パーティから四日経ったその日。
講義が終わり部室へと顔を出した僕は、5人に囲まれた状態で雑誌を突きつけられた。
それは時事ネタから芸能まで、フレッシュな話題を多くの分野から取り上げる、一般大衆向けの所謂、娯楽雑誌だった。
コンビニなどでよく見かけるが、真偽性に関しては甚だ疑問が残る為、僕はあまり目を通してはいない。
「あんた、これ、何?」
眉を吊り上げた可憐が、顎を反らしながら指し示す。
「これ?」
目を凝らすまでもない。
モノクロの見開きページにはでかでかと「平成のラブロマンス!」との文字が。
泣けるほどダサいタイトルだ。
「あんた、いつの間に’御姫様’の婚約者になったのよ!」
「…………!」
ギクリ、胸が鳴る。
写真をよくよく見れば、目線で隠されてはいるものの、それは間違いなく自分であり、一緒に写っている女性は’芳川美春’だった。
テラスでの一枚。
重なる二人がはっきりと写し出されている。
光量の少ない中、暗視カメラを駆使したのだろう。
妖しさ満点の出来映えとなっていた。
「こんなロクでもないゴシップ誌に取り上げられるだなんて、清四郎らしくないじゃない!なに油断してんのよ!まさかこの女にも手、出してんじゃないでしょうね!」
「あり得ません!ただ転びそうになった彼女を後ろから支えただけです!」
憤怒する可憐を真っ向から否定すれば、涼やかな声が遮った。
「それよりも内容が問題ですわ。『プリンセスが選んだお相手は一般人!芳川家令嬢とK病院院長子息、結婚まで秒読みか!?』ですって。こんなでたらめな記事、信じる人はどのくらいいるんでしょう。」
忌々しいとばかりに眉を顰める野梨子。
僕もまた苦み走った表情だったのだろう。
可憐が口を噤んだ。
「………油断したな、清四郎。噂とは違って、随分とあざといお姫さんじゃねーか。だいたいおかしいと思ったんだ。あっちはすんなり諦めるような家柄でもねぇしよ。」
煙草をプカプカ吹かす魅録はどことなく楽しそうである。
彼の読み通り、相手側はこの見合いに相当乗り気だったに違いない。
最初は僕も叔母への義理で承諾したが、今はそれすら後悔させられている。
全く……慣れない事をすればこれだ。
「さすがにこんな記事が世間に広まったら、相手の親もおまえを逃さないんじゃない?まさに向こうの思う壺だよ。どうする?清四郎。」
挑戦的な美童の言葉に、僕は不愉快さすら感じた。
事実とは大きくかけ離れた、出所も知れぬ文章が紙面を赤裸々に飾っている。
たった二度しか会ったことのない相手だというのに、よくもまあ、想像力だけでここまで書けるものだ。
それともこれは「彼女」による創作なのだろうか?
隣の座る悠理のヘノ字の口からは今にも不満が溢れ出しそうで、僕は首を傾げ覗き込む。
僅かな後ろめたさを抱きながら。
「パーティ………行ったのかよ。」
それについては言い訳出来ない。
素直に頷く。
「なんで?」
いつもよりオクターブ低い声が不機嫌さの度合いを物語っている為、慎重に言葉を選ぶ。
「招待された客の中に是非とも会いたい人物がいたので………。」
「そんなこと聞いてるんじゃないやい!何であたいも連れてってくれなかったんだって言ってんだ!」
「それは…………恐らくおまえには退屈なパーティかと思いまして………」
言葉を濁しながら宥めようとするも、彼女の反応は予想の斜め上を行く。
いや、むしろ想定内か?
「馬鹿野郎!せっかくタダでうまいもんが飲み食い出来たのにぃーー!せぇしろぉの薄情もん!!」
それか?
それが問題なのか?
