番外編4

番外編1

番外編2

番外編3


 

「…………なんか、今日、綺麗ですよね?」

トイレで鉢合わせた職場で一番若い女の子。
大きな目と長い睫毛は、たいていの女子の憧れでもある。
ふっくらした唇には今年流行のリップがたっぷり塗られ、まるで蜂蜜のように光り輝いていた。

「そう?ちょっと化粧が濃いからかな?」

「あ~、デートですかぁ?羨ましいな~。」

「違う違う………!」

そう否定しつつも、ふと毎日繰り返してきた濃厚な夜のシュミレーションを思い出し、頬が赤くなる。
そんな気味の悪い女の夢想など、彼女が気付くはずもないが。

今夜はいよいよ彼に会えるのだ。
幸せに胸躍り、肌の調子も万全。
化粧のノリがいいのは当然と言える。

「ほんと。大人な雰囲気ですよ!とっても色っぽい。」

心からの賛辞は自信へと直結し、私は無意識に背筋を伸ばしていた。
後は予約したホテルの一室でドレスに着替えるだけ。
以前よりも前向きに、そして選びに選んだ衣装を身に纏う喜びに、震えるほどの興奮を覚えていた。

鞄の中にはハンカチに包まれた小さな薬が一つ。
影なる支援者に貰った怪しげなそれを、愛する彼のグラスに巧く仕込まなくてはならない。
もちろんこれは犯罪で、私はその危険な賭けに打って出た。
覚悟を決めたのだ。

すべてはあの人を手に入れるため。
夢のような夜を心ゆくまで楽しむため。
ゲスな女の…………唯一の望みを叶えるため。

記念すべき部屋はジュニアスイートを選んだ。
高層階から見下ろす夜景は既に見慣れたものだったけど、今夜は特別美しいと感じる。
テーブルにはシャンパンを。
予定通りコトが運んだなら、これは朝の祝杯へと変わるはずだ。

大きな鏡に映った自分を見て、昔よりもずっとドレスを着こなせていると自賛する。
磨かれた髪とデコルテ。
高級エステのおかげか、以前よりも腰は括れ、胸も少しだけサイズアップした。
ハイヒールに戦くこともなく、絞まった足首を堂々と披露出来る。
あの人にどこを愛されても大丈夫。
お金をかけただけの美しさはきちんと表れているのだから。

パーティが始まる20分前。
私は高鳴る鼓動を必死に押さえながら、まずは化粧室に立ち寄った。
少し濃いめのリップを軽く塗り直していると、後ろを通る二人の女性が目に入る。
印象に残るフェミニンな香りと、白檀を連想させる凛とした香り。
タイプは違えど、どちらも個性的な美人で、つい視線誘導させられた。

「ねぇ、野梨子。あんたのドレス、この前パリで買ったやつよね?そんな色だったかしら?」

「さすがは可憐。よく気付きましたわ。実はあまりにも気に入ってしまって色違いで取り寄せましたの。」

「へぇ~!色味でいうならそっちの方が似合ってる。野梨子らしいじゃない。」

「ふふ。」

どこかで………
どこかで見た二人の顔。
ああ、そうだ。
“彼”の友達。
いつも周りにいる華やかな面々。
特に色気むんむんの彼女は、記憶に強く残っていた。

そう気付いた私は、直ぐに化粧室から飛び出した。
いくら雰囲気が変わったとて、もし彼女たちにバレてしまったら、警戒されるかもしれない。
ふかふかした絨毯敷きの廊下に出ると、招待客は随分と増えてきていた。
ロビーには賑やかな笑い声が響く。
違和感なくフォーマルを着こなす本物のセレブたち。
このパーティーに相応しい人間たちがここに集っているのだ。
私がどう足掻いても仲間入り出来ない対岸の人々。
皆、心からの笑顔を振りまいている。
彼らの世界はこんなにも煌めいていて、鬱陶しいほど眩しい。

「あら清四郎ちゃん、やっと来たわね。悠理はどうしたの?」

「すみません。夕べの酒が残っているようで、少し遅れて来るそうです。」

ドキッとした。
その名前に。
その声に。
その………話し方に。

泥棒猫のようにこっそり振り返ると、人混みの中に目立つ婦人が一人。
頭に孔雀の羽を差した年増の美人と、その向こうに会いたくて仕方なかった彼の凛々しい立ち姿があって、一瞬呼吸が止まる。
喜びと驚きで鷲掴みにされた心臓が、痛いほど震えた。

