ。わしがあの子を可愛がる理由もこれで解っただろう?」
━━━━何が幸せだ!
肩の荷が下りたといった表情が、老人の顔に浮かび、それが益々僕を不快にさせた。
「…………僕にそんな危険な話を暴露したのは何故です?」
「ふ。君はもう、逃げられないからだよ。」
彼はジャケットの内ポケットから、小さなタブレット端末を取り出すと、テーブルの上に置き、それを僕に見せた。
流れる映像はとてもクリアだった。
薄暗い倉庫のような場所に、決して見間違えるはずのない人物。
━━━━悠理!
柱にロープでくくりつけられ、猿轡で口を封じられている。
どうやらリアルタイムらしい。
彼女に近づく男が、威嚇される様子までも映し出されていた。
「色んな業界に通じていると伝えただろう?息子の知り合いには、こういった汚れ仕事を安くでこなす中国人が何人も居る。わしも老い先が短い。せめて美春の……たった一つの願いを叶えてやりたいのだよ。」
「…………呆れましたね。とても正気の沙汰じゃない。」
画面から目が離せない僕に、彼はうっすらと笑って見せた。
「そうかもしれん。だが君は彼女がボロボロにされるところを見ていられるかね?もちろん殺しはしない。ただ、この可愛らしいお嬢さんが、二度と太陽の下で笑うことはないだろうが………。」
その台詞の示唆する事は明らかだ。
僕は歯噛みしながら、老人を睨む。
「一体、何を………すればいいんです?」
とてつもない怒りが自ずと声を震わせる。
膝の上で握りしめた拳に爪が食い込む。
余裕の笑みと共に、彼はジャケットから取り出した一枚の紙を広げ、万年筆を置いた。
「これに署名を。」
「・・・・・用意のいいことで。」
「書き終えたら、外で待つ美春の元へ行き、あの子の指示に従えば、お嬢さんは解放してやろう。」
「剣菱を………敵に回してもいいんですか?」
「その名に怯えるくらいなら、最初からこんなことはせんよ。」
「…………でしょうね。」
頭はフルスピードで回転していた。
この悪どい老兵は決して侮れない。
ここから先、待ち受ける事態も、ある程度想定している。
━━━━待っていろ、悠理。すぐに助けてやる。
僕は血が滲むほど奥歯を噛み締めながら、『夫となる人』と書かれた下に、自らの名前を綴った。
・
・
・
喫茶店を出たすぐの大通り。
真っ黒な外車の横に、細身の運転手が佇んでいた。
恭しく扉を開けられ、中へと滑り込む。
‘芳川美春’は、黒いタイトスーツに身を包み、真っ赤なルージュを引いていた。
驚くことに、いつも印象が異なる。
今日の彼女はまるで野性の獣。
いや、むしろ獣を捕獲した支配者のようだ。
妖艶な笑みを口元に湛え、僕を見つめている。
「お疲れさま。」
「………随分な手を使いますね。」
「ええ。だって貴方は私が唯一望んだものだから。叔父様は喜んで手を貸してくださったわ。」
子供っぽい口調で、視線に女を絡ませる。
つくづく厄介なタイプの人間だ。
「僕の心を無視して、それでも手に入れたい、と?こんなことで貴女は幸せなんですか?」
「幸せに決まってるでしょう?だって私はこれから先、貴方を夫として堂々と紹介できるのよ?初恋が実るなんて………私たちの世界では奇跡だわ。」
「奇跡………ねぇ。」
心浮き立つのか、彼女の仕草はいつもよりも幼い。
両手で頬を包み、のぼせたように溜め息を吐いた。
「彼女には申し訳ないけれど、きっと剣菱家の令嬢ともなれば、また素敵な男性が見つかるはず!心配しなくていいわよ。」