呆気に取られた僕はホッと胸を撫で下ろし、悠理の柔らかな髪を梳いた。
’女の嫉妬‘なんかよりも、まだまだ’食への貪欲さ‘が似合う彼女。、
こういうところが’らしさ‘なんだと思えば、心が和み、僕に彼女から離れることを厭わせる。
「済みません。これからは必ず誘いますよ。」
「約束だぞ?」
「ええ、約束します。その代わり、いついかなる場所でも、おまえを僕の恋人として紹介してもいいですか?」
「そ、そんなの………………い、良いに決まってんだろ!」
途端、熟した林檎よりも赤くなった頬が、僕の気持ちに追い風を送る。
照れ屋な悠理がそっと上目遣いで見つめ、絡み合う視線が自然と二人の距離を縮めてゆく。
━━しかし
ゴホンゴホン!
わざとらしい咳払いに甘い空気は一刀両断された。
「おまえら………そういうことは周りを見てからやれ!」
「二人とも恥知らずですわ。」
「覚えたてのカップルって、これだから嫌がられるんだよねぇ。」
「お、覚えたてって………あんたたち……まさか!!」
美童の意味深なウインクは、彼女達に余計なことまで暴露してしまったようだ。
見た目よりも純情な可憐。
目を白黒させながら、小声で僕たちに詰め寄ってくる。
「………や、やったの?」
「………ご想像にお任せします。」
「……………うそ。」
つり上がった美しい眉が徐々に下がり始め、がっくりと肩を落とす。
「悠理に先を越されるだなんて………さすがにショックだわぁ。」
他の皆も可憐同様、複雑な感情に囚われ、すぐにでもこの場から立ち去りたくなったのだろう。
落ち込む彼女をよそに、いそいそと帰り支度を始めた。
鞄片手に魅録が振り返る。
「とにかく、相手側から何らかのアクションがあるはずだ。覚悟しとくんだな。」
「ご忠告どうも。」
分かったところで、どう対処すれば良いと言うのか。
自慢の脳は、納得のいくアイデアを捻出しない。
もちろん、どんな手を使われたとて、気持ちが変わるわけもないが━━━
・
・
・
「その女…………おまえのこと、本気で好きなのかな?」
一戦を終えた後の心地よい微睡みを、彼女の幼い呟きはあっさりと破り裂く。
今は他の女のことなど考えたくも無いというのに……こういうところがまだまだ子供だ。
初めて繋がったあの日から、悠理は僕の家に入り浸っていて、夕飯から朝食まで食べていく始末。
もちろん、彼女との関係は互いの親に報告済み。
さすがにこの年にもなって、陰でこそこそするのはみっともない。
責任云々を問われる間柄ではないものの、だからといって秘密裏に関係を進めるのも限界がある。
うちは比較的リベラルな人間の集まりだと自負しているが、今回のことを一番喜んだのは母親だった。
元々そりが合わない叔母のやり方には反発していた為、諸手を挙げて賛同してくれたのだ。
姉貴は言わずもがな、「次は失敗するんじゃないわよ!」と発破をかけてくる。
親父に至っては、「おまえの人生だ。好きにしろ。」と半ば投げやりな応援だ。
悠理と本気で交際するということは、この先’剣菱漬け’の人生が待っている。
昔、望んだように…………いや、昔以上に僕の意思は強固なものとなっていた。
・
・
「彼女は僕のステイタスが好ましいと思ったんですよ。」
自虐的に言って、立ち上がろうとした気怠げな腰を抱き寄せる。
二日と空けず抱いてきた身体に僕こそが溺れきっているという事実は、もはや明白だった。
「そ、それだけ?」
横倒しにし、背中から抱き締めたまま足を絡ませ、うなじを攻める。
悠理の身体は性感帯の集まり。
どこに触れても甘い溜め息を洩らす。
「恐らくは……。でも僕にとってはどうでもいいことです。元々この縁談は断るつもりでしたからね。」