ブラックフォーマルに身を包んだ彼は、にこやかにその婦人と話し続けていた。
メディアや雑誌でたまに見かける姿よりずっと格好良くて、引き締まった体からは大人の色気を感じる。
相手の女性は言うに及ばず、剣菱のマダムだ。
年齢よりも若く見え、その奇抜な衣装はどこにいても目を奪われる。

「相変わらずマイペースな子ねぇ。今はいいけれど、アメリカに渡ったらしっかりしつけてやってちょうだいよ。」

「子育てはわりと頑張ってる方ですよ。家事は最初から諦めてますし。まぁ、向こうではお手伝いさんに任せることにしましょう。」

「まぁ、清四郎ちゃんがいいなら、私が口を挟む必要はないのだけど………。」

二人の会話からもたらされた衝撃の事実。

アメリカ?
いつ?
会話から察するに、近々引っ越ししてしまうってこと?
この日本から、居なくなる?

鈍器で殴られたような衝撃に、私は思わず目の前に立っていた人のジャケットを掴んでしまった。
目眩がする。
瞼の痙攣とともに。

すると━━━━

「おい、あんた。大丈夫か?」

見上げた其処には、鋭い目つきの二枚目。
こちらを窺うように見つめていた。
髪色といい口調といい、この場に似つかわしくないタイプだが、それでも心配そうに声をかけてくれる。

「ごめんなさい。少し眩暈がして………」

しばらくの沈黙。
その意味も分からず、私はドレスの裾をはたき、取り繕った笑顔を見せた。
そこでようやく相手の顔が僅かに硬直していることを知る。

「あの………なにか?」

「あんた、“津乃峰 結花”………だな?」

ギクリ。
冷や汗が流れる。
この場で私の名を知る人はほぼ皆無なのに、なぜ?
この男は一体誰なんだろう?

尖った印象を持つ彼に、すかさず腕を掴まれた私は、背中を流れる冷えた汗を感じ、身を震わせた。

「は、離してください。」

「どうしてここにいるんだ?」

辺りを気にするような小声につい従ってしまう。

「貴方、一体誰なんです?」

噛み合わない会話の中、朧気に思い出してきたのは、あの人の側にいた仲間の一人。
そういえば確かに彼だ。
黒いコートを着て、夜なのにサングラスをかけていた。
なんてことだろう。
何故こんな偶然が起こってしまったのだろう。

動揺する私を引きずるよう、静かに喫煙コーナーへと連れ込まれる。
逃げ場のない場所で二人。
彼は出入り口を大きな背中で完全に塞いだ。

「あんた………まだしつこく清四郎を追ってるのか?」

図星だったが、答えることはしない。
ここは誤魔化す必要性がある。

「…………たまたまです。私の彼が、このパーティーに招待してくれたから。」

「彼?誰のことだ?」

「あ、あなたに言う必要がありますか?」

牙を剥いたとて、この男は全く動じない。
場数が違う。
空気が鋭く尖ったガラスのように震える。
それでも敗戦覚悟で、正面を見据えていると………

「確かに。俺の早合点だったのかもな。わりぃ。」

なんとまあ、素直に謝罪した。

「こちらこそ………ごめんなさい。つい。」

「あんた、清四郎のことはもう忘れたのか?」

「……………“忘れた”と言えば嘘になりますが、今は恋人も居ますし………」

嘘がつらつらと口から滑り出す。
自分でも驚くほどに。

「…………そうか。」

気まずそうに髪を掻き毟りながら、ワイルドな瞳の彼は出口を開け、紳士的に促した。
私だって気まずかった。
あの人に余計な告げ口をされるかもしれない。
不安は増幅する一方だ。

「あいつ………清四郎はあんたが扱えるような男じゃないと思うぜ。」

「…………え?」

「いや……聞き流してくれていい。呼び止めて悪かったな。」

彼の真っ直ぐに伸びた背中が遠くなっていくのに合わせ、私の鼓動もゆっくりと落ち着く。

しかし
しかし、だ。

どうしてこうも上手くいかないのだろう。
涙が溢れそうになる。

私の願いは………確かに罪深い。
でもたった一夜を望むことがそんなにも悪いのだろうか。
胸を抉るような痛みを、何度も押し殺してきた。
追い求めることを諦め、己の足下だけを見ていた時もある。

それなのに━━━━

忘れようとした頃に彼は現れるのだ。
私の前に。
よりいっそう魅力的な姿で。

「欲しいだけなのに………」

たった少しの時間が、
彼の視線が、
彼の温もりが、
欲しいだけなのに。

ロビーの喧噪はいつしか消え去り、皆が会場に入ったことを知らせる。
いよいよパーティが始まるのだ。

夢よりも夢のような華やかさで。
リアル過ぎるほどの冷たさで、

私と彼の夜が━━━始まる。