胸糞悪い台詞を澱みなく告げる女。
怒りの臨界点を軽く突破している僕にとって、それはあくまでも禁句だった。
「悠理にとって、僕以上の男はこの世にいませんよ。」
そう断言した僕は、芳川美春の細い首へ掌を押し付け、一気に力を加えた。
それは言葉だけでなく、呼吸をも奪う行為。
カエルが潰されたような声が車内に響く。
「悠理はどこだ?」
異様な状況を察知し、慌てて振り返った運転手に尋ねる。
「ぞ、存じません!!お嬢様を離してください!」
「冗談だと思ってるのなら大間違いですよ?僕は本気です。」
より一層指に力を込め、彼女の蒼白した顔を彼に見せつける。
見かけから判断するに、生真面目で主君に忠実な男。
喉をギリギリと締め付けられているお姫様を見捨てるはずがない。
僕の胸には冷たい怒りと、残虐な思いが交差していた。
このまま絞め殺しても後悔はしないだろうことは、自分でも分かっている。
だが悠理を救うために、それはまだ出来ない。
手段を選ばぬ中国人にかかれば、救いようがないほどボロボロにされることは火を見るより明らかだった。
この女は言わば人質。
あの老獪な男が手を下す前に、悠理を助け出さねば━━━
これは自分が蒔いた種でもある。
後悔は後から後から押し寄せるが、それに呻いている暇はない。
僕は最優先事項を頭に浮かべ、腹を括った。
命の危機に瀕した女の涙が手の甲を濡らし、言葉に出来ぬ不快感がこみ上げる。
酸素を求め、もがく両腕。
それをひとまとめにし、もう一度運転手に恫喝すると、冷や汗を流す男は吃りつつも、僕の望む答えを口にした。
「わ、わかりました!!教えます!今から向かいますから………その手を離してください!」
気丈な令嬢の苦しむ声は聞くに耐えないのだろう。
涙ながらに懇願する。
「なら、早く車を出せ。」
「は、はい。」
ゆっくりと手を離せば、芳川美春は大いに咳き込んだ。
僕は決して美童のようなフェミニストではない。
たとえ相手が女であろうと、それ相応の報いは受けさせる。
「こ………こんなことっ………!!」
息も整わぬまま、鬼のように睨み付ける彼女は、むしろ’らしい‘と言えよう。
「僕を本気で怒らせたのは貴女だ。」
両腕を離すわけにはいかない。
彼女の首元から紺色のスカーフを抜き去ると、それでしっかりと縛り上げ、詰め寄った。
「いいですか?悠理に少しでも傷がついていたら容赦しませんよ?貴女にも貴女の家族にも、あの老人にも、この世の地獄をたっぷりと味合わせてやる。」
「ひっ……!」
奥歯がカチカチと音を鳴らす。
美しいはずの顔は歪み、まさに魔女そのものだ。
車は静かに大通りを走り出した。
生い茂るポプラの木々が視界を流れ行く。
僕の胸は過去に感じたことがないほど昂り、ただひたすら、悠理に会いたいという切望で埋め尽くされていた。
辿り着いたそこは、輸入貨物が一時的に保管される、港近くの倉庫街だった。
「あ、あのAと書かれた建物です。」
駐車場にきちんと停車させた運転手の声は、失笑を誘うほど震えている。
それは果たして、誰に対する怯えか。
僕はこの下らない騒動に幕を引くべく、芳川美春を車から連れ出し、指差された無機質な倉庫へと向かった。
すると━━━━
「よっ、やっぱり来たな。それも女連れかよ!」
「魅録!?」
予期せぬ人物がそこには居た。
まさかの援軍。
倉庫脇の階段から姿を現した彼は、ニヒルに微笑む。
「どうして………ここが?」