「そなの?………相手、頭良くて、結構美人だったんだろ?」
「頭はともかくとして、顔はおまえの足元にも及びませんよ。」
滑り出す言葉は全て本音。
事実、彼女ほど綺麗な顔立ちをした女はそうそういない。
もちろん色気という点ではまだまだこれからだが、今は膨らみかけの蕾をとことん愛でたいと感じる。
むしろ完成形の花よりも艶やかな姿を見せてくれることだろう。
「…………嘘つき。」
それでも小さな嫉妬に苛む彼女が可愛くて、再び柔らかな胸を揉みながら、快楽の海へと引きずり込んでいく。
「嘘じゃない。おまえは口を閉じていたら、世界一美人だ。」
「せ、世界一ぃ!?そりゃ言い過ぎだろ?」
「わりと本気でそう思ってますよ。とても綺麗な顔立ちをしてる。もちろん、それだけが魅力じゃありませんけどね。」
しっとりと濡れたままの下半身に手を伸ばし、快感の粒を優しく揉み込めば、彼女の潜んでいたフェロモンがぶわっと膨れ上がった。
「んぅ!!ぁ、だめ………そこ………」
否定の言葉すら甘い。
先ほど散々舐めしゃぶったせいで、未だぷっくりと尖ったままの花芽。
そこにとろとろの蜜を塗しつけ、更に捏ね回していくと、悠理は呆気なく絶頂を迎え、切なげな涙を溢した。
素直で可愛い躰。
どれだけ触れていても飽きることがない。
たとえ繋がらずとも、こうした悠理の反応を見るだけで、満足感に胸が支配されていく。
「あ、あたいだけなんて………やだよぉ。」
おいてけぼりの身体が切ないのだろう。
悠理は僕を見返り、懇願した。
「良いんですか?」
「……………うん。」
素直な彼女をありとあらゆる技法で啼かせたい。
僕の技に溺れ、僕なしでは呼吸することすら不可能にしてやりたい。
そんな獣じみた感情を押し殺し、優しく口付ける。
まだまだ物足りないと泣く、その愛しい涙を吸い取りながら━━━━
その日は昼から大雨で、講義を受けた後、しばらくの間図書館で、教授から渡された論文に目を通していた。
ドイツ語の添削など面倒極まりないが、頼まれた限りは完璧に仕上げたい。
この雨の中、学生達は早々に帰宅したのだろう。
図書館には誰一人として見当たらず、静寂の中、年季の入った柱時計の針だけがカチコチ、音を響かせていた。
悠理は母親との約束で午後から早退し、今日はもう会えない。
穏やかに、ゆっくりと進む一人の時間をどのように活用するか考えた末、ここを選びやって来たのだ。
間違った選択だとは思わないが、ここ最近、彼女と過ごす事が多かった所為か、一人で居るのが妙に肌寒く感じる。
昔はこういった時間が何よりも貴重だったはずなのに。
不思議なことだが、そんな変化を嬉々として受け入れている自分が新鮮に思えた。
これもまた恋心が引き出す、新たな感情か?
二重ガラスの向こうでは、容赦ない雨が降り続いている。
当分の間、止みそうになかった。
・
・
添削を始めて30分くらい経過しただろうか。
コツコツ…………
響く足音に、ようやく人の気配が感じられた。
図書館には多くの蔵書と共に、パーテーションで区切られた自習コーナーが20個ほどある。
僕はその一つを陣取り、作業を続けていたわけだが、暫くすると足音はピタリ、背後で止まった。
「広い学舎ですのね。ずいぶんと探しましたわ。」
振り返らなくても声でわかる。
世間では‘平成のプリンセス‘の一人として扱われる芳川美春。
魅録の調べによると、彼女は貴族階級の中でも際立った存在で、群がる数多くの男たちを散々蹴散らしてきたらしい。
山のように持ち上がる縁談。
しかしそれらを断り続け、今回、僕との見合いをわざわざセッティングしたのだ。
━━━━他にも有力な候補は居ただろうに……僕に白羽の矢を立てたのは何故だ?
「まさか一人で来られたんですか?マスコミが嗅ぎ回っているでしょうに。」
「いつものことです。気になりませんわ。」
僕は静かに椅子を回転させ立ち上がると、彼女のその姿に目を瞠った。
清楚なデザインの白いワンピースが、雨で体に張り付いている。
色白の頬は青みすら帯びていたが、紅を差した唇だけは妙に赤く、広角はほんのり上向きに持ち上げられていた。
「傘を持ってこなかったんですか?そんな格好で…………風邪を引きますよ?」
「あら、優しい。心配して下さるの?でも、もう気付いているんでしょう?私がしでかした過ちを。」
「それとこれとは話が別です。とにかくそのままでは………」
言い終わる前に、彼女は躊躇うことなく僕の胸へと飛び込んでくる。
思ったよりも瞬発力があったため、避けることも出来ない。
彼女の身体から立ち上る雨の香りが鼻をついた。
「どういうつもりです?」
「………理解ある振りをしたけれど、貴方を諦められないの。だから誹りを受ける覚悟でああいった方法を用いたんです!卑怯ですよね?でも私はどうしても貴方と結婚したい………したいんです!」
シャツ越しに感じる冷えた肌が震えている。
どれほどの間、僕を探し回っていたのだろう。
確かにここでは携帯電話の電源をオフにしていた為、連絡を取ることは不可能だったが、それにしてもここまで………………
「少し落ち着いてください。とにかくその格好のままでは拙いでしょう。」
首を振り、駄々を捏ねる彼女を強引に引き離す。
見上げてくる、情念を孕んだ瞳はじっとりと重かった。
下着の透けたワンピースからは水滴が落ちている。
いくら学内を歩いている学生が少ないとはいえ、こんな成りで歩くとは━━━大胆にもほどがある。
僕は羽織っていたシャツを脱ぎ、彼女の体を包んだ。
夏とはいえ決して油断は出来ない。
考えを巡らせた挙げ句、部室へと連れていき、大判のタオルと美童の私物であるドライヤーを与えた。
そして僕は温かいコーヒーを淹れる。
仲間も皆、この雨の中、早々に帰宅したのか。
その証拠に、マグカップは綺麗に整えられていた。
「この部屋は?」
「仲間と集まる部室ですよ。まあ、ちょっとイレギュラーな形で手に入れたんですがね。」
「雑多な空間なのに、落ち着きますわ。」
5分ほどかけて長い髪を乾かした彼女は、先ほどの取り乱した姿を忘れさせるほど凛とした表情で辺りを見渡す。
どちらも間違いなく‘芳川美春’なのだろうが、こうコロコロ変わられると扱いにくくて仕方ない。
コーヒーを差し出せば、嬉しそうに笑い、受け取る。
その笑顔はまだ幼い少女のようであり、大人びた女性にも見える。
アンバランスな内面。
物分かりの良さを見せながらも我儘を振るう、両極端な性格にもそれは感じられた。
向かい合ったままコーヒーを啜る僕たちの間を沈黙が走り抜け、雨に加え、風の吹き荒れる音が耳を打つ。
見合いの時、積極的に会話を持ちかけてきた彼女は、ここにきてとても静かだ。
まるでこの時間を少しでも引き延ばしたいかのように。
ようやく口を開き、そこから飛び出した言葉は想定内のものだった。
「私を選んで下さいませんか?きっと良い妻になります。」
「何故、そこまで僕に執着するんです?他にも立派な肩書きを持つ男はわんさかいるでしょう?」
抱いてきた疑問をぶつける。
すると彼女は未だ半乾きの頭を振り、それを否定した。
「肩書きで選んだんじゃありません!私は…………菊正宗さんだから結婚したいと思ったんです。貴方だから、叔母さまに強引に頼み込んでまで見合いの席を設けて頂いたんです。」
「…………僕たちは以前に会っていましたか?」
覚えの良い頭に彼女の面影はない。
「大叔父の奥さまが亡くなられる直前、私は菊正宗病院に足を運んだことがあります。その時、まだ高校生でしたが………お父様と話す貴方を廊下でお見かけして、不謹慎にも一目で恋に落ちてしまいました。でもその頃の私には親同士が決めた年上の許嫁が居たので、当然恋心など口に出すことも憚られて………去年、彼が駆け落ち同然で他の女性と結婚したのを機に、菊正宗さんとのお話を望むようになったんです。」