「まぁ、話すと長くなるが………簡潔に言うと、悠理をずっと監視してたんだ。前に言ったろ?『このままじゃ済まない』って。奴等の裏の繋がりなんざ、調べれば直ぐに解るさ。中華系の新興マフィアとコネクションがあって、これまた容赦のない連中でよ。巷のヤクザにすら煙たがられているんだ。菊翁のおやっさんに頼んで、事細かに動向を探ってたから、今回の話も直ぐに耳に入って来たってわけ。」
「相変わらず、素晴らしいネットワークですな。感心しますよ。」
「だろ?さ、とっとと悠理を助け出そうぜ。どうせ腹空かせて喚き散らしてるに違いない。」
「同感です。」
持つべきものは、裏社会に通じた友人か。
先ほどまで感じていたやり場の無い怒りをきれいに削がれた僕は、魅録に感謝しつつも、黙ったままの女を引き摺りながら、倉庫の扉を静かに開けた。
チラと背後を窺えば、車の横で青ざめ、震える運転手が、この後どうすべきかを迷っている。
さっさと『桧生原文伍』へ連絡すれば良いだろうに、芳川美春を握られている以上、下手に動けないようだ。
━━━━それほど『大切なお嬢様』というわけか。
僕は密やかにほくそ笑んだ。
「魅録……」
「あん?」
「この女を頼みます。」
「は?」
「ここはやはり、僕が先陣を切ることにしますよ。」
「いや、ちょい待て。そりゃお前さんは強いが、相手もなかなかの遣り手だぞ?それに十中八九チャカ(銃)を持ってる。」
「分かってます。それでも悠理を助ける男は僕じゃなきゃダメだ。そう気付いたんです。」
察しの良い魅録は直ぐに納得すると、「援護射撃は期待すんなよ?」と片目を瞑り、先を促した。
そう。
他の誰でもない。
ここは僕が助け出さねば━━━
¤
¤
¤
扉の向こうは冷えた空間だった。
明かりは青白い蛍光灯のみ。
切れかけの電球がチカチカ瞬いている。
多くのスチール棚は天井まで伸びていて、そのほとんどが東南アジアからの物資。
恐らくはインスタント食品か何かだろう。
無造作に積み上げられていた。
男達の声が徐々に耳に届き始めると、僕は深く息を整え、慎重に足音を消す。
そして戦闘体勢に入るため、下腹にぎゅっと力を込めた。
倉庫の角。
悠理は恐らく、そこに居るのだろう。
ふと見れば、大型の懐中電灯が棚のフックにかけられている。
薄暗い中、品番を確かめる為か?
大きな電池を二つ抜き取り、息を殺しながら、声のする方へと近付いた。
ピリピリと神経が昂る。
聞こえてきた会話は、すべて広東語で交わされていた。
どうやら今宵行われる、親善サッカーの話をしているようだ。
一人、二人………いや四人。
男たちの陰で、その表情までもは見えないものの、悠理の衣服に乱れはなく、静かな様子で椅子に腰かけている。
━━━猿轡を咬まされたままか?
チリチリとした怒りの中、それでも僕は安堵していた。
下卑た男どもの餌食になっていなかったことだけが、胸に沁みる。
もちろん、タダで済ますほどお人好しでもないが。
しかし………この倉庫は窓が少ない。
日光を防ぐため?
はたまた防犯対策か。
彼らがいる場所には、遮光シートの貼られた小さな窓が、天井付近に備え付けられているだけ。
決して逃げ道にはならない。
ここでようやく、抜き取った電池が役に立つ。
僕は軽く腕を回すと、その窓目掛けて、思いきり放り投げた。
ガシャ!
予想よりも高い音でヒビ割れる窓。
のんびりとした空気は一掃され、男たちは直ぐ様、臨戦態勢をとった。
が、そこですかさず天井の蛍光灯にも電池を投げつける。
パリン!