「そんなこと………どうして初めてお会いした時に教えてくれなかったんです?」
「お伝えしていたら、きっと私の想いを気味悪く思われたことでしょう。恐らく二度目の約束を結ぶことは出来なかった………。」
聡明な彼女の言う通りだ。
元々義理を果たすためだけの見合い。
このように重苦しい執着を知れば、僕は直ぐにでも逃げ出したことだろう。
「仰る通りです。僕は二度と貴女には会わなかったでしょうね。」
そんな言葉に、一瞬傷付いた様子を見せた彼女は、珈琲をもう一口啜った。
それは何か言葉を飲み込むような仕草にも見え、純粋な想いを守ろうとする痛々しさが滲み出ている。
「私の…………どこがいけませんか?」
恐る恐る、しかしその目だけは獲物を仕留めるような輝きで、彼女は尋ねる。
「貴女があの夜言ったんでしょう?人の心はどうしようもないと。だからといって決して嫌いなタイプではないんですがね。手段を選ばぬやり方も。」
「では何故?」
「僕には決して失うことの出来ない大切なものがあるんですよ。」
「……剣菱様?」
「そう。そして彼女と共に歩く僕自身の人生です。」
断言した僕に彼女の目が瞬く。
「け、剣菱様にどれほどの魅力が?名ですか?莫大な財産?それとも古い友人だから?」
納得できないと首を振る姿は、悠理よりよほど幼い。
少なくとも彼女は、こんな風に相手を貶めることはしないだろう。
いつも体当たりで真っ直ぐにぶつかってくる。
あの光輝くパワーからは誰も逃げられるはずがないのだ。
僕はもう、随分と前から…………悠理の虜だった。
「他人から見れば我儘な小娘にしか見えないでしょう?しかし彼女はどんなシチュエーションにおいても逞しく生きていける、そんな圧倒的な力を常に蓄えているんですよ。だからこそ、僕は……いや僕たちは彼女の側に居ることを望むんです。貴女はその立派な’家柄‘から解放された後、一体どんな魅力が残りますか?」
痛いところをついてしまったのか、輝いていた瞳がとうとう昏く濁った。
「貴方に………私の何が分かると言うんです?」
「分かりませんね。分かりたくもありません。もう僕になど執着せず、他の人を探しなさい。お互いに時間の無駄だ。」
「そんなこと出来ない!!」
振り乱した髪が空に舞う。
その細い足でひらり、テーブルに上れば、彼女は僕を目掛け、乱暴に飛び込んで来た。
ガタガタ……
木製の椅子が二人分の体重に悲鳴をあげたが、共に倒れることはなんとか免れる。
「貴方は私の初恋なの。絶対に諦められないわ!!どんな手を使っても欲しいの!!お父様も、お母様も、大叔父様も、皆祝福してくれる!私には、貴方が望むもの全てを与えることが出来るわ!」
そう叫んだ彼女は、湿ったワンピースを潔く脱ぎ捨てた。
薄紫の下着に包まれた豊満な体。
雨に冷えた肌は血管が透けて見えるほど青白い。
捨て身の作戦に出た彼女は、とうとう涙を溢す。
「バカなことは止めなさい!」
「いやっ!!」
駄々っ子のように歯を食い縛り、僕の胸に身体を押し付けてくる姿は、とても由緒正しい家の娘とは思えない。
「私、なんでも出来るわ。きっと貴方を悦ばせてあげられる!」
「無理です。それにここまでの想いがあるのなら、何故もっと早く僕へ気持ちを伝えなかったんです?貴女は結局、自分と家を切り離すことの出来ない、子供のような女性なんだ。」
「だから何?私は、今の私のままで菊正宗さんが欲しいと言ってるの!自分を磨く努力だってしてきたわ。我慢も。なのにどうしてあんな成金娘に負けるのよ!!!」
カチン
怒りの沸点に辿り着く。
おまえこそ、悠理の何を知っているというのだ。
彼女を侮辱する言葉を吐くその姿こそ、どれほど醜いか分かっているのか?
冷えた怒りが腹の底から湧き上がる。
轟く雷鳴に共振する窓。
雨足が更に強くなる。
僕は掌に爪を食い込ませることで、怒りに震える拳を必死で留めようとした。
・
・
・
バン・・!