辺りは瞬時に、闇へと変化する。
狙い通り、男達はパニックになった。
僕は確実に、容赦なく、彼らを倒していく。
暗闇の中、鈍い音が響く恐怖に、普段はプロとして働く男たちも出方を躊躇っているのだろう。
まともな明かりも無い空間では、仲間と相撃ちしそうで銃の引き金は引けない。
夜目の利く人間が居なくて助かった。
三人を確実に仕留め、四人目のひときわ恰幅の良い男は顎を砕いた。
小気味よい音と低く呻く声。
もんどりうって倒れ込む。
それらを振り返りもせずに、僕は囚われたままの悠理へと駆け寄る。
ご丁寧に目隠しまでされていた彼女の、全ての拘束を取り払えば、悠理は暗闇の中でも僕と認識し、嬉しそうに抱きついてきた。
「せぇしろ!」
━━━おまたせ
いつもの軽口はもうきけない。
腕の中の存在が重すぎて、愛おし過ぎて、無事であることを神に感謝するだけ。
僕は………こんなにも悠理を愛しているのか。
・
・
・
男達を確実に気絶させた後、手足が痺れたと喚く彼女を抱きかかえ、倉庫の外へと向かう。
ウズウズと待ち構えていた魅録は、「ごくろうさん!」と労いの言葉を放ち、緊張から解き放たれたような爽やかな笑顔を見せた。
反面、後ろ手を取られたままの芳川美春は、憤怒の表情で僕たちを見上げている。
そこに、一縷の反省すら見当たらない。
「菊正宗清四郎。……………私を選ばなかったこと、きっと後悔するわよ。」
憎しみと執着の入り交じった視線は、彼女から美しさを奪う。
僕は芳川美春という女性の執念を、改めて痛切に感じた。
「この世界で、たとえ僕と貴女だけになったとしても……絶対に選ばない。選びたくない女性だ。」
憎悪から悠理を隠すよう、歩き出す。
彼女の顔はもう、二度と見たくなかった。
「くそ!あの女、後でしこたまぶん殴ってやる!」
怒りが収まらない悠理はしかし、拘束されていた手足の痺れが引かない為、悪態を吐くだけに留めた。
本当は暴れたくて仕方ないのだろう。
歯軋りしながら、僕の胸板に頭をぶつけてくる。
そんな直情的な性格すら愛しくて、より一層、抱える腕に力を込めた。
サイレンの音が近付き、瞬く間に複数のパトカーが姿を現す。
魅録が前もって連絡していたのだろう。
中からは警視総監の怒号すら聞こえ、辺りは一気に喧騒に包まれた。
彼はやはり現場に立ちたくて仕方ないのだ。
いつも以上に張り切った様子を見せている。
だが、ホッとしたのも束の間。
予想だにしなかった惨劇は、その直後に起きた。
「あ、おい!!こら!」
警官へと引き渡す瞬間の出来事。
隙をついた芳川美春が、どこに忍ばせていたのか、果物ナイフを手に走り出す。
両手でしっかりと掴みながら、こちらを目がけ、突進してくる。
「清四郎!!」
もちろん、魅録の声よりも早く身体は反応したが、彼女は意外と俊足で、あっという間に距離を詰められる。
━━━ちっ、まずいな。
僕は悠理を庇うよう抱えたまま、反撃体勢を取る。
芳川美春は………既に夜叉の顔をしていた。
哀しい女の、報われぬ顔。
が、しかし、僕たちの間に割り込んできたのは、車の側でおろおろしていたはずの運転手だった。
「お嬢様!!」
運の悪いことに、その小さなナイフは彼の右胸を深く貫いてしまう。
僕は呆然とした。
何故そんな余計なことをするのか、と。
僕ならば、芳川美春を片足で封じることだって出来たのに。
脂汗を流し倒れた男は、痛みに呻きながらも、主人の手を握りしめたまま決して離そうとはしない。
「美春お嬢さ……ま……もう……お止め下さい。」
「し、志倉…………」
「昔の……貴女に……戻って……あの時の……………」
彼の意識があったのはそこまでで……運転手、’志倉大伍’はその場で息を引き取った。
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あれから半年。
芳川家の闇は一部のメディアに取り上げられたものの、結局は大いなる力が働き、完全に揉み消されてしまった。
万作・百合子夫妻の怒りは相当なものだったけれど、悠理が無事であること、そして芳川美春が檻の中で過ごす事に手を打ち、それ以上騒ぎ立てることはしなかった。
いつもの日常が戻っても、悠理はたまに不安げな表情を見せる時がある。
そんな時、僕は殊更優しく語りかけ、愛されているという実感を彼女に与えるのだ。