大きな音と共にひんやりと湿った風が吹き抜ける。
ここは旧学舎の片隅にある倉庫のような建物で、少々安普請に感じる扉が悩みの種だった。
「悪かったな!!成金娘で!!」
勢いよく開かれた扉の向こうには、何故か大きな傘を手にした悠理が睨み付けるよう立っていて、芳川美春は目にした途端「キャッ」と悲鳴をあげ、瞬く間に床に落ちたワンピースを拾い上げた。
これぞ、まさしく修羅場━━━━
この状況は流石に誤解を与えるだろう。
悠理のピリピリとした怒りが湿った空気を震わせ、僕の思考を完全に停止させる。
だが、それ以上に驚いたのは次の瞬間だ。
「あらあら、最近の若いお嬢さんは、とても大胆なのねぇ。悠理、貴女ものんびりしていられないわよ。」
「お…………おばさん。」
生きたまま地獄を味わうとは、このことだ。
僕がこの世で一番苦手、そして敵わないと認識する唯一の女性。
剣菱百合子夫人が、悠理の背後からそっと現れる。
そしてその側にはお抱え運転手である名輪の姿までもが。
彼もまた、濡れた大きな傘を抱え、目を丸くしている。
どうして彼女達が揃いも揃ってこの場にいるのか、などという疑問はあまりにも些細なことだった。
戦慄が走る。
もちろん僕だけではない。
声よりも、言葉よりも、その光る目がまるで獲物を捉えた大蛇のように感じられ、芳川美春はビクンと肩を竦めた。
二十歳やそこらの小娘に、太刀打ち出来るはずがないのだ。
「清四郎ちゃん。お夕食を誘いに来たんだけど、お邪魔だったかしら?」
艶のある唇から飛び出す盛大な嫌味が、心臓を鷲掴みにする。
冷や汗が、そして動悸が止まらない。
まさに蛇に睨まれた蛙そのもの。
「と、とんでもない!是非、ご相伴に預かります!」
慌てて襟元を正すも、彼女の攻撃はおさまらなかった。
「あらぁ、いいのよ。無理しなくても。そこの綺麗なお嬢さんとお取り込み中なら無理にとは………「取り込んでなんかいません!」
被せるように叫び、慌てて悠理の元へと駆けつける。
母親譲りの眼光。
奥歯をギリギリと噛み合わせる音が響く。
それを敢えて無視し、出来るだけにこやかに微笑みかける。
「悠理、わざわざ済みませんね。さぁ、行きましょう。」
恋敵から目を逸らそうとしない彼女の肩をそっと抱き、先を促すが、悠理の足は床に張り付いたかのように動かない。
「悠理?」
「なんで、こんなとこであの女と二人きりなんだよ。」
「それは…………」
きちんと説明すれば彼女は信用してくれるだろうか?
半裸の女と一人の男。
どこから僕たちの話を聞いていたのかはわからないが、ここはやはり真実を伝えるべきか━━━
しかし………
「折角いいところだったのに………邪魔されちゃったわね。」
口を開こうとした途端、からかうような口調で彼女は告げた。
芳川美春は先程の動揺をすっかり消し去ると、濡れたワンピース姿で清楚に微笑む。
その姿からは、真っ向から対峙する気迫が感じられ、決して尻尾を巻いて逃げる算段ではないと分かった。
顔色を変えた悠理が一瞬怯むも、口を閉じようとはしない。
「貴女よりも私の方が彼に相応しいって話をしてたのよ。」
もしかすると彼女は魔女なのか?
その滑らかな口をホッチキスで縫い止めてやりたくなった。
「な…………なに?」
「剣菱悠理さん。私、知ってるわよ?貴女、大学でも底辺の成績なんですって?英語も日本語も不自由な野生児で、特技は喧嘩?さすが、成り上がりのお嬢様はひと味も二味も違うわね。」
毒を吐き続ける姿に目眩がする。
ゾッとするほど醜い。
悠理とて、そんなテンプレート通りの嫌味は数多く耳にして来ている。
だからこそ、彼女の母親は必死に勉強させ、少しでも愛らしいレディに仕立てあげようと画策していたのだ。
もちろん多少の趣味も混じってはいるが………。
「ねぇ、私に菊正宗さんを譲ってくださらない?いくら厚顔無恥な性格でも、彼ほどの男性に自分が釣り合ってるとは思っていらっしゃらないでしょう?それとも………まさか本気で?」
悠理が怒りに震え出す。
僕は収めていたはずの拳を再度握りしめた。
しかし不穏な空気を遮ったのは、またしても百合子夫人だった。
「ほほほ。見かけよりも随分と強気なお嬢さんのようね。将来が楽しみだこと。」
コツコツ………
紫色のハイヒールを鳴らしながら、芳川美春に一歩ずつ近付いていく。
「貴女の仰る通り、剣菱(うち)は成金です。日本を牛耳れるだけの財力を持つ、成金ですわ。でもねぇ、お嬢さん。よ~く考えた方がよろしくてよ?貴女のお家がどういったピラミッド構造の上に成り立っているのかを。それも社会勉強のひとつですからね。」
耳打ちするように囁いて、「あ、そうそう」と続ける。
「私、下らないゴシップは好みませんの。見るに耐えないでしょう?そんな下品な雑誌社には重々警告させて頂きましたわ。」
「え?」
「貴女のおうちがどれほど高尚な家柄だろうと、こういう遣り方はあまり美しくないと思いません?うちのような成金ならともかく………ねぇ?」
勝負は目に見えて明らかだ。
だが、芳川美春の口元には臍を噛む様子が滲み出ている。
悠理はそんな彼女を見据えたまま、僕の腕をギュッと握りしめた。
━━━ 一筋縄ではいかないな。
そう予感したのは間違ってはいない。
しかし百合子夫人の攻撃は、流暢に流れ出していた毒を取り敢えず止めてくれた。
お姫様のプライドはいたく傷つけられたことだろう。
そんなことよりも、僕にとって、悠理が受けた傷のほうがよほど気にかかったが━━━
・
・
・
雨足は少し弱まっていた。
名輪の車に乗り込む直前、「おばさん、済みません。悠理と二人きりにさせてください!」と告げ、彼女と傘を同時に抱きかかえる。
そして流れていたタクシーに押し込み、僕の自宅へと向かった。
いつもなら「食欲」を優先させる彼女が大人しくそれに従い、曇った表情のまま、自分の膝小僧を見つめている。
今、彼女の中にどのような葛藤があるのだろう。
白い手をそっと握り、何度も優しく擦った。
誰も居ない自宅に辿り着いた途端、僕はそのまま彼女をベッドに押し倒した。
性欲ではない。
冷えた服を剥ぎ取り、心の芯まで凍り付いたような悠理を温めるためだ。
掛け布団の中で二人、裸体のまま抱き合うだけ。
言葉よりも、熱と鼓動で僕の心を伝えたかった。
「嫌な思いをさせてしまいました………」
結局は長い沈黙に耐えきれなくて、慰めの言葉をかけてしまう。
悠理は胸板に押し付けていた顔をそっと上げ、潤んだ瞳で僕に問いかけた。
「あたい………おまえに相応しくないの?」
「あんな戯れ言、気にするな。」
「でも………あいつの言うとおり、馬鹿だし、下品だし、野生猿だし………ちっとも女らしくないし………」
洗脳されてしまったのか?
自分自身で吐く毒に、彼女は黒く冒されていくようだった。
「どうしたんです?らしくありませんよ。僕に想いを告げてきたときの勢いはどこにいったんです?」
「あ、あれは………その、必死で…………」
「僕が欲しかったんですよね?そして見事手に入れた。人の心を大きく動かしておいて、今更逃げようったって無駄です。」
「あっ!!」
身を捩る彼女の首に強く噛みつく。
こちらの執着を示すかのように。
「逃がしませんよ、悠理。おまえは僕だけに与えられた存在だ。」
「い、いたっ」
「僕が好きなんでしょう?」
「す、好きだけどぉ………んっ!」
鬱血した痕を舐め取り、悠理の喉に食らいつく。
必死で唾液を飲み込もうとする動きがまざまざと伝わってくる。
「なら、余計なことなど考えず、僕だけを見ていろ。」
「清四郎……」
涙を零し始める痛々しい姿。
この涙を歓喜に変えることが出来るのは僕しかいない。
「あんな女のことなど……忘れるんだ。」
そんな風に訴えながらも、僕自身、芳川美春への憤りは腹の底に沈殿したままだった。
━━━━━見ていろ。悠理への侮辱は5倍にして返してやる。
外は再び風雨が吹き荒れている。
まるで僕の心をそのまま表現しているかのように………