あの事件からこちら、片時も悠理を離せない。
身を焦がすような焦燥と怒りは、もう二度と味わいたくなかった。
「清四郎!今度こそ、皆であの島に行こうよ!」
「うーん。本当は、二人きりが良いんですけどね。」
「ば、馬鹿!ほとんど、毎日、二人っきりじゃんか!」
悪態を吐きながらも頬を染める純な婚約者は、あと半年ほどで、正式に妻となる。
その半年すら焦れったくて仕方ない僕は、やはり随分と変わったのだろうな。
煌めく指輪が馴染んできたその手を取り、僕の胸に重ねると、彼女はキョトンと首を傾げた。
「伝わりますか?」
「え?」
「ドキドキしてるでしょう?」
「あ、うん……」
「僕は一生、おまえに恋し続けます。」
「ふぇ!?」
「やはり……恋じゃなきゃダメだ。惰性や条件等で伴侶を選ぶなんて……絶対に出来ない。しちゃいけない。」
胸の高鳴り。
慟哭にも似た、愛しく切ない想い。
それらを礎にして、長い旅路を二人で歩く。
たとえ恋が愛に変わり、情へと移ろっても、その宝石のような輝きが消えることは決してないのだから。
(完)
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事件の後。
「あら、魅録。何見てるの?」
午後のティータイムにハーブティを注いでいた可憐は、真剣な面持ちで何かを読み耽る魅録に声をかけた。
今日は珍しく二人きり。
野梨子は母親の用事で京都へ。
美童はいつものごとくデート。
悠理は清四郎に付き添われ図書館に向かった。
どうやらレポートの提出が間に合わないらしい。
相変わらずの面倒見の良さに苦笑するも、それこそが本来の二人であると、可憐は和やかに見送った。
「事件の調書だよ。ちょっくら拝借してきたんだ。」
「そんなもの・・・持ち出して良いの?」
「ダメに決まってる。」
人の悪い笑みを口元に浮かべた魅録は、しかしその紙の束から目を背けない。
「亡くなった運転手は・・・・『桧生原文伍』の息子だった。美春にとって親子ほど年の離れた兄となるわけだ。」
「ええ、そうみたいね。」
「母親の消息は不明だが、18の頃、桧生原に連れられやって来て、それからずっと芳川家で働いていたらしい。」
「あのおじいさん、浮気性なのね。ほんと最低だわ!」
苦々しい表情で可憐は吐き捨てる。
魅録は同意しながらも、一つの可能性を口にした。
「もしかすると、’志倉大伍’は桧生原文伍と皇族に嫁いだ姉の間に産まれた禁断の子、なのかもしれないな。」
「え?」
「あのじいさんの姉に対する執着は、ちょっと異常だと思わないか?」
大胆な推測に、可憐は更に不快な表情で目を逸らす。
「もし・・それが本当だとしたら、志倉大伍は行くアテもなく、閉塞感に包まれた屋敷で心を殺しながら過ごしてきたってことよね。」
「そう。だから美春という花のような存在を、殊の外可愛がっていた。」
「・・・・・ええ。」
「全部、俺の憶測だけどな。」
口には出さなかったが、魅録はもう一つの可能性を頭に浮かべていた。
美春はもしかすると、『志倉大伍』の母親について知っていたのではないか。
そしてあの二人は、昔から傷を舐め合うような関係だったのではないか。
美春が自分の出生について知っていたかどうかは分からない。
桧生原文伍がこっそり伝えていたのかもしれないし、強固に秘密を守っていたのかもしれない。
全ては各の心の中に留められていて、それを曝くことは難しそうだ。
「どうでも良いことさ・・・今となっては。」
「芳川美春は実刑確定なんでしょう?」
「恐らく、ね。大叔父も含めて檻の中で暮らす事になるだろ。親父が張り切ってるからな。」
「百合子おばさまの根回しも怖いわ。」
「くくっ、そっちの方が効果的だろうよ。」
ハーブティを差し出された魅録は、分厚い調書を茶封筒に戻した。
━━━━━いつも感じる事だが、女ってのは怖いぜ。
美春も、その母親も。
それに恐らく、弟と愛し合っていた桧生原文伍の姉も・・・・・。
魅録の中で女性に対する畏怖の念が膨らむ。
周りにはただでさえ、強く逞しい女性が多いのだ。
実母を含めて。
━━━━━━悠理、おまえは可愛いままでいろよ。男ってのは意外とメンタルが弱いんだぜ?
そんな淡い期待は、悉く裏切られることだろう。
何せ彼女は、この世で一番強いとされる女性の血脈を、しっかりと受け継いでいるのだから。